愛なんてまだ知らなくていい


カーテンから漏れる光が眩しくて目を覚ますと、頭に鈍い痛みが走る。なにこれ、と戸惑っている間に意識は少しずつ覚醒を始め、そして今の状況がおかしいことに気づく。

いや、ここは確かに私の部屋で、ここで寝ているのはおかしなことじゃない。ただ、私は昨日バイト先の仲間とお酒を飲んでいたはずだ。そこから家に帰ったまでの記憶がまったくない。

「……うわぁ、これはやらかした?」

部屋の隅に置いた鏡に映る私は服こそ昨日と同じだけど、化粧は落としてある。それくらいはできる意識はあったということだろうか。

「いや、待って、三井くんは?」

混乱のあまり多くなる独り言に構う余裕もなく、昨日迎えに来てくれると言った三井くんのことを思い出そうとする。この部分の記憶が無いのは非常にまずい。
携帯は、と思い鞄を漁ると、充電が残りわずかにはなっているものの、しっかりといくつかのメッセージが届いていることを教えてくれていた。

慌ててメッセージアプリを起動すると、バイト先のメンバーからの心配のメッセージに混ざって、三井くんの名前がある。
恐る恐るそれを開いて、思わず息を飲んだ。

「……起きたら、連絡しろ」

読み上げたその一文に携帯をベッドに投げ捨てて頭を抱える。これを見る限り三井くんが迎えに来てくれたのは間違いなさそうだ。
そうなると問題はそのあと、どうやって送ってもらったかだ。なんとなくの家の場所を教えたことはあったけど、アパート名や部屋までは言ってなかったと思う。なら、自分で言ったんだろうか。

「まさか、部屋に入ったり……してないよね」

二日酔いのせいではなく青くなっているであろう私が見つめる先には、部屋の片隅に飾られたコルクボード。そこには、三井寿の県大会優勝時や全中での新聞記事。それから、高校時代に魚住くんに頼み込んで、バスケ部の後輩の子に撮ってもらった彼の写真が飾ってある。

女友達の部屋に中学からの自分の写真が飾ってあったらどう思うかなんて考えるまでもなくわかる。気持ち悪いし、ストーカーかよと怯えるだろう。違う、違うんです。
未だに部屋にこれを飾ったままにしていたこと、三井くんの迎えを断れなかったこと、昨日つい飲みすぎてしまったこと。一体どこまで遡ればいいのか分からない後悔を抱えて呆然としていると、ベッドの携帯が軽快な着信音を響かせる。

まさか、と思って飛びつくように確認すると、案の定そこに表示されているのは三井くんの名前だった。出たくない、と咄嗟に思うものの、出ないわけにも行かず意を決して通話ボタンを押す。

「……はい」
「既読ついたから起きたかと思って」
「……お、起きました」
「二日酔いとか大丈夫か?」
「ちょっと、頭は痛い、かも」

電話越しの呆れた声を聞きながら、だけどいつも通りの様子に、これはもしかして最悪の事態は防げてるんじゃないかと希望が芽生え始める。

「あのさ……私、昨日もしかして酔いつぶれてた?」
「はあ? 記憶ねーのかよ?」
「本当に面目ない……」

電話だと分かりながらもつい正座をして、ペコペコと頭を下げる。

「潰れてたっつーか、なんかいつもよりヘラヘラ笑って千鳥足だったけど、普通に自分で歩いてたぞ」
「そうかー、それならまあ……」
「で、部屋着いたら風呂入るって騒ぐから、顔洗うだけにしろって言って、その後は寝た」

完全に潰れて運んでもらったとかじゃなくてよかった、と思ったものの、聞き捨てならない言葉を聞いたような気がして、携帯を持つ手が震える。

「待って!私の部屋……入ったの?」
「あー……悪ぃとは終わったんだけど、なまえが家先でいきなり転びかけるから危ねぇなと思って」

本当に申し訳なさそうな三井くんの声に、それはいい、それはいいんだ、と声には出せないまま首を振る。

「いや、それは私が悪いからいいんだけど……その、コルクボードとかって、見た?」

部屋には入ったけど、コルクボードは見なかった、というわずかな望みをかけた言葉には、電話の向こうで明らかな間があった。

「ああ、それは見た。で、今なまえの家に向かってる」

はっきり告げられたその言葉に、さあっと全身の血の気が引く。そんな私なんて構わず「じゃあ、三十分くらいで着くからな」と言って、無慈悲にも切られた通話。
とにかく準備をしなければと、ろくに物も考えられない頭で、よろよろとお風呂場に向かった自分を褒めてあげたい。

















