「―――っ木兎さん!」
「来いやァッ!!」

バシン。おおよそ同じ人間が出せるとは思えない打撃音から僅かコンマ数秒、目にもとまらぬ速さで叩きつけられるボールと床の衝突音が体育館に響き渡る。
また決まった。目を見張るような見事な連携、咆哮する銀髪の先輩、そして彼にボールを上げた黒髪の彼の肩を叩く仲間たち。
聞いた話し通りでいけば、あのコートに立つほとんどの選手は、彼より一つ上の先輩ばかりのはずだ。

「っしゃー次行くぞ次!!」
「あんまはしゃぐなよー木兎!」
「頼んだ、赤葦!」
「っす、」

ばしん、彼より少し小柄な先輩に背中を叩かれ、彼、赤葦くんは短く返事し頷いた。
背負うは信頼、預けるは背中。言葉にせずともプレーが語る確かな絆が目に、心に眩しくて痛い。

「アレがうちの新しい副主将だよ」

誇らしげに言う先輩の声が遠く聞こえる。私は頷くこともできずにただ立ち尽くした。
駄目だ。―――あんな見るからにすごい人、参考になんてなる気がしない。




異例の抜擢だと聞いた。

真夏の炎天下、燃えるような太陽光線にさんざんに肌を焼かれ、こんがり小麦色になりながら無我夢中で駆け抜けた夏休み。他の部活動にいそしむ友人たちからは「毎日プール入れるとか超いいじゃん!」とうらやましがられるものの、本格的なシーズンを迎える水泳部の夏を避暑気分で過ごせる時間など、都内強豪を謳うウチには残念ながら存在しない。

毎日くたくたになるほど過酷なメニューをこなし、運動エネルギーで筋肉が燃え上がるんじゃないか、お昼に食べたお弁当をすべてリバースするんじゃないかと半ば本気で思うほど消耗しながら、がむしゃらに練習し、大会に出場して。

そうして真昼の太陽の最高到達地点がゆっくりと低くなり始めた夏の終わり、顧問から言い渡された予想だにしない台詞に、私は心臓を凍り付かせた。

「次の副部長は、名字、お前に頼むことにした」


異論を唱える声がした気がするが、誰が何を言っていたのかはっきり言って覚えていない。多分その中には私自身の声もあったはずだ。無理です、だって私まだ入ったばっかりで、一年で。二年生だって主将以外にいるのに。
しかし決定を覆す言葉を顧問の口から聞いた覚えもまた、なかった。

異例の采配。入部半年足らずの一年坊主に副主将なんて無茶振りも程がある。一晩明けて朝一番に職員室に乗り込み顧問と直談判するも、三年全員で話し合って決めたことだと異論は認められなかった。

同輩たちもかなり戸惑っていた。「いくらなんでも責任が重すぎる」「名前の負担はどうなるんだ」と心配してくれる子もいたが、どことなく遠巻きに様子を伺うよそよそしさが漂い始めるのに時間はかからなかった。

新体制になって僅か一週間後の部会前、打ち合わせのためになけなしの勇気を振り絞って主将の教室を訪れた。だが主将である彼女の態度は終始どこか硬く、私はますます萎縮する他なかった。

とどめを刺したのは同輩たちが声を潜めて噂していた内容。
二年生の一部が三年生の教室まで赴き、今からでも副主将を決め直すべきだと直談判したとのことだった。

ぷつん。張り詰めていた糸が切れたと同時に、私は体調が優れないと顧問に嘘をつき、部活を休んだ。


その翌日、きっと酷い顔をしていたに違いない私を拾ってくれたのは中学時代からの先輩だった。
元気かと尋ねてくれた先輩の変わらぬ緩い声に、私は思わずここ数日に起こった目まぐるし事態についてぽろっとこぼしてしまった。
すると最初こそ驚いた顔をした先輩はしかし、すぐに何か思いついた顔をして言ったのである。

「ね、じゃあ一回ウチ来てみない?」

名字ちゃんと同じで、この夏から副主将に抜擢された一年生セッターがいるんだよね。


耳を疑うとはまさにこのことだった。まさか私と同じ境遇にいる同級生が他にいるなど考えもしなかった。
先輩がマネージャーとして所属するのは男子バレー部、相手の同級生も当然男の子だろう。一瞬ためらったものの、私は藁にも縋る思いで二つ返事に頷いた。

だが少し考えればわかる話だ。梟谷学園男子バレー部は全国クラスとして名を馳せる強豪チームである。そこで二年生の先輩たちを抑えて副主将になるという時点で、その一年生がいかに実力・人望ともに申し分ない人物であるかなど想像するまでもない。
練習風景を目の当たりするまで気づかないなんて浅はかにも程がある。

