ざばん。

鼓膜をかき乱すくぐもった摩擦音。無数の気泡の衝突と融合がゆっくりと遠ざかり、半透明の静寂がやってくる。
不完全な無音状態。ゴーグルのレンズ越しにクリアカラーを保つ水と、水底を踊る光の反射。爆発的な衝動を指先にまで満たして、力一杯壁を蹴りつける。

可能な限り真っ直ぐに、しなやかに。伸ばした腕、そろえた脚、抵抗を極限まで削るためにそのすべてを真っ直ぐな矢にするつもりで突き進む。
しなやかに打ち付ける腰のしなりを脚の筋肉へと伝導させる。肺が軋む。息が苦しい。まだだ、もっと。もっとだ。

「―――ッ!!」

限界の一歩手前、透明な天井を突き破る。吐き出す息が肺への酸素を掻き集めた。歯を食いしばり、水をかき分ける。
徐々に重くなる腕を無視して、軋む脚に鞭打って、見えた終わりでターンする。叩きつけるように一回転、揃えた脚で壁を蹴り、もっと速く、もっと速く。がむしゃらな気持ちの手綱を引きながら、極限まで伸ばした指先で終わりを目指す。もう一回、もう一回。

「は、あっ…!」

ほとんど殴るように触れた壁。肺が爆発しそうだ。吐いては吸う息が体の必要に追いつかない。心臓ごと膨らますような呼吸を繰り返し、水面に背を預けて天を仰ぐ。カルキが濃く香る。空が青い。
頭を締め付けるキャップとゴーグルの拘束が神経を騒がせ、衝動だけで脱ぎ捨てた。ちらばる髪が水面にたゆたい、頭皮にまで水が染み入る開放感。指先に走る違和感は多分、爪の甘皮が剥がれたもの。
筋肉が燃えているようだ。熱を孕んで冷めやらぬ手足の温度を感じながらつま先をざらりとした水底につける。

ようやく呼吸が落ち着いてくる、この瞬間が好きだ。
誰もいないプールでひとり、水音に耳を澄ますのも、火照った体で水中を漂うのも好きだ。

水の世界を突き進む瞬間だけは、私はたった一人でいられる。しがらみも責任も誰の声も届かない。聞こえない。ただ自分の呼吸に、筋肉に、自分だけに向き合っていられる。

傾いた斜陽の煌めきが、さざめくプールの表面をちりぢりになって踊る。夏が終わる。九月も下旬に差し掛かるこの季節、昼間の残暑も夕刻には少しずつその力を失いつつあるのがわかる。

そろそろ最終下校の時間だろうか。まだ泳いでいたい。そうしてもっと、もっと速く―――。

そうして見やった校舎側、プールサイドへ続く階段の半ば、無人のはずのそこには黒と白の人影があった。

「―――え、」

ばちん、目があったその先で、黄昏時の陽光に包まれた彼が瞠目するのが見える。どうして彼がここに。
彼以上に驚いた顔をしているに違いない私は、友人と呼ぶには味気なく、知り合いというにも少し違う彼を見つけ返し、暫し呆然と言葉を失った。








「ごめん、邪魔するつもりはなかったんだけど」
「え、いや、それは全然…もうかなり泳いでたから」
「…、自主練?」
「うん、そう」
「もしかして朝も来てるの?」
「そうしたいんだけど、朝は開けてもらえないんだ」
「そっか」

黒々と濡れて頬や肩に垂れる髪、滴る水滴と反射する陽光。ぽかんとしてこちらを見返す表情を思い出す。それは俺が知る数少ない彼女の表情のうちの一つに相違ない。
それでも、水面を叩き割り飛沫を上げて突き進むその姿、黒々と濡れた髪と露わになった肩の輪郭、初めて見た泳ぐ彼女の残像は、まるで別人のもののように網膜に焼き付いている。肩で息をしながら水面の向こう側を睨みつける瞳の鮮烈な光に、痛いほどの真剣さを孕むその横顔に、一瞬息が止まった。

