12 (3/4)


 あたまが痛い。

 胃袋で渦巻いたものが込み上げてきそうになっている。

 朝、なのか、夜なのか。

 ここはどこ?

 どうやら自分は、ベッドの中。それも知らない香りの。

 開いたばかりでぼんやりと霞む視界の端に、ゆらりと人影がよぎった。




「...カカシ......?」

 私は熱中症で倒れて病院に運ばれたときのことがフラッシュバックしていて、だから、そこに居るのはカカシなのだと疑いもせず名を口にしていた。
 よぎった人物はゆっくりと近づいて来て、私を見下ろした。
 顔の距離が少しだけ近くなって、ようやくその人物を認識することが出来た。
 私の頭は随分酩酊しているらしい。

「起きたのね。カカシじゃなくてごめんね」

「紅さん...」

 では、此処は。

「私の部屋よ。ね、覚えてる?覚えて無いわねその様子じゃあ」

 ふ、と吐息で小さく笑ってから彼女は、もう少し寝てなさいなとやさしく言った。
 紅はベッドから離れ、キッチンの方へ行ったようだ。かちゃかちゃと食器が重なる音とコーヒーの香りが脳を刺激して、ゆっくりと私を覚醒へ導いた。
 寝てなさいとは言われたけれど、とりあえず身体を起こしてみた。
 紅の部屋にいる。
 彼女と私のふたり。
 私の頭はガンガン鳴りっぱなし。
 びっくりするくらい気持ちが悪い。
 どうにか状況は推察できた。
 ─私は酔っ払っている、のだ。
 それで恐らく、お好み焼き屋からのあの短い距離を自分の足で帰ることも出来なくて。
 そう推察はできたけれど、この状況に至るまでの詳細をほとんど覚えていなかった。
 カカシもアスマもここに居ないということは、店で別れてそれぞれに帰って行ったのだろうか。

「貴女はコーヒーよりお水がいいわよね?」

 キッチンカウンターの向こうからそう投げ掛けられたので、頷いて答えた。
 その頷く動作だけでも頭の中身がぐらんと揺れて、戻しそうになるのをどうにか堪える。
 右手と左手にコーヒーの入ったマグカップと水の入ったグラスをそれぞれに持った紅が、キッチンからベッドサイドへ戻ってきて、グラスの方を私に寄越した。
 一気に飲み干す。
 冷たい水がするすると食道を通り抜けたおかげで、込み上げていたものはなんとか落ち着いてくれた。
 気持ちにもちょっとだけ落ち着きが生まれ、私はそこで改めてぐるりと部屋を見渡した。
 ワンルーム、というのだろうか。ベッドルームとリビングルームが一体で、その先に見えるのが先程彼女が立っていたキッチン。さらにその横に玄関ドア。
 広くはないけれどインテリアが纏まっていてすっきりした部屋だ。
 あちこちに花が飾られている。たぶんどれも生花だと思う。
 部屋の主である紅は部屋の中央に置かれたローテーブルにマグカップを置いて、毛足の長い、丸いラグの上にぺたんと座った。
 彼女は部屋の主でありながらそこにあるインテリアか花のように、風景と一体化していた。
 纏まりのある美しさ。
 この部屋は彼女そのものみたいだ。

「まだ朝には早いわ。寝ていていいのよ。気分、よくないでしょ」

 朝には早い。
 でもカーテン越しにわかるくらい窓の外は白み始めていて、夜は確実に明けかかっているようだった。
 そう気付いて、はっとなる。この人は、紅は眠っていないのではないか。

「もう大丈夫..!ごめんなさい、紅さん、私ベッドを...!」

「あぁいいの気にしないで。職業柄、どこでも寝れちゃうんだから」

 慌ててベッドを降りたが、彼女は本当に気にしていないというようにひらひらと掌を扇いで柔らかに微笑んだ。

「でも。ほんとに、ごめんなさい。酔っ払って、...あんまり覚えて無いけど、迷惑掛けてしまって」

「ふふ、楽しかったものね。私も久々に楽しかった。...あのね、実は貴女に会いたいなって以前から思ってたの。貴女のこと噂に聞いていたから」

「私のこと...?」

「ええ、そう......」

 視線を落として、短くため息を落とした。

「...紅、さん?」

「少し話をしてもいい?」

 長い髪を片方だけ耳に掛けて、ためらいがちに、だけど真っ直ぐに私を見る。
 吸い込まれそうな瞳。
 紅はゆっくりと話しはじめた。彼女も数時間前には私を遥かに上回る量の酒を飲んでいたはずだけど、その声はしっとりと湿り気を帯びて、低く、澄んでいて耳に心地好かった。



