魔女の森



高く伸びた広葉樹の葉の隙間から青空が覗き、紗のかかった太陽の光が降り注ぐ。いつも薄暗く鬱蒼としたこの森で、一番太陽の光を浴びることが出来るのは、おそらくこの畑だ。青々と茂らせ始めた葉に、セージやタイムなどのハーブを濃く煮出したものをジョウロから注げば、琥珀色の滴が太陽の光を受けてきらきらと輝いた。

「それ、畑に撒くやつだったんだな」
「そう、虫除けになってくれるの。薪割り終わった?」
「あァ」

背後からかけられた声に振り返れば、エースが物珍しそうに畑の様子を眺めていた。
あれからエースはこの家に寝泊まりしながら、近隣の島々に出かけていくようになった。そうして手の空いた時間には、今日のように薪割りをしたり、森の中で薬となる草花や実を取りに行くことを手伝ってくれたりしている。

最近は少し遠い島まで行く日には、一日、二日と日を空けることはあっても、律儀にここへ帰ってきている。この周辺を散策するには便利だろうからと我が家を提供しているだけなので、さらに遠くに行くのならわざわざ帰ってこなくてもいいと伝えはしたけれど、まだ私への礼を返し終わっていないからとエースは答えた。

正直に言ってしまえば、こうしてエースと過ごす日々を心から楽しんでしまっている。他所の島の様子を聞きながら食事を取ったり、夜の森へ散歩へ出かけてランプの代わりに夜道を照らしたりしてくれるエースの炎を見つめる時間は、先代の魔女と過ごした頃とは違う安らぎを与えてくれた。

エースはあくまでこの生活に紛れ込んだ来訪者でしかなく、別れの時は押し迫っているのだとは分かっていながら、これ以上深入りしてはならないという境界線をずるずると引き伸ばしてしまう。そして、それはたぶん、エースもまた同じなのだと思ってしまうのは自惚れだろうか。

「ちょっと休憩にしましょうか」

ジョウロを置いて近くの木陰に腰を下ろせば、当たり前のようにエースもまた隣に座った。その能力ゆえなのか、近くにいるとじんわりとその温もりが伝わってくる。

「この畑も前の魔女が使ってたもんなんだよな」
「そう。この家も庭も、野菜や薬草の育て方まで、全部が先代の魔女から譲り受けたものよ」

薬の煎じ方だけでなく、料理や掃除など生き方の術を教え、この森の木々や動物の知恵を与えながらも、自分のことは魔女としか呼ばせず、結局最後まで名前すら教えてくれなかった人だった。
面影を手繰り寄せるようにそう語れば、エースは何も言わずに私の頭に手を乗せた。

「私は先代の魔女のことを何も知らないの。知った気になっているのは、私がこの家で育てられるようになってから表面的に見えていたことだけ。あの人がどうしてこの森の魔女になったのかも知らなければ、私を愛して育ててくれていたのかさえ分からない」

私の母は、この村きっての良家の娘だった。親の決めた相手と婚姻を結んだ後から、体調を崩しがちになり部屋にこもることが多くなった。暗く閉じこもった部屋の奥で母は一人で膨れ始めた腹を押し隠し、ついには隠しきれないと悟った晩に屋敷を抜け出し、この家を訪れた。そこで先代の魔女の手を借り私を産み落とし、次の新月の晩にかつての使用人であった男と二人でこの島を出ていったそうだ。おそらくはその男が私の父であるのだろう。
私が十になった年に、先代の魔女はそう語り聞かせた。

先代の魔女は優しい人だった。だけど、同じだけ魔女として生きるべき教えに厳しい人だった。そして、私と出会った時にはもう随分と年老いた人だった。
あの人はきっと、ずっと次の魔女を探していたのだ。自分の後を継ぎ、この物語で魔女を演じる存在。そして、その前に現れた、村の者から存在を認められていない娘。それはさぞかし次の魔女として相応しかったことだろう。だから私を育てることにしたのだと、いつかそう言われる日が来るのではないかと、それが私はずっと怖かった。

私が言葉を紡いでいる間、黙って頭を撫でてくれていたエースの手を、軽く首を振って避ける。これ以上その優しさに触れていたら、すっかり慣れたはずの寂しさがぽろりと口をついて零れてしまいそうだった。エースはそのまま、特に気を悪くした様子もなく手を膝に置いた。

