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 今夜が夏祭りであることは、ある意味ではオレに幸いしていた。
 時間がやや早いせいもあるが、時々行くカウンター席だけの小さな居酒屋には自分以外の客が居なかった。恐らく誰も彼も祭りの方に興味があるか、もし興味が無くとも誰かに誘われればそちらへ行くのだろう。
 とはいえ、もう少し宵が深まれば祭りに飽きた一部の連中が流れて来るだろうから、厄介な知り合いに捕まる前にアルコールを流し込んで早めに退散しようとは思うが。


 二十歳になるかならないかの頃から先輩連中に連れられて居酒屋やバーにはよく出入りしていたが、さほど酒が好きという訳でもなく、美味いかと訊かれればとりあえず頷く程度のものである。
 だからこうして気分の浮き沈みのために酒を呑むということは初めてだった。
 何でもいいから強めのものを頂戴、と言って出されたものはウィスキー...つまり琥珀色の液体で、それでまたみたらし団子なんかを思い出してしまってカウンターの中の年老いた女店主に苦笑いを向けた。
 訳のわからない笑みを向けられた店主は曖昧に首を傾げて微笑み返した。
 その液体にも一緒に出されたお通しにも口を付けられないで、ただこどもが遊ぶみたいに氷をカラカラと鳴らして、その表面がゆっくりと溶けてなめらかな肌になっていくのを眺めていた。
 氷の音、店主が包丁を研ぐ音と、時々溜め息、遠くに聴こえてるお囃子。
 それらの音は意思も意図も持ち合わせていなくて、ただの静寂よりずっと静かで心地好い。それだけで酔ってしまえそうだな、と思った。
 が、オレのそんなささやかな癒しを、ひとつの気配が無遠慮に断ち切る。
 店の暖簾をくぐってオレの姿を認めたその男は、盛大に舌打ちをするとずかずかとこちらへ歩み寄ってきた。

「こんな処で酔っ払ってるたぁ、いい身分だなカカシィ...」

 殺気に近い怒気を孕んでアスマがオレを真っ直ぐに睨んだ。
 自分の今の沸点が低いのはよくわかっていたから、視線を外してその怒気を受け流す。

「はは、まだ酔ってないんだけどね。...アスマこそどーしたの、紅と...っ、」

 恋人同然である紅と祭りに繰り出さないのか、と茶化すのを遮って、襟首を掴まれて外した視線を無理矢理に戻された。
 数秒間睨み合う。
 何をするんだ、とは、言わなかった。言う必要も無い。彼が怒りをぶつける理由は明白だった。
 恐らく、俺が去った後サキホに会ったのだろう。
 そこに思い当たるくらいの想像力はある。

「あらいやだ忍のお兄さんたち、喧嘩は外でやって頂戴ね」

 戸惑いながら、それでもどこか慣れた風に店主が言ったので、アスマも仕方無しに手を放したが目は睨み付けたままだ。

「ごめんね女将さん、喧嘩じゃないんだ。これはこいつの挨拶なのよ」

 あらそう?と気が抜けた顔で店主が笑うのに釣られてオレも少し笑って、アスマも、少しだけ毒気を抜かれたように眉を下げて横に座った。




「サキホに、何した」

 何を注文するでもなく、灰皿だけ自分の側に寄せてアスマは肘をついた。
 いつもよりさらに低い声色。

「別に何も...って言っても、信じないよね」

「それで済むなら俺はわざわざお前を探したりしねぇし、あいつだって泣くわけねぇだろうが」

 泣く、という言葉がためらいなくオレの頬を叩く。
 思わずアスマの横顔を見た。
 苦い表情が、真実味を助長させる。
 そもそも彼は、こんなやり方で嘘を吐いたりはっぱを掛けたりする人間ではないから、それは真実なのだろう。

「泣いてた?サキホ...」

「...座り込んで、震えてな」

 唇を噛む。
 想像しただけでこっちが泣きそうだった。
 それほど強い意思を持った拒絶だったのだと、思い知らされる。
 ただ反射的に動いたんじゃない。彼女はオレをどうしたって受け入れるつもりがなかったのだ。
 互いにあれだけ信頼していたからと、オレはどこかで仄かな期待を持っていたのだろう。
 とんだ自惚れだ。

