はじまりを揺らす音がした


気まずい沈黙。それもそうだ。ただ講義室の場所を尋ねようと思った女が知り合いでもないのに自分の名前を知ってるとか怖すぎる。

「あ、いや、私、高校が陵南で……」
「ああ、陵南」

三井寿の表情が少し変わった。陵南という聞き馴染みのあるワードに安心したのだろう。ありがとう母校。三井寿がいなくても入学したかいがあった。

「魚住くんって知ってるでしょ? 私、三年間クラスが一緒で、湘北との試合も見に行ったことがあるの。だから、そこで三井くんのことも」
「魚住と一緒ってことは、二年か?」
「うん、そう。文学部二年」

なんとか不審女のレッテルが剥げたところで不意に予鈴が鳴り響いた。早めに来て図書館で課題でも進めようと思っていた私とは違い、わざわざ教室の場所を尋ねてきた三井寿は次のコマは講義があるのだろう。

「あ、やべ」
「201の講義室だったら、この二つ先の階段上って右の大教室だよ」
「悪ぃ、ありがとな。じゃあ、また」

走っていく三井寿の後ろ姿を見つめながら、肺の底からありったけの息を吐き出す。三井寿がいた。初めて見た、体育館以外での三井寿だ。わずかに震えている手を開いたり握ったりして自分を落ち着かせようと試みる。

まさか同じ大学にいたなんて思いもしなかった。この時期に初めて見かけたということは、去年までは別のキャンパスにいたんだろう。確かスポーツ系の学部があったはずだ。
今まであまり意識したことはなかったけど、うちの大学のバスケ部はそれなりに強豪だった気がする。推薦、なんだろうか。それならまだ、三井寿はバスケを続けてくれているんだろうか。

「また、か」

まさか三井寿からそんな言葉をかけてもらえる日がくるなんて想像もしていなかった。また、会うことはあるんだろうか。これからは同じキャンパス内にいることになるのだから、すれ違うことくらいあるかもしれない。その時、三井寿に声をかけて貰えてしまったりして。

(ああ、駄目だ)

置いてきたはずの青春が疼くのを誤魔化すように胸をさすり、ズレ落ちていたカバンを肩にかけ直す。そして、三井寿が走っていたのとは反対の方角へ向けて足を進めた。
















再会はあまりにも早く、そしてあっけなかった。

「よお、さっきの」
「三井くん」

食堂で日替わりのランチプレートを手にうろうろしていたら、窓際の二人用のテーブル席で山盛りのカツ丼を頬張っていた三井寿と目が合った。

「一人か? なら、ここ座れよ」
「いいの?」
「オレも一人だし、ちょうどいいだろ」

三井くんの向かいの席を指さされ、一瞬戸惑うも別に断る理由もない。今日はいつも席を取ってくれている友人が休みで、なかなか空席が見つからず困っていたのも事実だ。
「お邪魔します」と声をかけてそこに座れば、三井寿は満足したように頷き、大きな口でまたカツ丼を食べ始めた。

「そういや、よくオレの名前まで覚えてたな」
「三井くんのことよく覚えてるよ。スリーポイントシュートだよね、かっこよかった」
「へえ、結構行ってたのか? 陵南の試合」

一瞬言葉に詰まる。陵南の試合も何度か観た事があるのは事実だけど、湘北戦以外は、まあついでに観ていくか程度だった。こんなことならもっと図書館で三井寿との会話対策をしておくべきだったと、真面目に課題を進めていた数時間前の自分を恨む。

「え……あー、うん、それなりに?」
「へえ、魚住と仲いいんだっけ」
「まあ、普通かな。今でもたまに連絡取るよ……あとは、ほら、仙道くんを、見たくて」

魚住くんだけでもよかったのだけど、こういうときはミーハーを装うのが一番無難だと分かっている。陵南でいえば仙道くんファンって言っとけば練習試合を見に行っていても対して目立たなかった。

「あー、仙道な」
「ふふふ、仙道くんも大学でバスケやってるんだってね」
「そうらしいな」

仙道くんの名前を呟きながら、苦々しく眉間をゆがめる三井寿を眺めながら、この間魚住くんから連絡が来た仙道くんの話をする。

「三井くんも、まだバスケやってるの?」
「おー、まあな」

あっさりと肯定された言葉に思わず胸が熱くなる。ああ、よかった。まだ三井寿がバスケを続けてくれていて、あのコートの上を走り、シュートを決め続けてくれていて、本当によかった。

「……うちの練習も見に来るか?」
「え?」
「なんか好きそうな顔してっから」

もうその事実だけでお腹がいっぱいになってしまいそうな感動を噛み締めていると、予想外のことを言われてハッと我に返る。そして慌てて、否定をするように胸の前で両手を振った。

「あ、いや、確かにバスケ見るのは楽しかったけど、今はバイトとか色々あるから」
「バイト? なにやってんだよ」
「普通にスーパーのレジ打ち」
「へえ」

話題がすんなり別に移ったことに安心して胸をなでおろしながら、あんなに拒絶することもなかったなと少し反省する。昔の私であれば喜んで飛びついていたであろう三井寿からの誘いを、どうして反射的に断ることしか思いつかなかったのだろう。

その理由にはなんとなく心当たりがあった。おそらく私は、三井寿を追いかけたあの青春の日々を心のどこかで神聖視しているのだ。そしてそれを、インターハイ、王者・山王工業への勝利、という最高の形で閉じ込めておきたいと思っている。
三井寿には変わらずバスケを続けていて欲しいけど、私の青春はその延長線上の惰性であってはならない。そんな身勝手で面倒くさい思い。

「あ、そういやまだ名前聞いてねえな」
「え?私の?」
「他に誰がいんだよ。ほら、名乗れ」
「みょうじ、なまえです」
「ん、みょうじな」

こうして向かい合って食事をして、会話をしても、それでもやっぱり三井寿が私の名前を呼んだことが信じられなかった。体育館に響き渡るどれだけの雑音の中でも、はっきりと聞き分けることが出来た三井寿の声。胸にひしめくこの感情は憧れともまた違う。ああ本当に、今日はとんでもない日だ。






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