「…そっちも自主練?」
「…まあ。下校ギリまで残ってる」
「すごいね」
「名字も似たようなもんだろ」
「…まあ」

こっそり見られていたのが気恥ずかしいのかもしれない、彼女は濡れてぺったり張り付いた髪を振って目元を少し隠した。そのままこちらに向かって泳いでくると、ざばりとプールから体を引き上げる。
飛び散る飛沫が夕陽の光を閉じ込めて黄金色に煌めいた。ぴったりと浮かび上がる華奢な体の輪郭、惜しげもなく晒される脚に、思わずぎこちなく目を逸らす。…「水泳部」の名字に会うのは、これが初めてだ。

「ごめん、何か用事だったら、着替えるの待ってもらわなきゃなんだけど…」
「いや、あー…特に用事はないんだけど」
「?」
「…水音がしたから、誰かいるのかと思って」

それだけ。
歯切れ悪く付け加えたそれは多分、説明というより言い訳と呼ぶ方が似合うに違いなかった。だが名字は何を言うでもなく納得した顔で頷き、そのまま水道まで歩いてゆくと、蛇口を思い切り捻って頭から水を被った。

室内競技の俺よりはるかに日焼けした小麦色の背中が眩しい。腰に丸く穴をあけたデザインは確か、可能な限り水の抵抗を減らすためのものだったか。
男子の平均身長より頭一つ長身の俺から見て、名字は一層小柄に見えた。凛と背を伸ばして水に打たれる痩身はしかし、流石は運動部、腕も脚もしなやかな筋肉に包まれている。とは言えやはり男子に比べれば、幾分柔らかい輪郭をしていた。

再びすがすがしいほどずぶ濡れになった彼女は、小さなタオルで体をふいては、そのタオルを絞るのを繰り返す。その様子を見ていた俺に、名字は少し笑って言った。

「スイムタオルっていうんだ。何回でも絞って拭けるやつ」
「へえ…便利だな」
「…よかったら入る?靴さえ脱いでもらえれば、プールサイドに座って貰って大丈夫だけど」
「、」

言われた言葉にはたと思考が止まった。それは思わぬ提案で、けれどそれを言われてほっとしている自分がいることに気づいて戸惑い、いくらかバツの悪い思いがした。…見抜かれた。そんな気がしたのだ。

「あ…長居しないならアレだけど、」
「いや、…お邪魔するよ。ありがとう」

ゆっくり階段を上り切り、入口で靴を脱いでそろえる。一段と強くなるカルキの匂いが鼻を突いた。懐かしい夏の匂いと秋を呼ぶ黄昏の空が、やたらと寂寞を呼んでやまない。
名字は俺がベンチに腰掛けるのを見ると、落ちていたバスタオルを羽織り、飛び込み台の上に腰掛ける。夕陽が眩しかった。

「…部活、どう?」

それが一番聞く意味のない質問だということは直感で分かっていた。それは一種の願掛けとか、通過儀礼とか、ジンクスとか、そんな何かに似たような中身のない問いかけで、それはきっと彼女もわかっているのだろうと思う。

「…まあまあかな」
「そっか」
「赤葦くんは?」
「…俺も、まあまあかな」

名字は小さく笑って頷いた。お互い「まあまあ」じゃ片づけられないいろいろがあるのはわかっている。名字と俺はあの夏の日に言葉を交わして以来、月一あるかないかの部活動会議で顔を合わせて、少し立ち話する程度の仲でしかない。互いの悩みを打ち明けたり、支え合ったりするような距離にはいない。

けれど不意に目が合うとき、何気ない会話をするとき、大して仲も良くない相手に探してしまうのはきっと、同族意識とかそういうヤツなんだと思う。
ここに来てしまったわけがきっと、単に水音が聞こえて気になったとか、そんな単純な理由だけじゃ片づけられないのは、そういうことだ。