コート上で躍動する同級生には見覚えがあった。隣のクラスの男の子で、学年でも抜きん出て落ち着いた紳士系男子だと女子にも評判の彼の名は赤葦京治。ほとんど話したことのない私も名前だけは知っている。
考えるまでもない。彼はきっとなるべくしてその役職についた人だと私は思った。つまり初めから参考になんてなるわけがなかったのだ。

「赤葦ー、ちょっといい?」
「、はい」
「せ、先輩私やっぱり、」
「ええ?ここまで来ちゃったんだから話していきなよ。赤葦不愛想だけど良いやつだから大丈夫」

そんな問題じゃないんです。半分泣きたい思いで言い募ろうとするもそんな時間もなく、怪訝そうな顔をした赤葦くんがタオル片手にこちらにやってくる。
僅かな歩数と長い脚で簡単に距離を詰めた彼は、先輩の後ろで縮こまる私に気づいたらしく、ますます要領を得ないという顔をする。私は思わず俯き、どうしてあの時見に行きますなんて言ってしまったのかとひたすら後悔した。

「…え、名字?」
「え、」
「あれ、もしかして知り合い?」
「いえ、そういうわけでもないんですけど…」
「なんだ、そうなの。この子ね、私の後輩で水泳部の名字名前っていうんだけど、赤葦と同じで一年生副主将なんだって。で、ちょっといろいろ不安でわかんないことばっかだって聞いたから、赤葦に聞いてみたら―って話になって」
「、俺に?…まあ、俺でよければ構いませんが」

赤葦くんの表情がわずかに動く。ほんの少し虚を突かれた様子を見せた彼は、やや迷いのある口調で応じた。
その煮えきらない様子に居たたまれなさが膨れ上がる。今すぐここから消えたいほど小さくなりながら、私は必死に言葉を探した。

「あ、あの、いいです、大丈夫です。赤葦くん忙しいだろうし、ホント全然…」
「いや、そういう意味じゃないよ。ウチはちょっと特殊っていうか…普通じゃないから、どこまで力になれるかわからないと思って」
「あー確かにね、主将がアレだし」
「半分は世話係と同義ですから」

呆れたように笑う先輩と淡々と応じる赤葦くんに、私はまったくついてゆけず立ち尽くす。世話係とはいったい何の話だろう。
そのやり取りの不可解さもさながら、彼の表情の微妙な変化を理解するにも、私は余りに赤葦くんを知らなさすぎた。





「で…何を話せばいいかな」
「あ…その」

気まずい。驚くほど気まずい。体育館横の水飲み場、十分すぎる夏の名残を残した西日を背に、向かい合って立つ赤葦くんに、私は完全に気後れしていた。原因は先ほど彼を自主練に誘ったあの銀髪の先輩にある。きっと赤葦くんと練習したかったであろう先輩を、しかし赤葦くんは軽くあしらいさっさと体育館外に出てしまったのだ。
二人の練習のお邪魔をしてしまったことがなおさら私を萎縮させていた。

「…ごめん、さっきの先輩、あの、赤葦くんの自主練の邪魔しちゃって…」
「いいよ、今日ぐらい。いつもさんざん付き合わされてるし」
「ホントに?…大丈夫だった?」
「うん。あの人バレー馬鹿代表みたいな人だから」
「…そうなの…」
「ちなみにそれが主将なんだけど」
「えっ」

ボトルに口をつける赤葦くんに虚を突かれた。つまりあの銀髪の、一際暑く…いや元気いっぱいだった先輩が部長ということか。
確かにたった一度練習試合を見学しただけでもあの圧倒的な存在感と実力は素人目にも明らかだったが、赤葦くんが相当に安定している分、彼は際立って気分屋というか、アップダウンが激しそうな様子に見えた。てっきり金髪の先輩あたりが主将なのかと思っていたのに。

あからさまに驚いた反応を隠せなかった私に、ふっと笑った赤葦くんがさっくり踏み込んできた。

「今意外だって思った理由って、何?」
「あ、いや、その」
「責めてるわけじゃないから言ってみて」
「…えー、と」

なんでそんなことを聞くんだと思いつつ、私はさっき感じた印象をかいつまんで(かつオブラートで厳重に梱包して)話してみる。じっと注がれる視線から逃げて彼の足元を見ていた私に、彼は言った。

「すごいな。一回見ただけでそこまでわかるって」
「え、いや…ただの勝手な印象だよ」
「いや、すごいよ。二、三日見てればわかることだろうけど、名字が見てたのって一試合だけだったし」
「…、……」

淡々とした肯定に返す言葉が見つからない。これは褒められているんだろうか。だとすれば大変有難い話なのだろうが、如何せんその意図がわからないためあるのは困惑だけである。
そんな私の困惑を気にした様子もなく、彼はふいに視線を投げた。

