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完全に夜が明けきってから、紅の家から帰ってきた。
吐き気や頭痛はだいぶ和らいでいたけれど、やっぱり少し気だるい。
幸いなことに今日は週に一度の定休日だった。定休日といっても自分がなんとなくそう設定しているだけであって、いつもなんだかんだ作業をしていることがほとんどだ。
二日酔いというやつを生まれて始めて経験して、こんな日くらいは本当に一日身体を休めたほうがいいと思った。
特に意味も無くテーブルに肘を付いてぼんやりとする。
今日は何もしない。
そう決めると何故か逆に落ち着かなくて、そわそわとたくさんの思考が脳裏に浮かんだ。
無になろうとすればするほど、そこからは遠ざかっていく人間の悲しい習性かも知れない。
明け方の、紅との会話を思い出す。
嫉妬が醜悪なことと思いながら、それを受け入れたら素直になれたと、彼女は言っていた。
結果的に良かったのだと。
果たして私はそんな風に自分の醜い部分を受け止めるだけの度量があるだろうか─。
しかし、もう、自分の気持ちをはっきりと認識してしまった。
彼女がずばり言った通りそのままに。
私はカカシのことが好きだということ。
この気持ちを恋と呼ぶことも。
伝えるべきなのかどうかはわからない。
伝えるための言葉や態度も、私は一度だって経験したり学んだりしたことかなかった。
甘苦い悩みに頭を抱えていると、不意にガシャンガシャンとシャッターをノックする音が響いた。
音の後に、ごめんくださいと男性の声。
声色はあまり若くは無いように思う。
─誰だろう。
幾人かの顧客の顔を思い浮かべてはみたけれど、どれもその声とは合致しない。だいたい定休日の札を店先に提げているから、わざわざそうして訪ねてくるのは仕事の客では無い。
セールスか何かか、とあまり良い想像は浮かばないけれど、とりあえず裏の勝手口から外へ出て店先へと回った。
店の前に立っていたのは見知らぬ初老の男性だった。
なかなか小綺麗な格好をしていて、忍のようには見えない。
「お初にお目にかかります、麦野サキホ様」
初めて投げられるあまりに丁寧な口調と、様付けの呼び方に思わず身構えてしまう。
やっぱりセールスだろうか。
「あの...?すみません、今日は生憎定休日でして...」
「ええそのようで」
シャッターに提げられた定休日の札を紳士はにこりと微笑みながら一瞥した。
彼は無駄の無い流れるような手付きで小脇に抱えていた風呂敷をするりとほどいて、そこに包まれていたものを私の方へ差し出した。
一通の、封書である。
表書きには"麦野サキホ様"とだけ書かれており、裏返すと、封の部分に見覚えのある刻印が目に留まった。
それは、鉄鋼材の仕入れ元である、取引先の"シラハネ鐵鋼所"の紋だった。
「シラハネさん、」
「はい。主人より麦野様へ、書状を預かって参りました。どうぞこの場でご開封下さいますか」
どうやらこの紳士はシラハネの遣いの者らしいとわかり、少しだけ警戒心は解けた。
しかしまだあと少しは、残っている。
親方の頃から付き合いのある取引先だが、シラハネ鐵鋼所は里外にあるため、発注や請求書のやりとりは郵便を使った書面でのやりとりがほとんどだ。
少なくも私がクロガネを継いでからはこんな風にして、わざわざ遣いの者が書状を手渡ししに来るなどということは初めてだった。
一体どういう要件なのか。
滞っている支払いなどは無かっただろうかと考えてみたけれど、思い当たらない。
恐る恐る、紋で閉じられた封をぴりりと開き、中の書面を取り出した。
内容を読んで、緊張をはらんでいた肩の力がすぅっと抜けていった。
とりあえず、督促の類ではない。
内容はこうである。
シラハネの代表...つまり社長と呼ばれる人物が退任して、その息子殿に席を譲るという。
新社長就任にあたって、宴席を開くので是非おいでくださいという招待状であった。
