きみのとなりに帰れない


答えは決まってもそう簡単に三井くんと話すことは出来ない。三井くんと知り合ってからの時間があまりにも居心地がよくて、欲張りな私はつい、失うのが怖くなってしまう。
だけど、それが恋という感情である以上はいつまでもずるずると続けるわけにもいかないことも分かっている。だから、少し、あと少しだけ、勇気を出すのに時間が欲しい。

変に避けるよりはいいと思い、三井くんには少し考えたいことがあるからと連絡を取らないことを伝えてある。別にそこまで頻繁に連絡を取りあっていたというわけではないけど、三井くんからの連絡のないスマホも一緒にご飯を食べに行かない夜も、随分と空っぽに感じるものだ。

そんなことを考えながら、お風呂上がりの髪をタオルで吹いていると、テーブルの上に置いてあった携帯が振動していることに気がついた。慌てて手に取ると、そこに表示されていたのは珍しい名前だった。

「もしもし、仙道くん? 電話なんて珍しいね」
「急にすみません。今大丈夫ですか?」
「うん、平気だよ」

携帯を耳にあてながら、見てもいないのに付けっぱなしだったテレビを消してソファに座り直す。仙道くんと最後に連絡を取ったのは月バスの特集のときで、こうして声を聞くのなんていつぶりだろう。

「遅くなったけど、魚住さんのとこ行きません?」
「ああ、そんな話してたねー」
「なんだかんだ忙しくて時間取れなくて」
「仕方ないよ、練習厳しそうだったし」

仙道くんに練習試合に呼んでもらった日に交わした約束。てっきり流れてしまったものだと思っていたので、まだ仙道くんが覚えていたことに少し驚いた。
インカレを制覇した仙道くんの大学は、月バスでも今年は目標をインカレ優勝に定めて、チーム全員で特に厳しく練習に励んできたと書かれていた。期待のルーキーの登場に、さぞかし士気も高まっていたに違いない。
そうして無事に目標を果たし、スプリングトーナメントまでは大きな大会もない今、やっと時間が出来たということなんだろう。

「急なんですけど、来週とかってどこか空いてます?」
「えっとね、火曜と木曜……あと土曜日ならバイト休みだよ」
「あ、土曜ならオレも練習午前だけなんで、その日の夜とか」
「うん、大丈夫。空けておくね」
「魚住さんにはオレから連絡しておきます」

携帯を切ってから、鞄から取り出したスケジュール帳に『仙道くんと魚住くんのお店』と書き込む。この二週間、ここに三井くんの名前はない。
パラパラとページを捲れば、三井くんの試合を見に行った日や一緒に出かけた日まで健気に書き込んでいる自分に笑ってしまう。

壁にかけたコルクボード。そこに貼られたインカレの時の三井くんの記事の切り抜き。コートの上の真剣な三井寿の表情しか知らなかった私が、あの横顔から無邪気な笑顔も人をからかうときの意地悪な顔も思い出せるようになってしまった。
だけどもう、このスケジュール帳には試合以外で三井くんの名前は登場しない。私にとっての三井寿はこのコルクボードに詰め込むだけ。


















土曜日。約束の時間通りに待ち合わせの駅前に現れた仙道くんと一緒に魚住くんのお店へと向かう。
混んでいるだろうと思っていたけど、魚住くんのお父さんが気を使ってか小さめの個室を用意してくれていた。そこで仙道くんと話しているうちに、少し手の空いた魚住くんも来てくれて、久しぶりに三人であれこれと話すことが出来た。

帰り際、見送ってくれた魚住くんのお父さんにお礼を言って、「また来るね」と魚住くんに手を振って別れた。そんな帰り道、まだまだ春には程遠い冬の夜は息を凍るくらいに寒い。だけど、美味しい料理で満たされたお腹とつい飲んでしまった日本酒のおかげで、身体は内側からぽかぽかだ。