「俺が副主将になったのって、ほとんど木兎さん…あの人のせいなんだよ」
「…と、言うと…?」
「良くも悪くも俺らのチームの原動力はあの人だから、あの人が部長になるのに異論は出なかったんだ。でも名字が言った通りアップダウンが激しすぎるし、気分屋だし単純だし、すぐ熱くなるから扱いが面倒臭いんだよ」

あまりに包み隠さなさすぎる直球発言に一瞬目が点になった。仮にも先輩、仮にも主将に向かって遠慮も躊躇もない一刀両断。なんてこった。

知的で大人びた紳士系男子、そんなクラスの女の子たちが噂する人物像と、目の前の彼にはどこか温度差がある。しかしそこに重い負の感情は見えず、あるのはただ「仕方ないなあ」なんていうような呆れと諦め、それを埋め合わせてなお余る――――そうだ、厚い信頼。

「で、比較的木兎さんの扱いに慣れてる俺が抑え役として副主将になったってわけ」
「……えっ?」
「言ったでしょ、『ウチはちょっと特殊』だって」

遠くを眺めていた赤葦くんがふっとこちらに視線を投げた。その口元が微かに弧を描く。いかばかりか得意げな彼の様子に、私はみたび呆気にとられた。
いやでもそれ、それは…確かにちょっと普通じゃないぞ。いや主将を補佐するのが副主将なわけだから、ある意味それも間違いじゃないけれども。そうではあるけれども。

「…他にも二年生はいる…んだよね」
「いるね。レギュラーはほとんど二年だよ」
「…プレッシャーとかって感じなかった?」
「…正直結構キツイ時はキツイな。先輩の中には当然、良く思わない人もいるし」
「…そ、りゃそうだよね」

まあ部活中はずっと木兎さんが傍にいるし、漫画みたいな修羅場とかは皆無だけど。さらりと口にする赤葦くんは相変わらず涼しげな表情にしか見えなくて、私は彼の先輩方なら今の彼からいろんなものを読み取るのかもしれないとぼんやり思った。しかし不意に彼が言う。

「けど、俺一人で副主将なわけじゃないから」
「、」

淡々とした彼の声に、冷たさはなかった。プレッシャーを感じているようにも、突き放したようにも聞こえない。
しかしその言葉は、俯いてばかりの私の頭を跳ね上げるには十分に心に突き刺さった。

「名字さんの話、知らないわけじゃないよ。一年で副主将って多分俺らだけだろうし、俺もいろいろ言われてるみたいだから」
「…、」
「けど、木葉さんが―――あの金髪の先輩が」

あんま気張んなよ、『一年』を育てんのが俺らの役目なんだからな。

「…って」
「―――……、」

バレー部と水泳部じゃ事情は違うだろうけど、それは変わらないんじゃない。


――――二年がいる中、一年を副主将に選ぶなんて普通じゃない。
けれど、だからだ。そうだ。だからこそそこには、普通じゃない理由があるはずなのだ。

私は自分が選ばれた事実に圧倒され、『自分が選ばれた理由』を知ろうともしていなかった。考えたってわかるわけがない、確かにそれはそうで、だがそれならば聞けばよかったのだ。そして見込まれた理由、私の選ばれたその目的を全うするところから始めればいい。
わからないなら聞いて、間違ったら叱って貰えばいいのだ。顧問に、主将に、先輩方に、同輩に。

副主将だから主将を補佐して、頼れる存在でいなければならない。部を、みんなを引っ張っていかなければならない。
ご立派な考えだ。それでいてなんて高慢な勘違いだろう。
自分は一年坊主だと訴えていながら、私は『一年の分際で』一丁前になろうとしていたのだ。

視界が一気に晴れた気がした。そうして気づく。出来る出来ないなんてやる前から、それも自分自身で決める話じゃない。それでも出来ないと思うなら、誰かに頭を下げて教えを請えばいい。


「それとも、名字の先輩はそんなに冷たくて頼りない?」

赤葦くんが静かに問う。もうわかる、聞こえた声はやっぱり淡々として感情の起伏は少ないけれど、ちゃんと温度のある優しい声だ。

ぐしゃり、視界が滲む。膝から力が抜けそうになる。座り込んで頭を抱えてしまいたい衝動を堪えて、私は唇をかみしめ踏ん張った。がちがちに鍵をかけて押し込んでいたいろんな感情が、ごちゃごちゃと絡まった考えを巻き込んで吹き荒れる。
もう少しで溢れそうになる涙を押し込むように腕全部を使って目元を乱暴に拭った。それからぶんぶん首を振る。

「―――ううん、全然。そんなこと、全然ない」

震える唇からいろんな衝動を吐息だけにして吐き出して、涙でぼやけた声を振り絞る。赤葦くんが静かに笑った。
もう大丈夫だね。凪いだ穏やかな瞳にそう言われた気がして、私はしっかり頷いた。


150413
赤葦さんはものすごく書きたいのにどう頑張っても上手く書けません。つらい。