回想、恋の始まり
──回想。
あれはまだ、私たちが雄英の二年生だった頃の冬。
例年よりも早い初雪が降った、寒さも厳しい冬だった。あの日も、前日の夜からしとしとと静かに雪が降り続いていた。明け方、朝の始まる気配に誘われるようにして目を覚ました。寒さに震えるよりもずっと、何かが始まるような昂揚感が胸の奥底をざわつかせていて、もう一度眠りにつける気がしなかった。
仕方がないから散歩でもしようかと、簡単な身支度を済ませて寮の外へと出た。
今年一番の積雪になると数日前から騒がれていた通り、目の前の景色は一面の銀世界だった。
まだ陽も昇り切らない薄ぼやけた視界。立ち並ぶ寮も、木々も、すべてが純白だった。この世界に住むすべての生き物の深い眠りの気配。
冬眠からひとり目覚めてしまった朝があるとしたら、こういう気分なのかなと、まだ山奥で春を待っているはずの生き物に想いを馳せてみる。
足を進めるたびに、さくさくと雪が潰れる音が響く。まだ誰にも踏み付けられていない新雪に、私だけの足跡が軌跡を残していく。
私だけの、世界みたいだ。
もう一生、誰にも出会えず、この冬は二度と明けることがない。
どうしてか急にそんなことを考えてしまって、途端に淋しさが込み上げた。今頃みんな自分の部屋で暖かくして眠っているはずで、早くそこに帰りたかった。急がないと、本当にこのひとりぼっちの冬に閉じ込められてしまうような気がした。
雪に足を取られることにもどかしさを感じながら、A組の寮がやっと見えてきたと思ったとき、入口の扉がゆっくりと開いた。
「みょうじ」
「……轟くん」
「何やってんだ、朝っぱらから。寒ィだろ」
扉を押さえながら、不思議そうに私を見つめる轟くん。喋るたびに白い息が空へと舞い上がって消えていく。
少し散歩をするだけのつもりで出てきた私の服装は、コートを羽織っているだけで、マフラーも手袋もない。鼻先も指先も、痛いくらいに冷たくなっていたはずだ。
だけど、轟くんの問いに対して「うん」と頷いたのか、「大丈夫」と首を振ったのかは思い出せなかった。それ以上に、胸の昂りに戸惑っていた。
朝起きてから感じていた昂揚感。それは雪の淋しさによって徐々に萎えていったはずだった。それが今は、急激に高鳴っていた。生まれてはじめて感じる、喜びと苦しみが同時に身体を貫くような心の昂り。どうして急に、こんなどうしようもない衝動に襲われたのか分からなくて混乱する。
「目が覚めて、雪が綺麗だったから」
自分を落ち着かせるために、平常を装って会話をしようと思った。私の言葉に、小さく「雪か」と呟いた轟くんが、あたりを見遣るように首を回した。そして、柔らかく目を細めた。
「ああ、確かに、すげぇ綺麗だな」
呼吸をするのを忘れた。それくらい綺麗な横顔だった。昇りはじめた朝日が、私たちを照らすように射し込んだ。
これは、恋だ。
疑う余地もないくらいに確信し、自覚した。今この瞬間に、私は轟くんに恋をしたのだと。
幕間。
──回想、もうひとつ。
あれはまだ、私たちが雄英の三年生だった頃の夏。
過去最高の猛暑の記録を、毎日のように更新し続けた夏だった。あの日も相変わらず、むせ返るような暑さに辟易しながら、私は自販機の影にしゃがみこんでいた。吹き抜けるのは生温く熱された風ばかりなのに、冷房の効いた室内へと動くことも億劫だった。
前の時間の屋外での訓練で流れた汗が引かず、このままでは制服に着替えることも出来ない。そう思っていたら、隣に人の気配がした。
「あっ、爆豪だ。おつかれー」
「何やってんだ、んなとこで」
「暑いから冷たいものを買いに来たのに、お財布の中に一万円札しかなくて絶望してたとこ」
手に持った最近買ったばかりの財布を、爆豪に向けて振ってみせる。
どうして小銭って余計なときは溜まってくのに、欲しいときに限ってないんだろう。そんな感じのことを爆豪に話しかけたけど返事はなくて、まあ爆豪だもんなって諦めながら、屋根の庇と青い夏空を見上げた。
