魔女と革命



窓から差し込んだ月明かりが、室内に白い柱のような光を零している。鈍い倦怠感とひりつく喉の痛みを感じながら、私を抱きしめるエースの腕の中で身動ぎをする。

「エース、あつい」
「……窓、開けるか?」

わずかに腕の力を緩めたエースが、私の前髪を指先で分けるように撫でる。身体を離すという選択肢がないことがおかしくて、クスクスと笑えば、エースは怪訝そうに眉をひそめた。

「そうじゃなくて、熱いの。燃えちゃいそう」

先程までの情事を思わせるかすれた声でそう呟けば、自分の炎のことを揶揄されているのだと気づいたエースが意地悪く口の端を吊り上げる。

「燃やされとけよ、魔女なんだろ」
「やだ、縁起でもない」
「誰が逃がすか」

逃げるように体を捩れば、足まで使って強く抱きしめられる。互いに下着だけを身につけた格好で、吸い付くように肌と肌が絡み合う。
声を上げて笑いながら幸せを噛み締めて、こうしていると明日には別れることなんて嘘のように思えてきてしまう。ここは魔女の森だから、朝なんて永遠にやってこないんじゃないかって都合のいい妄想。仲睦まじい恋人のような逢瀬を過して、私たちに許された残り時間のことを頭の中から追い出そうとしている。

「私たちの関係はどうなったのかしら」
「恋人だろ。それ以外認めねェ」

港妻、と口にしようとしたら、エースは片手で私の両頬を掴んだ。ひどい、と抗議しようとしたのに上手く言葉にできなくて睨んでみせたら、エースもまた愉快そうに肩を震わせて笑ってから、その手を離した。

「島の外に出たら、恋人が魔女なんだって自慢してもいいわよ」
「魔法も使えなきゃ、空も飛べねぇ魔女だけどな」
「そうね、外の世界じゃ私はありふれた、ただの薬師だものね」

特に感慨もなく口にした言葉だったけど、エースが悔いるように顔を顰めたので、私もまた自分の失言に気づいた。寂寞と幸福がせめぎ合うように拮抗を保っていた部屋の中を、寂しさがひたひたと充たし始める。

「ねぇ、エース。そんな顔しないでよ」

慌ててエースの頬に手を伸ばすも、ひらひらと沈みこんでいった幸せの尾鰭は掴み損ねてしまった。触れあう肌と肌の温度が異なることが、今はもうどうしようもなく悲しかった。私たちは紛れもなく、朝になれば別れを迎える寂しい二人だった。

好きだ、と口にしようとして、それを上手く声にすることは出来なかった。身体を重ねながら声が枯れるほどに叫んだはずなのに、今ここでそれを言葉にしたら、寂しさを埋めるための道具に成り下がって、薄っぺらく陳腐なものになってしまうような気がした。

「私はずっとこの森の魔女でいるから」
「あァ」
「……会いに来てね」

言えなかった言葉の代わりに零れたのは伝える気のなかった約束で、不可逆な言葉に焦る私と反対にエースは少しだけ安心したような顔をした。

この島は世界から断絶されていたわけではなかったと、私たちはもう知っている。だから、二度と会えなくなるわけではないはずなのだ。
だけどその契りは、この島の外の広い海の自由からエースを縛ってしまう。だから、本当は口にしたくなかったんだって、そう言えない代わりに、私よりずっと体温の高いエースの胸に顔をうずめた。

「浮気すんなよ」
「しないわよ」

エースの指があまりに愛おしそうに私の髪を梳くものだから、少しだけ涙が滲んだ声になってしまった。ほんの少しも隙間も許せないくらい強く抱きしめあったまま、魔女の森の夜は残酷に深まっていく。







□■□■







ほとんど眠れないまま朝が来て、森を抜けた海岸からエースは旅立って行った。
青と灰の混じった朝の水平線の向こうに、その背中が見えなくなっていく。さざめく波の音と海鳥の鳴き声だけの響く砂浜で、堪えていた涙が頬を伝っていったとき、胸に迫ったのは、守れもしないくせに縋ってしまった約束への後悔だった。

「またな」と少しだけ寂しそうに笑ったエースの声が、いつまでも鼓膜から離れない。この島はちゃんと世界と繋がっていて、物語も終わらない。だけど、エースと私は、きっと、もう会うことはないのだ。
そうと知りながら、「会いに来て」と契ることで、一時の安寧が欲しくなってしまった。

泣きじゃくり、嗚咽の苦しさに立っていられなくなる。強い風が森の木々を揺らして、擦れた葉音が潮騒と混ざりあう。

私が魔女を引き継いだばかりの頃、先代の魔女のことを知ろうと村の歴史を調べたことがあった。この村の歴史は、そのまま物語の変遷だった。
長く長く紡がれ続けた物語には、過去にはドラゴンがいたことも、妖精がいたこともあった。いつまでも同じ物語が続くわけではない。ページをめくるたびに物語は進み、今はもうドラゴンも妖精もいないのと同じで、魔女の物語もいつかは終わることを知った。

エースがこの島を訪れるひと月前に、村では新たな首長が任命された。若く屈強で、人目を惹き付ける魅力のある男だった。
おそらく次の物語は英雄譚なのだろうと、村で男の姿を見るたびに思っていた。その流れに沿うように人々の機運も少しづつ変わっていくのを、本当はずっと村に行くたびに感じていた。

そうして、エースが最後の島へと出掛けている間に、魔女の物語は最後の章まで辿り着いてしまっていた。村の子供に薬を与え、そしてその子供はほどなくして息を引き取った。

物語の裏側を語るのなら、その子はもう私には手の施しようもない病状だった。だからせめて苦しまないようにと、鎮痛薬と心を安らげるハーブを置いていった
だけど、そんなことは物語の中で語られることはない。
悪い魔女が毒を使い子供を殺した。その一文だけで事足りるのだ。そうして悪しき魔女を討つべく、あの若き首長が剣を取りここへとやって来るだろう。

顔を上げれば、青い海がどこまでもどこまでも広がっている。エースの差し出した手を取っていれば、この物語を抜け出していけたのだ。だけど結局、自分の最期を悟ってまでも捨て去ることが出来なかった。
あんな約束をしてしまったせいで、エースはいつかきっと魔女の末路を知るだろう。そうして、私の嘘を怒るだろう。

だけど、エースには分からないのだ。魔女の物語の最後のページが抜け落ちてしまったら、それこそ私の生まれ育ったことすべてが無価値になってしまうんだって。それはこの島に生まれ育った人間にとって、死ぬことよりも怖いことだって。
エースはどこまでもこの物語の外側にいるのだから。





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