「だが、誰に何をされたかは言わなかった。...俺の嫌な想像がもしも当たってりゃあ、カカシ、お前を心底軽蔑するし、二・三発殴るつもりで来たぜ」

 このキレっぷりだとたぶんアスマの想像は、事実よりだいぶ過激なものに違いなかった。
 彼とてそんなこと本当は想像したくもないだろう。
 それでもサキホのために、あえて最悪なパターンを想像してオレに問い質している。
 疑いを掛けられている立場ではあるが、真摯で頼り甲斐のある友人に密かに感銘をおぼえた。
 彼がそれくらいに彼女を大切な人間だと思ってくれていることがオレには嬉しい。
 たとえば、もしもサキホがアスマを好きになったなら、あっさり身を引けそうな気がするくらい。
 紅の顔がちらつくから、そんな喩え話は口が裂けても言えないけれど。

「...キス、した」

 自分の発した言葉が甘く響いてこそばゆい。
 色んな想いをめぐらせたあの口付けを、言葉にしてしまえばひどく単純な行為と気付く。そのことが恥ずかしい。

「それで...平手打ち喰らって、逃げてきた。以上」

 アスマは少し目を見開いて、明らかに次の言葉を待っていた。
 彼の言いたいことはよくわかる。

「......本当にそれだけなのか、って思ってるでしょ」

「...正直なところ、な」

 彼の疑念と戸惑いは尤もだ。
 お互いに二十歳を過ぎた男女の痴情のもつれなんてものがキス一つに留まっていることの方が、健全すぎてよっぽど不自然だと思う。
 それでも、今オレが言ったことがすべてなのだから仕方ない。
 脚色は無いし、弁明も誤魔化しもしていない。
 それでオレを殴るかどうか決めるのは彼だ。

「自分でもたかがキス一つって、思う気持ちも、ある。でもサキホが嫌だったんならするべきじゃなかった。もしかしたら犯されたと同じくらいに思ってるかもね」

 殴ってくれていいよ、と笑うと、さっきまで険しい顔だった彼の方が今度はたじろいでいた。
 オレが彼に対して嘘を吐くつもりが無いことをわかってくれている。

「お前そりゃ...極端だろ、いくらなんでも」

「そんなことも無いよ。アスマもご存じの通り、あいつはああ見えて世間知らずの箱入り娘なんだから」

「そうと分かってるんなら、ハナっから手順を踏めよ。好きだと口で言わなきゃわかんねーだろ、サキホの場合よ...。ああ、念のため訊くが今回の件は恋愛感情ありきってことでいいんだよな?」

 後半部分の質問に、うんと答えるのも気恥ずかしくて曖昧に笑ってみせた。
 アスマは肩肘ついて頭を抱え、大袈裟に溜め息を吐いた。

「本気なら尚更、女ってのは順序を気にするもんだぜ」

「そういうのはよくわからないな」

 よく考えてみれば、本気の恋愛というものをした記憶がまったく無い。
 女と関係を持つきっかけといえば、殺気に荒れた精神を静めるためだったり、単純に性欲のためだったり、相手に求められて断る理由がとくになかったり、そんなものばかり。
 順序を気にするような女も居なかった。
 アスマと紅の関係を見るに、彼はうまくやっているのだろう。
 それこそ彼お得意の将棋のように戦局の作戦を練るがごとく、手順を踏んで。
 自分だってこれまで忍として生きてきて、戦略を立てる頭脳や戦場での判断力にはそこそこ自信のある方だった、はずだが。
 "忍として"の判断力なんて無意味になってしまうような熱い衝動が、自分の身に襲いかかるなんて思ってもみなかったのだ。
 しかし、今それを理解したところで遅すぎた。

「気持ちをちゃんと伝えてから、立て直せよ」

「...いいんだ...、もう、遅いんだよ。どっちにしろフラれてる」

 恋をしたのも、それが破れたのも初めてのことで、外に出し切れない溜め息と声にならない咆哮で胸がいっぱいになっているみたいで苦しい。
 意識をして呼吸をすることが、こんなに辛いことだなんて。



式日