ジージーと鳴り響く蝉時雨、爆豪が財布から出す小銭の音、どこかの教室から届く話し声、ガコンとペットボトルの落ちる音。夏の一風景。
「おい」
「え?」
うだるような暑さと、冷たいジュースを飲むという目的を達成できなかった落胆で動き出せない私を置いて、このまま去っていくとばかり思っていた爆豪にかけられた声。それに驚いて顔を上げると、目の前にペットボトルの底が現れて、もう一度びっくりした。
「文句は聞かねぇぞ、てめェの好みなんか知るか」
爆豪がそう言い捨てると、私の額にぐりぐりとペットボトルを押し付ける。冷たいし、痛かった。
だけど受け取ってみれば、それはあの夏に私が気に入ってよく飲んでいた炭酸水だった。
私を睨みつけるように見つめる、爆豪の双眸。夏の暑さを染み込ませたみたいな赤。爆豪の頬を伝って、汗の雫が落ちていく。それがアスファルトに落ちた瞬間、分かってしまった。
爆豪は、私のことが好きだ。
それは驕りでも勘違いでもない、最初から決まりきっていた事実のように自然と胸に馴染んだ。
だからあれが、私たちの不毛で、報われなくて、だけど決して不幸せなんて呼べない。むしろ幸福にさえ近くて、でもやっぱり苦しかった──そんな恋の始まりだった。
そうして私が、恋をしていることを自覚し、さらに恋をされていることを知ってから数年が経った。その間に、私たちは無事に雄英を卒業し、ヒーローとしての道を歩き始めている。
だから今日も私がいるのは、砂埃が舞い立ち、爆音が響き渡り、火花が飛び散る街中だ。人通りの多い繁華街。逃げる市民のルートを確保しながら、飛び散る瓦礫によって建物が余計な被害を受けないように立ち回る。
攻撃というよりは、圧倒的に防御に適した私の個性。どうしても人や建物など障害の多くなる市街地での戦闘の際には重宝され、こうして呼ばれることが多かった。そして、そんな派手な戦いの渦中にいるのも大体決まった顔ぶれなのだ。
一段と大きな爆発音と火花が飛び散り、氷の破片が空を舞う。それが無事にアスファルトへと落ちて砕けたことを確認してから、発動していた個性を解除した。
「お疲れ様。ダイナマイトさ、今日ホントこっちに色々ぶっ飛ばしすぎ。もう何度ヒヤヒヤしたことかわかんないよ」
「うるせえ。てめェがいるから派手にぶっ放せてんだろ」
「……そう言われると、悪い気しないんだよなあ」
ふん、と鼻を鳴らす爆豪に、口をへの字に曲げながら肩を竦めてみせる。完全に意識を失っているヴィランを拘束していた轟くんが私の方を見る。
「わりぃ、俺も結構そっちいった」
「ううん、ショートは気遣ってくれてたのも分かってるから大丈夫だよ」
「あ? なんでだよ、バカでけェ氷だったろーが」
申し訳なさそうな轟くんに、私の方が恐縮して首を振っていたら、爆豪から背中に足蹴を喰らった。痛い。文句を言おうと振り返ったとき、駆けつけてくるサイドキック達が視界に入った。
「ありがとうございました。後はこっちでやっておきますんで、解散してもらって大丈夫です」
轟くんからヴィランを引き受け、各所への連絡を始める新人くん。なんとなく、この喧騒から取り残されたような気持ちになる。張り詰めていた緊張がぷつんと解けて、身体を伸ばすように肩を回した。
ここにいてもこれ以上はやることがなさそうだと判断して、残りの二人の方に顔を向ける。
「じゃあ、帰ろうかな。私今日ほんとは休みだったから、これで直帰なんだよね」
正確な時間は分からないけど、 お昼を過ぎた微妙な時間のはずで、これから休日を満喫しようという感じでもなくなってしまった。仕方ないか、と思いながら息をつくと、ふいに轟くんと目が合う。
「みょうじもか。俺も緊急の呼び出しだった」
「えー、そうなの? あ、てか爆豪もだったよね。さっき話してんの聞こえた」
現場に着いたとき、爆豪がさっきの新人くんから謝られているのを聞いたことを思い出して口にすると、爆豪は面倒臭そうに舌打ちを返してきた。それが否定ではなくて肯定の意味だと分かるくらいには長い付き合いになっている。