「楽しそうですね」
「うん、美味しかったし」
「今度、三井さんとも来たらどうですか?」
「あー……三井くんとはね、もうそういうのやめようと思って」

星のない空を見上げながら、なるべく感情を出さないように口にした言葉に仙道くんは大きく目を丸くした。

「三井さんのこと好きなんじゃないんですか?」
「好きだよ」
「じゃあ……」
「憧れと恋を一緒にしちゃ駄目なんだよ」

仙道くんの声にかぶせるように口にした言葉は自分への戒めだ。近づきすぎてしまった憧れと恋は、お互いを薄め合ってしまう。どちらかになるための手段にすぎなくなってしまう。私の憧れは、そんなものじゃない。

「……それで、いいんですか?」
「うん。三井くんと一緒にいるのは楽しいけど、好きになっちゃった以上は一緒にいれないよ」
「三井さんだって、なまえさんのこと好きだと思いますけど」

本当は告白されていたんだなんて、私の口からは言えないから曖昧に笑って誤魔化す。そう、両思いだった。もしも私がただ陵南の試合を見たついで三井くんを知っていただけだったら、バスケになんて興味がなかったら、私たちは恋人同士になれていたんだろうか。

なんて仮定に意味は無い。私はあの日、三井寿を見てしまった。そのシュートの軌道から目が離せなくなってしまった。どこまでもどこまでも、ただ一方的に三井寿を追いかけたあの日々に、私は青春のすべてを注ぎ込んでしまった。

「だって、私たちが付き合ったとして、今よりももっと深く関わるようになるとするでしょ?それで例えば、喧嘩なんかしたせいで三井くんの調子が悪くなったら、私は許せないと思う」
「三井さんを?」

小さく笑って首を振る。違う。三井くんにはなんの否もない。ただ、私の自己満足でこの恋は成就しないんだから。

「私を。そんな形で三井寿のバスケに関わってしまった私を、許せなくなる」

私の顔を見つめて、仙道くんが言葉を失ったように開きかけた口を閉じた。情けない顔をしている自覚はあるけど、もしかしたら少し泣きそうなのもバレてしまっているかもしれない。
手に入れたかった恋と、手離したくない憧憬。選べたはずの未来と輝かしい過去。

「実はなまえさんの大学、忘れてたわけじゃないんです」
「え?」
「三井さんと同じとこだって知ってて、言わなかった」

唐突な仙道くんの発言に上手く頭がついていかない。忘れてたわけじゃないというのは、三井くんへの誕生日プレゼントを買いに行った日に会ったときのこと? 言わなかったというのは、私が進学を決めた大学の話をした高校生の頃?
どうして今、仙道くんはこんな話を私にしているのだろう。

混乱する私をよそに、仙道くんの瞳が真っ直ぐに私を見据える。ひとつ向こうの大通りを行き交う車の音が一瞬、世界から消えたような気がした。

「もしも、なまえさんが初めて見たバスケがオレだったら、なまえさんの青春はオレでした?」

時間が止まったように静かな世界で、心臓の音だけが大きく聞こえる。仙道くんのバスケは何度も見たことがある。白いユニフォーム、陵南のロゴ。あのチームの誰よりも秀でたその才能をちゃんと知っている。

だけど、それが初めてだったなら?三井寿を見る前に、三井寿という私の中の絶対的な光を見てしまう前に仙道くんを知っていたら、何か変わっていたんだろうか。

「……ごめん、分からない」
「ハハッ、そうですよね。気にしないでください」

それから仙道くんはすぐに話題を変えて、取り留めのない会話をしながら並んで歩いた。遠くに駅の灯りが見えてくる。

本当はさっき、まるで告白をされているようだと思ってしまった。そうであって欲しいと願っているかのような切実な表情。私の答えに少し傷ついたように揺らいだ瞳。だけど同時に、安堵したような笑み。
肯定と否定、どちらが彼の望んだ答えなのかもわからないまま、それぞれ方向の違う電車に乗りこんだ。夜はしだいに更けていく。






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