「…最近はさ、一人で泳いでるときが一番ラクなんだ」
「…」
「水泳は個人競技だからそれでも問題ないんだけど―――でも多分、あんまりいい傾向じゃないなって」
「…別にいいんじゃないか?」
「…」
「周りに迷惑じゃないなら、俺はいいと思うけど」

名字が俺をじっと見るのが分かる。黄昏の破片を纏ってこちらを見つめる瞳の方から頑なに目を逸らしたまま、俺は淡い金色を帯びて揺らめく水面を見つめていた。名字が曖昧に笑うのが視界の端に映る。彼女が言った。

「そう思う?」

俺に励まされたようにも、逆に俺を諭すようにも聞こえる、不思議な弱さを帯びた声だった。
名字の方を見る。困ったように眉を下げた彼女に何も言えずにいると、名字は徐に立ち上がり、バスタオルを足元に残したまま飛び込み台に足をかけた。
そのまま体を折り、飛び込み台の縁に手をかけ体を後ろへ引く。ほんの一瞬の緊張が弾けた刹那、彼女は美しい弧を描いて飛び上がり、吸い込まれるように水面を貫いた。弱々しく笑う姿には似つかわしくない、そんな自分を振り払うような、矢のように鋭い残像。急浮上した彼女は一拍おいて水面を突き破る。

「―――でも赤葦くんは、そうは思ってないんだね」

プールの真ん中に佇む薄い背中から返ってきた言葉に、俺は一言も返せなかった。
マネの後ろに隠れるようにして俺に会いに来た、あの頼りなさげな姿は、やはりそこには見つからなかった。

きっと今の俺は、あの時の彼女に負けないくらい余裕がないんだろう。僅か一度の試合を見ただけで話したこともない木兎さんと木葉さんの性質を的確に概観した名字に、人を見る目があることを除いても間違いない。

バレーはチームプレーだ。俺の不調は周りに、チームに迷惑になる。そうわかっていたってどうしようもない時がある。
名字がそれを本当の意味では理解できないのと同じように、ひとりで戦わねばならない個人競技の重みも、俺には本当には理解できない。

「速くなりたいんだ」
「…」
「速くなりたい」

唐突に名字が言う。その両眼は俺を見てはいなかった。日が暮れる。少しずつ彩度を落としてゆくプールの真ん中で、ずぶ濡れの髪のまま、彼女はプールサイドの向こう側を見つめている。
確かめるように繰り返された短い言葉には、静かな焦燥と身を切るほどの切望が滲んでいた。気づけば言葉が口をついて出ていた。

「俺も」
「、…」
「上手くなりたい。…一番のセッターになりたい」

吐いた瞬間、ずっしりと居座っていた胸の重みが燃え上がり、行き場のない衝動になって喉元を圧迫した。
責任とか資格とか役割とか立場とか、数えればキリのないそんな諸々を押しのけて、かき分けて、そうすれば最後に何が残るのはきっとそれだけだ。今までずっとそうだったように、それはきっと変わらない。変えてはいけない。

俺は、俺たちは何も、副主将になるため部活に入ったんじゃない。バレーが好きで、水泳が好きで、だから入部した。本当はただそれだけだ。
そんな当たり前のことを握り直して、見つめ直して、見失わないよう睨みつけていなければ、呆気なく足取りを覚束なくさせてしまうほど未熟で未完成なだけで。

明日も明後日もその先もまた、その途方もない作業を歯を食いしばって黙々とこなすしかない。そうやってみっともなく足掻いてもがいて、一歩ずつ進むしかないのはもう十分わかっている。

俺を見た名字が不意に淡く笑った。きらり、きらり、沈む陽の光の粒を閉じ込めた滴を纏い、揺れる水面に佇む彼女に、俺も自然と笑い返すことが出来た。

150627
もしかしたら続く、かも、しれないです。