深い夜 (1/2)


 不思議と眠れないでいた。
 外でうるさい程に鳴いている虫の声のせいかもしれない。
 夜風も随分と冷たくなってきたし、窓を閉めようか、でも、なんとなくそのために身体を起こすのも億劫だった。
 布団に仰向けのまま、窓の外を見る。
 月が綺麗。
 十五夜は過ぎてしまったけれど、尖った月も悪くない。
 鋭くて、光って、孤高の存在なのに、手を伸ばさずにいられない。
 誰かさんに似ているじゃないか、と思うと、ますます美しかった。

 掴めるはずもないのに窓のほうへ手を伸ばしてみた。
 すると、不意に月は真っ黒な影に覆われて隠された。

「…!」

 瞬間、息を呑む。
 が、すぐにその緊張は解かれた。
 月を覆った影は人の影で、しかもそれがよく知る人物だということがすぐにわかったからだ。

「カカシ…!」

 驚きと喜びにがばりと布団から半身起き上がった。

「いま任務から帰ったんだ」

 そう言いながら、窓枠のところで律儀に靴を脱いで部屋の中に降り、私の布団が敷いてある横にぺたんと胡坐をかいて座った。

「眠れなかったんだ。ふしぎ。いっつも三分で寝れちゃうのになぁ。カカシが来るような予感がしてたのかな」

 嬉しいこと言うね、とカカシは私の頭を撫でた。
 任務から帰って自分の家には寄らずにまっすぐここへ来たのか、少しだけ土埃の匂いを纏っている。
 手甲を外し、ベストを脱ぎ捨ててから私の身体を引き寄せると、また何往復も頭を撫でた。
 やさしくて暖かい手、胸元。

「ねぇどうしたの」

「うん…顔、見たくて。夜中にごめんね」

 月明かりがカカシの後ろから射し込んでいて逆光になっているから、表情がよく見えない。
 でもたぶん、笑っている。
 笑っているのだろうとは思うけれど、声が少しだけ寂しげに聞こえて、思わず彼の顔を覗き込んだ。
 右目を細める。
 それはいつもの穏やかな彼なのに、少しだけいつもとは様子が違うように感じた。
 うまく言い表せない違和感。
 いつもならば、どんなに過密なスケジュールで疲れ果てていたって、至極明るく「ただいま」と言うのに。
 ふ、と頭上に、聞こえるか聞こえないかという程のため息が降る。

「カカシ?なんか変」

「…ちょっと落ち込んでてね。何せ、もうちょっと早く帰れる予定だったのに…」

 言いながら壁の掛け時計を見上げたカカシは、苦笑いしながらももう一度、今度ははっきりとため息を吐いた。
 落ち込むなんて、彼の口から初めて聞く。
 任務で何か失敗があったのだろうか。
 怪我などしているようには見えないけれど。
 だいたい、任務の遂行状況で帰還が予定よりも遅れたり早まったりと安定していないのは、いつものことだ。
 それが今日に限って落ち込むというのは、余程の事情がありそうだ。
 気になる。
 でも、どんな内容であれ忍の任務は機密事項。クロガネの先代親方から、忍にそれを尋ねることを固く禁じられていた。
 知りうるのは、今日は護衛、とか今日は偵察、くらいの差し支えない情報が会話の中でときどきぽろりとカカシの口から洩れる程度。
 私は任務の内容を自分からカカシに尋ねたことは一度だって無かった。
 本当はいつだって聞きたくてたまらないのに。

  どれぐらいの危険があるの?
  敵は強い?
  怪我は?
  何があったの?ねぇ、大丈夫?