 私とアスマはアカデミーからの同期でね、男でも女でも無いみたいなこどもの頃からよく知ってる。
 いつからそうだったのか思い出せないけど、お互いの気持ちもお互いによくわかってた。 ─でも。
 ずっと彼を待たせていたの、私。
 同じ上忍になるまでは。彼に相応しい自分になるまでは恋人になんてなれない、って。
 アイツらしくのんびり待ってるなんて言ってくれて、私、その言葉に甘えてた。絶対裏切るわけ無いって盲目的に信じてた。
  ...少し前にね、アスマにちょっかい出してるコが居るって私に吹聴した奴が居たの。鍛冶屋のクロガネのコだって言って。
 バカよね私も。あんな奴の言うこと鵜呑みにしなければいいのに。
  嫉妬でおかしくなりそうだった。
  アスマのことまで急に信じられなくなった。
  ─見たことも無い貴女を、憎いと思った─。







 紅の表情の翳りに、胸が軋んだ。

「紅さん、私は...!」

 思わず自己弁護しようと声を発したはいいけれど、何をどう言っていいのかもわからなくて目が潤んでしまう。
 違う。泣きたい訳じゃない。

「わかってる。貴女に会ってすぐわかったわ。誤解だった。ただの友だちなんだって。
 ...それに、貴女はアスマや他の人から聞いて想像してたよりもずっと純粋で、素直で、可愛らしくて。
 だから謝りたいの。勝手に誤解して嫉妬したりして、ごめんなさい」

 紅が謝ることじゃない。
 それより自分が。そんなつもりは無かったにせよ、自分のせいで彼女を知らず知らず傷付けていたことが。
 苦しくて。
 言葉が見つからなくて唇を噛んだ。

「そんな顔しないで。ごめんね、困らせるつもりじゃ無かったんだけど」

「でも私、あなたを傷付けた」

「それが結果的に良かったかも知れない。
 それまでは私、嫉妬とかそういうものに取りつかれるのは醜悪だと思っていた。
 だけど彼を誰かに取られるって思った瞬間、自分の気持ちと向き合えたの。
 素直になれた。大切なものを失うくらいなら、もう変な意地を張るのはやめようって。
 彼にちゃんと気持ちを伝えられた。
 だからそういうきっかけをくれた貴女に、感謝もしてるのよ...ね、サキホ」

 こどもを諭す母のように紅は私の肩にそっと手を乗せた。
 その手が温かい。

「紅さん...」

「"さん"はやめて、紅でいいわ。私たち、もう友だちよね?」

 同じ鉄板のお好み焼きを食べた仲じゃない、とおどけるように言われて、思わずお互いに笑った。











 少し冷めてしまったであろうコーヒーを飲み干して、紅は任務に向けて身支度を始めた。
 メリハリのある身体を惜し気もなく晒して忍服に着替えながら、そういえば、と思い出したように彼女は再び口を開いた。

「ゆうべの帰り際のこと...覚えて、無いのよね?」

 言われて、もう一度記憶を揺さぶってみたもののやっぱり何も出てこない。
 うーんと肩を竦めるしか出来なかった。

「まさか私、酔っ払って何かまずいことでも」

「あ、ううん。大したことじゃないわ。ただ、カカシが凄く心配してたからね」

「カカシが...」

「仲が良いのね。アイツにしては珍しく、随分世話焼いちゃって」

 仲が良いことを否定するつもりは無い。
 世話を焼いてもらっているのも事実。仕事に関してもそうだし、昨日なんて頼んでもいないのに私のお好み焼きを 焼いてくれるくらい。
 友人としてというよりむしろ、保護者に近い。しかもそこそこ過保護な部類の。
 だけど紅の言う"アイツにしては珍しく"という表現にぶつかった。
 彼の世話焼き癖は誰に対してもそうというわけではないのか。

「はは...よっぽど頼りなく見えるのかな、私」

「そうじゃないわよ。大事なのよ、貴女が」

 にわかに頬が熱くなる。
 大事だ、なんて。
 その言葉を素直に受け入れられれば私にとってはすごく嬉しいことだ。
 でも。
 まだあまのじゃくな自分の分身がちらつく。
 俯くしかできない私の頬を紅の温かい手が両側から包み、そして視線を上げさせた。








「カカシのことが、好きなのね」








 ストレートで虚飾の無い言葉が、偽りだらけの私の分身を捕まえていた。



式日