波に奪われないように


八月。レポートや勉強に追われたテスト期間が終わり、夏休みに入る学生も多くなり、大学のロビーはいつもよりがらんと人通りが少ない。
そんな私も、めでたく最後のレポートを無事に提出し終わり、これで大学生の長い長い華の夏休みの始まりである。

単位を落とす講義もなさそうだし、うきうきと構内の並木道を歩いていると、前の方に三井くんを見つけた。半袖のTシャツとジャージの姿を見るに、これから練習があるのだろうか。
小走りで近寄って、その顔を覗き込む。

「これから部活?」
「おお、ビビった。なまえか」

三井くんが私のことを好きだと分かったあの一件から、最初は多少の気まずさもあったものの、特に態度の変わらない三井くんに今では私もすっかり元通りに接している。

「これで夏休みか?」
「うん!最後のレポートだけ期限ギリギリになっちゃった」
「実家とか帰んのかよ?」
「一応ねー。まあ、近いからこまめに帰ってるし、バイトもあるからそう長くは帰んないけど」

お土産買ってくるね、と言えば、三井くんは可笑しそうに「何の土産だよ」と笑った。照りつける太陽の日差しに照らされて、その笑顔がいつも以上に眩しい。

「ってか、これから練習だよね? 邪魔してゴメン!」
「あー、そういうわけじゃねえから気にすんな」

あれ、部活じゃないのかと思っていると、不意に名前を呼ばれる。

「なぁ、海行かね」
「え、泳ぐの? 私水着持ってないけど」
「ちげーよ。今、テスト期間だったのと合宿前だから部活ねえんだよ。だから浜辺走りに行こうと思ってよ」

合宿がある話は前に三井くんから聞いていた。確か有名な避暑地に行くらしい。羨ましいなと思ったけど、言うまでもなく練習尽くしの夏を送るんだろう。

「この暑いのに」
「まあ、無理にとは言わねーけど」
「いや、暇だし行くけど……私、何したらいいの?」

雲ひとつない快晴の空。三井くんはそんな濃い青色の空を少しだけ見上げてから、首にかけていたタオルを頭に巻き直した。

「見とけよ、オレのこと」


















遠い水平線が青くぼやけ、空高くにカモメが飛んでいる。頭に三井くんによって乗せられたタオルを被りながら岩場に腰かけ、海岸の端の方を走っている三井くんを眺める。
寄せては返す波の音に混じって、少し離れた海水浴場の海の家から流れる大音量のポップ・ミュージックがかすかに聞こえてくる。

海水浴に来た人はみんなそっちの海岸に行くので、岩場も多いこの辺りには私たち以外の姿はない。
暑さを紛らわすために、さっきコンビニで買ったペットボトルを首に当てると、その冷たさに生き返る。座っているだけでもこんなに暑いのだから、三井くんもそろそろ休んだ方がいいんじゃないだろうか。

三井くんの分にもう一本買ったスポーツドリンクを持って、淡々と走り続けるその近くまで行ってみることにする。

「ちょっと休めば?」
「いや、もうこれで終わりにする」
「ん、おつかれさま」

大粒の汗を滴らせながら、Tシャツの首元をぱたぱたと仰ぐ三井くんに借りていたタオルを渡す。

「あはは、汗すごいね」
「あちー」
「はい、これ。少しぬるくなっちゃったかも」
「サンキュー。助かる」

スポーツドリンクを渡せば、一気に半分ほどが飲み干されていく。上下に動く喉仏に汗が一粒伝い、背後の夏空も相まってさながらテレビCMだな、なんて考えていると目が合ってしまった。

「なーに見蕩れてんだよ」
「……絵になるな、と思って」
「なんだよそれ」

おかしそうに笑う三井くんの声が、波の音と混ざり合う。砂浜には三井くんの足跡が並び、これらすべてが彼の努力の証なのだと思うと、無性に愛しくなってしまう。

蘇るインターハイをかけた陵南戦や山王戦。高校時代の三井くんがスタミナ面で課題を抱えていたことには、遠くからその姿を眺めているだけの私にも分かってしまうのだから、彼自身はもっと強くそれを感じていたのだろう。

「おい、なまえ。帰んぞ」

三井くんの声でハッと我に返る。すっかり自分の世界に入り込んでしまっていたらしい。三井くんは、いつの間にか砂浜から上がる階段の上まで行ってしまっていた。

「ごめん、ラーメン食べたいなーって考えてた。夕ご飯にどう?」
「この暑いのに」
「じゃあ、ひとりで行くからいいでーす」

大学で私が言ったことを真似たようなその口調。小走りで三井くんの横に追いついて、おおげさに拗ねたフリをして見せる。

「嘘だよ、嘘。でもまず、寮戻ってシャワー浴びるわ」
「え、じゃあうち来れば?」
「は?」
「ほら、それなら電車乗んなくていいし」

駅からは反対方向になるので少しだけ歩くことにはなるけど、海水浴客のごった返すこの時期の電車は、人と荷物で冷房があまり効かず暑いので好きじゃない。

「お前な……」
「別に今更あの部屋隠す必要ないし、それに」

私の提案に苦い顔をする三井くんが言わんとしていることは分かっている。やたらと男を家にあげるなとか、そのうえお風呂まで貸すなんて、とか、多分そういうこと。
そんな三井くんを見つめて、にやりと口元を上げてみせる。

「三井くんのこと信用してるし」

何か言いたげに眉間にシワを寄せたまま口を開いた三井くんが、諦めたように顔を背ける。

「……じゃあ、借りるわ」
「はーい、どうぞ」

別にあとでもう一度集まったってよかったんだけど、つい離れるのが惜しいなと思ってしまった。三井くんからの告白を保留にしながら、随分とずるいことをしている自覚はある。
ただ、ああして浜辺を走る姿が、私が憧れ続けた三井寿とも、こうして気軽にご飯に誘えるような三井くんとも違うような気がして、無性に掴んでいたくなったのかもしれない。







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