「その先代の魔女ってやつは」
「二年前に死んだわ。老衰だった。教えられた通りに森の端の川辺に穴を掘って墓を作ったの」

人が埋まるほどの穴を掘ることも、息のない人間をひとりで担いで運ぶことも、思っていたよりもずっと大変な作業だった。森の動物たちの視線を感じながら、夜半すぎから始めた埋葬がすべて終わる頃には、森にはもう朝の気配が溢れ始めていた。木々の隙間から洩れ出す朝の陽光。それを受けて輝く川の水面を息を押し殺すようにして見つめた。
その時初めて、自分今までが本当にひとりぼっちの存在であったことを身に染みて感じた。一人になったのではなく、私はもともと誰にも、否、この世界にすら属せてなどいなかったのだ。そうしてあの日から、私がこの森の魔女となった。

「村のやつらにすべて話して、村で暮らそうとは思わなかったのか?」
「……先代がまだ生きていた頃は、そんなことを思ったこともあったかもしれない」

誤魔化すように笑えば、エースはあからさまに眉を顰めた。その瞳が、私が一人でこの森に住むことをこだわる理由が分からないと言外に語っている。
私も幼い頃は先代に対してそんな疑問を持ったこともあった。だけど、魔女を引き継いだ今となっては、どうしてあの人があそこまで魔女であることを貫いたのか、その一端が分かる気がしている。
しかしそれを話したところでエースには伝わらないだろう。エースはこの物語の外側の人でしかないのだから。

「ねえ、エース。明日は村に行きましょうか」





□■□■






色とりどりの露店が並ぶ細い道をエースと並んで歩く。大きく実った野菜や果実、客を呼び寄せる主人たちの大声、人の隙間を走り抜ける子供たち。今日は月に一度のマーケットの日だ。

「村に行くこともあるんだな」
「ええ、月に一度くらいはね。森ではどうしても手に入らないものも多いから」

頭まですっぽりと被った黒いローブから顔を覗かせてエースを見る。村に行く時はこの格好をするのだと、先代の魔女はいつも言い聞かせていた。いかにも物語に出てくるような魔女然とした姿は、この穏やかな市場では異様に浮き立つ。

毎月一度、この日には森から魔女が出てくることは先代の頃から続く習わしなので、あからさまに悪態をつかれたり、咎められることはない。
だけど、私が店に近づくとはっきりと空気が変わる。張り詰めた緊張感と、無愛想な店主の表情。歓迎などされるはずもなく、早くどこかへ行ってくれと思われているのが視線から滲みだし肌にまとわりつく。それをきっと隣にいるエースも感じていたのだろう、私が勘定を済ませる間中、不愉快そうに口を曲げていた。

「小麦とか重いものは多めに買っちゃおう。エースが持ってくれるんだし」

店から離れ、店主に声を聞かれぬ距離になってからエースにそう声をかければ強ばっていた表情を緩めた。

「魔女なんだから、箒で空でも飛んで運んだらどうだ?」
「あら、意地悪。そんなことが出来ちゃったら、エースたちが泳げなくなってまで手に入れた能力が可哀想じゃない」

そんな軽口を叩きあって歩みを進めていると、ふと路地の方から視線を感じた。顔を向ければ、まだ五つか六つほどの少年がじっと私たちを見つめている。
大人たちのような厭忌えんきするまなざしではなく、恐れつつも目を離せないといった一種の憧憬がそこにはあった。そしてそれは、私を通り越してエースの方に多く注がれている。

敷石をつかつかと踏み鳴らして少年の前にしゃがみこむ。突然目の前に現れた魔女に少年が息を飲んだのが伝わったけれど、気にせずにこりと柔らかな笑みを浮かべる。

「この男が気になる?」

戸惑いを浮かべた表情のまま、少年はわずかに首を縦に振った。

「私の使い魔よ。この間、捕まえたの」

声にならなかった悲鳴を喉に詰まらせて、少年は一目散に路地の奥へと逃げ込んで行った。その後ろ姿を見つめながら肩を震わせて笑っていると、背後から影が重なった。顔を上げればエースが呆れたとでも言いたげに私を見下ろしながらため息をついた。

「……意地が悪いのはどっちだよ」
「ふふふ、たまには魔女らしいこともしないとね」

差し出されたエースの手を取って立ち上がる。
再び市場の喧騒に戻る前に一度だけ振り返った路地の奥にはもうあの少年の姿は見えなかった。きっと、家に帰って母親の胸にでも飛び込むのだろう。そんな優しい光景を思い浮かべて、少し前を歩くエースの背中を見つめた。






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