「はい、麦茶」
「おっ、悪いな」

宣言通り三十分ほどでやってきた三井くんに麦茶を差し出して、私もその向かいに座る。これから始まる死刑宣告を思って、当然正座だ。
私が渡したグラスを一口飲んだ三井くんがそれをテーブルに置き、すうっと壁のコルクボードを指さした。

「で、あれ説明してもらおうか」

今さら隠しても無駄だ、と潔くそのままにしたコルクボード。私が憧れてきた三井寿が飾られた写真の中で大きくガッツポーズをしている。

逃げられない覚悟はしていた。一度だけ大きく深呼吸をしてから、重たい口を開く。

「私、三井くんがMVP取った県大会、見に行ってたの」

三井くんの瞳が驚いたように少しだけ見開いた。その表情をこれ以上見ていられなくて、ぎゅっと目を瞑る。

「それからずっと、三井くんの追っかけやってた」

懺悔のようにぽつぽつと語った、私がその時の相手校の生徒だったこと、陵南に入った経緯と、それからの二年間。そして、三井寿を見つけてからの半年の話。
三井くんは特に相槌を打つことも無く、淡々と話を聞いてくれている。俯いたまま目を閉じているせいで、一体今どれだけ三井くんが険しい顔をしているかは分からないけど、これでもう私たちが一緒に過ごした時間は戻ってこないのだろうということだけが痛いくらい胸を突き刺してくる。

「ほんと、気持ち悪くてごめん」
「は? 気持ち悪いなんて思わねーよ。むしろ嬉しいっつーか……」

嬉しい、という思いがけない言葉に咄嗟に目を開ける。そこにいた三井くんは、確かに照れくさそうな表情をしている。てっきり軽蔑される覚悟をしていたのに、これが現実なんだろうか。もしかしたら私が都合よく見ている夢なんじゃないか。

「え、嬉しいの?」
「好きなやつが自分のことずっと応援してたなんて、嬉しいだろ、普通」

好きなやつ、とはっきりと三井くんは言った。思わず叫んじゃってもおかしくないようなセリフなのに、今は状況についていけなすぎて、言葉の意味を飲み込むので精一杯だ。

「え、やっぱり、三井くんって私の事好きなの?」
「まあな」
「……ええ、なにその普通の反応」

あまりにもあっさりと認められて、こっちまで拍子抜けしてしまう。

「別に隠す気もなかったからな」
「……私、どうしたらいい?」

溶けつつあった麦茶のグラスの中の氷が崩れ、カランと軽快な音を鳴らす。これが告白なのかも分からなくて、もうそのまま尋ねれば、三井くんは真っ直ぐに私を見据え、それから口元をにやりと上げた。

「なまえは、オレのこと好きなわけじゃないだろ」

そのことを考えていて飲みすぎた、なんて言ったわけじゃないのに、全部見透かされていそうなその表情。気まずくって目を逸らせば、窓の向こうの青すぎる空には白すぎる入道雲が浮かんでいるのが見えた。

「なんていうか……好きなんだけど、憧れてた時間も想いもでかすぎて混乱してる。少し、時間が欲しい」
「いくらでも待つから、ゆっくりでいいぜ」

こうして始まった三井寿と出会って五度目の夏。あんなにも遠く、手が届くとさえ思ってもいなかった存在が今、目の前にいる。手を伸ばせば、握り返してくれるのだと知って、むしろ動けなくなってしまった私はとんだ馬鹿なのかもしれない。

それでもやっぱり、そう簡単にその手は取れない。
冷房のよく効いた部屋で、窓の向こうから聞こえる蝉の声はまるで別の世界のことのように遠く感じる。







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