 それらを聞いて話してもらったところで、私はその痛みを癒すことも共感することも出来やしない。
 鍛冶屋という職に就いて、こんなにも忍と密に接しているというのに、こういう部分がどうしても共有できないことをいつも歯がゆく思う。
 そんなことを考えていたせいで無意識に渋い顔をしてしまっていたのか、カカシは人差し指で私の眉間に触れ、すうっと撫でて眉間の皺を均した。

「たいした事じゃあないんだ、只…」

「………」

「もうちょっとだけ早く帰りたかった。日付が変わっちまったなぁ、と思って」

「日付?」

 そう言われて先ほど彼が睨むようにしていた時計を見遣ると、零時を半刻過ぎたところ。
 確かに半刻前に日付は変わっている。

「笑わないでくれる?」

「なに?」

「今日...いや、もう昨日か…誕生日だったんだ。十五日。だから何だって、自分でもそう思うんだけど、ちょっとね。なんとなく、会いたかったから。日付が変わる前にさ」

 照れくさそうに頬を掻きながら彼が打ち明けたその理由は、私が想像した任務のアレコレとはだいぶズレていて、あまりに意外だった。
 自分の誕生日のその日のうちに私に会いたかったと、彼は言う。
 どうやらそれがギリギリのところで叶わなかったので、落ち込んでいるらしい。
 そうと知るとにわかに私の心の中にふわふわもぞもぞとこそばゆい物が芽生えてきて、たまらずに彼のマスクを下ろした。

「わっ、なに」

「赤い顔してたら可愛いなと思って!カカシって意外と可愛いとこあるんだね」

「やめてよもー、ほんと、恥ずかしいな」

「へへへへへ」

「笑うなって言ったのに…。オレだってね、自分がこんな腑抜けになると思わなかった。今まで自分の誕生日なんて意識したことなかったよ。でも…」

 好きなコがいたら、そのコにくらいは祝ってもらえたらって、人並みに思うだろ。
 照れ隠しなのか、私のほっぺをむにむにとつまんだり伸ばしたりしながらそう言うカカシ。
 そんな彼がやっぱり異様に可愛くて、笑うなと言われてもこのにやにやを抑えるのは不可能だ。
 しかしそれにしても、誕生日だったとは。

「ごめんね私、誕生日知らなかった」

「言ってないしね」

「おめでとう」

「ありがとう」

「何か欲しい?」

「いーや、今の一言がもらえて満足」

 その表情も声色も、確かに先程までのものと違ってすっきりと晴れていたから、おめでとうのたった一言が貰えて満足というのは事実らしい。
 だけど、本人がそうでも祝う側としては物足りない。
 死んだ親方の誕生日にだって、ケーキくらいは用意したものだ。

「えー、でも、何か無いの?時間がかかってよければ特注クナイ・手裏剣各一ダースセットとか!」

「そんな色気の無いプレゼントはゴメンだなぁ」

「色気のあるプレゼントって何!?」

 ちょっとナイスアイディア、と思ったのに、間髪入れずげんなりした表情でゴメンだと言われたので思わず勢いよくそう返していた。
 発言したあとに、自らの言葉が持つ可能性に気づいてハッとなる。
 カカシが嬉しそうににんまりと微笑んだ。

「そりゃあね、愛情のこもったキス、とか?」

 奇しくも私自身が先ほどカカシのマスクを引き下ろしており、お膳立てが済んでいる状況。
 彼と気持ちが通じてから数週間ほど経っているだろうか、カカシからしてくることはあっても、こちらからとなると別だ。
 しらはね邸から助けられたときはそりゃあ私の方からもキスしたような気がしないでもないけれど、あれはあの場の勢いやら照れ隠しやらの要素が大きく、こんな風に会話からの流れではっきりと求められては、緊張してたまらない。
 いやしかし。
 簡単に出来ないことだからこそプレゼントとしての意味は大いにあるのかも知れない。
 ぐっと唾を呑みこみ、意を決した。
 カカシが、少しだけ身を屈めて顔の高さを近づける。
 右目を閉じたのを合図にそっとそっと唇を触れると、自分の唇が緊張のあまりふるふると震えているのがよくわかった。
 ゆっくりと三秒数えて離れる。
 どうにか成し遂げた、と思った次の瞬間に、再び力強く塞がれていた。