しかも私はそれに既に見覚えがある。
「あの、パーティーの招待状でしたら以前頂きましたよ?少し前に欠席のお返事を差し上げたはずですけど、届いていませんか?」
「はい、確かにお返事頂いております。
我が主人は麦野様のご欠席とのお申し出に大変お心を痛めていらっしゃいます。稀代の鍛冶屋クロガネを継がれた、若き当主の貴女様に親近感をお持ちで、ぜひお顔を拝してお話されたいと。
ですからこうして再度のお誘いに参りました。どうか色好いお返事を...」
慣れない丁寧な話し方のせいで、言っている内容を噛み砕くのに時間が掛かってしまう。
つまり、要するに、一度は招待を断られたけれどやっぱりどうしても出席してほしい、と頼み込みに来た。らしい。
「大変光栄ですけど...遠いですし、仕事も忙しいですし。何より私、そういった場には不慣れなので気のきいたお話なんかもできません」
「ええ、貴重なお仕事の時間を割かせてしまうことはこちらも申し訳無く思います。
しかし主人は麦野様とそうお歳も離れておりませんし、きっと若者同士楽しくお話出来るかと。
それに......貴女様にとってきっと良いお話もあるはず。
逆に、どうしても出席されないのであれば、その反対のことが生じてしまうでしょうね...」
紳士はにこにこと顔色を変えない。
けれど、今の最後に添えられた言葉にははっきりと別物の色が宿る。
出席すれば良い話が。
欠席すればその反対が。
なにか脅しめいた取引には聞こえないだろうか。
「麦野様、ヒントを差し上げます。パーティーには当然、クロガネ以外の取引のある鍛冶屋さんもご招待しています。
この宴席でいかにシラハネとの繋がりを強められるか、いかに同業者を出し抜くか、皆様がそれを考えておりますよ」
「私はそういう競争には─」
興味がない、と言おうとするのを、彼の人差し指がそっと唇を掠めて制した。
「いいえそうは参りません。単なる同業者間の競争ではないのです。
何故ならば、主人は今回欠席される方との取引を、今後一切辞められるおつもりなのです」
「...!」
「...さすがにそれは、貴女様も困られるのでは?」
それはもはやヒントではなく、答えに直結していた、
クロガネは私の代に変わってから現在、仕入れ元をシラハネ一社だけに絞っている。
親方のときほどの受注量ではないから一社で充分だったし、なにかにつけて管理が煩雑にならなくて効率的だった。
加えてシラハネはここ数年で急成長した鉄鋼所で、イレギュラーな発注や細かい注文にも迅速かつ臨機応変に応えてくれる、非常に使い勝手の良い取引先である。
もし今それを失ってしまったとしたら、新規の仕入れ元を開拓するのに余計な時間と費用がかかることになるだろう。
そ して仕入れが安定するまで、自分の顧客に迷惑を掛けることにも。
痛い処を突いてくる。
思わず紳士を睨み付けていた。
「麦野様。こうしたパーティーというのは遊びではありません。社交場、ビジネスの場なのです。これも仕事のひとつですよ」
言っていることは分からなくない。
処世術。それは確かに私に一番必用なものなのかも知れなかった。
睨み付けた視線を伏せ、ため息を吐いた。
あまりに不本意だけれど、自分の顧客に迷惑がかかるのはもっともっと不本意だ。
私がほんの少し、我慢すればいいだけのこと。
「.........いつ、でしたっけ」
「五日後です。わたくしがお迎えに上がります。お召し物もこちらでご用意しますのでご心配無く」
おめしもの?あぁ、洋服のことか、などと考えている内に紳士は深々と頭を下げて「ご快諾感謝いたします」と踵を返して去っていった。
一体どの辺が"快"諾なのだ、と突っ込むことも叶わなかった。
面倒な用事が降りかかってきて、自分がぼんやりと浮かべていた考え事を、私は静かに心の内にしまった。
第12話 了
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