だからつまり、まさかの三人が休日返上の緊急出動だった。
「ある意味奇跡だね。いっそ三人で遊んで帰る?」
絶対に爆豪に拒否されると分かりきった軽口を叩いてみると、意外にも爆豪は何も言わず、黙って私の手元を見つめていた。
「それ、何持ってんだよ」
「ああ、コレ?」
爆豪の視線の先。私の手の中にある小さなボトルの入った透明な袋。それを顔の前まで持ち上げてみせる。
「シャボン玉。さっき助けた男の子がお礼にってくれたの。あ、一緒にやる? ちょうど三個セットだし」
「やんねェわ!」
「えー、いいじゃん。ダイナマイトだって、子どもの頃はシャボン玉くらいやったでしょ」
少し寄り道したものの、元の軌道に戻ったくだらないやりとりにケラケラと笑ってみせる。そんな私たちを見つめていた轟くんの視線はずっと、私の手元に注がれている。
「俺、やったことねェ」
「あっ、そうなの? じゃあ、轟くん一緒にやろうよ」
近くの公園を指さすと、轟くんは黙って頷いた。爆豪が「は?」と声をもらす。めちゃくちゃ撤去作業の隣だけど、もう民間人の避難は済んでいるし、見られるのはサイドキックたちからくらいだろう。解散していいとは言われたし、少しくらい遊んでても大目に見て欲しい。
そして、公園内の東屋の近くに移動し、男の子から貰ったシャボン玉の袋を開ける。ピンクと黄色と青のボトルをそれぞれに配り、緑のストローも手渡す。
「結局、爆豪もついてきてんじゃん」
「うるせぇな、さっさと寄越せや。飛ばし殺したる」
「なにそれ、こわ。飛び道具なの?」
他愛もない会話。シャボン液に浸したストローに息を吹き込むと、小さな丸い泡が無数に初夏の風に乗って飛び去っていく。さっきの戦いで舞い上がっていた埃っぽさもおさまり、今は薄い青の絵の具を引き延ばしたような爽やかな空が広がっている。緑の濃くなりはじめた木々の葉の隙間から射し込む太陽の光を反射して、虹色を帯びるシャボン玉。
「みょうじ、爆豪! 見てくれ!」
「おお、凄いね! 特大サイズじゃん」
興奮した轟くんの声に反応して顔を向けると、ゆっくりと浮かび上がる、手のひらくらいの大きさのシャボン玉が目に入った。その隣で誇らしげな表情の轟くん。久しぶりに童心に帰れて楽しいなと思っていたけど、こんなにはしゃいだ轟くんまで見えるなんて、さっきの男の子にもう一度心からお礼を言い直したい気分だ。
「あっ、轟くんならコレ、凍らせられるんじゃない?」
「コレをか?」
「うん、凍ったシャボン玉とか、綺麗そうな気がする」
やってみる、と頷いた轟くんが右手をシャボン玉へと向ける。念のため、私もシャボン玉を受け止めるような姿勢で両手を差し出した。
ひんやりとした冷気を感じ始めると同時に、透明なシャボン玉の輪郭が少しずつ明瞭になっていく。重みを増したのか、ゆっくりと降下してきたシャボン玉が私の手のひらに着地した。私の体温で割れてしまうことを心配したけど、そのへんは轟くんが上手く調整してくれているらしい。
そうしているうちに、シャボン玉の中に一つ、二つと雪の結晶が浮かび上がってくる。
「わあ、すごい綺麗! 爆豪、これ写真……」
まるで雪の結晶を無数に閉じ込めたガラス玉のようなシャボン玉を、爆豪に写真を撮ってもらおうと振り返ったとき、手のひらの上で爆発した。飛び散る火花。しゃがみ込んだまま、こっちを見上げる爆豪のニヒルな笑み。
「ハッ、雑魚かよ」
「 爆豪……! 轟くん、もっと作って! 次は守り通すから」
「お、おう」
またストローをくわえ、ゆっくりと息を吹き出す轟くん。その隣で私も個性を発動する準備をする。爆豪も立ち上がって手首を回しはじめている。いい歳したヒーローたちの子供じみた争い。それは、数分後に「遊んでるだけなら手伝ってください!」とサイドキックたちに叱られるまで続いた。
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