「っん…!」

 思わず布団に倒れそうになるのを、肩と、頭の後ろを彼の手が支える。
 ぎゅっと引き寄せ、抱きしめられて、息が出来なくなるように深く深く唇を合わせられる。
 舌が、絡め取られる。
 人の舌のざらりとした感触を初めて知って身体が粟立ち、反射的に腕が彼の胸を押して形ばかりの抵抗をしてみせたけれど、その手もやんわりと握られて彼の首へと回すように促された。
 貪るような激しい波にのまれないように懸命にしがみついて、キスに応えた。
 全然嫌じゃない。
 けど、息がうまく出来ない。

「ぷはッ、はぁっ…、くる、しいよ…!」

「ごめん、サキホ可愛くて。ありがと、すごい嬉しかった」

「どういたしましてっ……。もう、寝る!」

 自分がこどもみたいなキスしかできないこととか、震えてしまったこと、ぞくぞくしてしまったこと、上手に息継ぎが出来ないこと、カカシの嬉しかったという言葉が優しすぎること、とにかく今起こった色んな事が恥ずかしくて恥ずかしくて恥ずかしくて、逃げたくなってしまって、頭から布団をかぶった。
 呼吸がまったく整わない。
 心臓もうるさい。
 顔が熱い。
 カカシの気配はまだそこにある。
 すすす、と畳の上を擦って身体を動かす音が聞こえ、そして、布団の上からつんつんと突かれた。
 籠城していた布団をあっさりめくられ、目と目が合ってしまう。
 そーゆーとこが可愛い、と彼が笑った。
 ついさっきは私のほうが彼を可愛い可愛いと笑っていたのに、こうも簡単に立場が逆転してしまうのが悔しい。
 悔しいのに、嫌いになるよりも、もっともっと好きな気持ちが増すばかりなんて。



「一緒に寝てもいい?」

 いいよ、とはとても言葉にならないけれど、身体をずらしてわずかなスペースを作る。
 なにせ一人用の布団、本当にわずかなスペースだ。
 畳の上に敷いているから、ベッドのように落ちたら大変ということもないけれど、カカシはぴったりと身体を寄せて布団に入ってきた。
 背中から抱きしめられる体勢。
 息が首筋にかかった。
 さっきのキスの感触だってしっかりと残っていて、ドキドキが止まらない。
 鼓動を隠す方法、なんてあるのかな。あったら知りたい。
 でももう、彼にははっきりと聞こえてしまっているだろう。

「お、おやすみ」

「本当にもう寝ちゃうの?」

 こくんと頷く。
 彼の口と私の耳とが近いから、低くいその声がダイレクトに響くみたいだった。

「.........」

「.........」

 沈黙。
 でも、鼓動はうるさいまま。
 もはやあんなにうるさく感じていた虫の声すら聴こえてこない程。
 眠れる訳なんてない。
 あんなキスをされて。

「.........」

「.........」

「あのさあ…」

「………」

「しても、いい?」

「…今いっぱいしたもん」

「キスじゃなくて」

「………」

「もちょっと、エッチなこと」

「………」

「ねぇサキホ」

「………」

「だめならだめって言って。そうでなければ、何も言わないでいいから」

「………」

 だめ、なんて、言えない。
 彼が先回りして気遣ってくれている通り、その逆の言葉なんて、もっと言えない。
 私は沈黙で答えた。

 背後でカカシが身体を起こしたらしく、布団の衣擦れの音と同時にぴたりと密着していた肌が離れた。
 大きな手が私の頬に触れ、顔を正面に向けて視線を合わせられる。
 そのまま影がゆっくりと降りてきて、私がぎゅっと目を瞑るのと同時に、彼の唇が首筋を食んだ。



式日