真夜中の逃避行

少女は走っていた。

「待ちなさい!おい誰か、その子を捕まえてくれ!」

年の頃は5、6歳。小さな腕に抱えるのはシンプルなチェックに包まれた小ぶりの弁当箱。まだ新しいお遊戯服を砂に汚し、膝に擦り傷をこしらえたまま、少女は後ろから追いかけてくる大声と足音から必死で逃げていた。

小さな子の中には追いかけられるのが好きな子もいる。大人達が本気でも鬼ごっこの延長戦に思ってしまうことがあるのだ。
だが少女には純然たる恐怖しかなかった。愛らしい顔を無表情に固めたまま、大きな瞳だけを恐怖で塗り潰して、見知らぬ場所で見慣れた人を探して走っていた。


時刻は十二時半過ぎ、私立青葉城西高校の中庭には昼食を楽しむ学生達が談笑する姿が見られ、体育館や運動場では昼練や自主練に勤しむ運動部員達の声が響く。
そんな和やかな昼時の風景において、疾走する幼稚園児とその予想を超える速度に右往左往する教師達の姿は見事に浮いていた。

「あっおい花巻!お前このあたりで子供見なかったか?」
「子供って…え、俺らもまだコドモですけど?」
「アホか!そんな話してんじゃねぇべ!」

事実、ピンクブラウンの短髪をした彼は、自分たち以外の「子供」など見てはいなかった。それも致し方ない、なんせ動きが予想不可能、教師の救援要請に生徒らが首を傾げるころには、少女はすでに彼らの前を駆け抜け終わっているのだ。

だが実のところその時には既に、少女の全力の逃避行は一時中断していた。もしくは終わりを迎えようとしていた。

「…は?」

べしゃり、転けたのはもう二度目になり、真っ白な柔らかい頬には擦り傷が一つ。
腕からこぼれて数歩先で逆さまになった弁当包みの前には、運動靴の足。
小脇にボールを、手にはタオルを持った男子学生はまさに、ピンクブラウンの彼のチームメイトである。

青葉城西男子バレー部副主将、岩泉一は、目の前で転けた体勢のまま凍り付いて自分を凝視する幼稚園児を、呆気に取られて見下ろしていた。






青城(ウチ)はいつから託児所になったんだ。

体育館横、水飲み場の影。その場にまるで似合わない幼稚園着を汚して転がる少女を見て、普段部員達をまとめ上げる青城バレー部ツートップの片翼を担い、ついでに主将であるはずの腐れ縁の手綱も握る岩泉であっても、流石に一瞬面食らった。

黒々とした肩までの髪の下から、零れそうな大きな両の目がこちらを凝視し凍りついている。完全に怯えきっている様子に少々悲しくもなるがその辺は早々に諦めた。どうせ俺は及川と違って柄が悪そうに見えるだろうよ。

この近所に幼稚園なんてあっただろうか。…ああそういえば一つ小さい幼稚園があったかもしれない。昼時に散歩していたのを見たことがある気もする。

転がった弁当包みを拾い上げる。大きさからして少女のものではなさそうだ。兄姉に届けに来たのか?…幼稚園を抜け出して?現実的じゃない、が、そもそも頭脳派でない自分にはほかに可能性も思い浮かばない。

だが今は弁当と自分を穴が開くほど見つめ、ますます固くなるこの少女をどうにかしなければ。思って口を開いたその時、水飲み場の向こうから教師が顔を出した。追跡班か?なら話が早い…と思ったが。

「おーい岩泉!子供見てないか、幼稚園の女の子!」
「、…あー…」

岩泉は少女の引き渡しを一瞬で断念した。さんざん追い掛け回されたのだろう、教師の声がした途端、少女はもはや息をしているのか心配になるほど萎縮したのだ。
怯えきって震えだした少女と弁当包みを背に隠し、教師がこっちにこないよう敢えて踏み出す。

「いや、見てないっすけど。なんかあったんですか」
「幼稚園の散歩の途中で抜け出して、うちに迷い込んだらしくてな。怖がりな子だそうで逃げ回ってて…もし見かけたら職員室まで連れてきてくれるか」
「っす。わかりました」
「頼んだ、岩泉」

教師はほっとした様子で走り去ってゆく。くたびれた中年教師には申し訳ないが、こういう時普段からそれなりに優等生をしていてよかったと思う。
教師が見えなくなったのを見計らい、岩泉は少女を振り返った。まだ立ち上がれないらしい。怖がり、というには泣きもしないのがいささか奇妙だが、まあそんなガキもいるだろう。
弁当包みを置いてひょいっと持ち上げた小さな体は、信じられないほど頼りなくて小さかった。

「っと。大丈夫か?」

驚きと恐怖ゆえか足元の覚束ない少女を支えながらしゃがみこむ。視線を合わせて尋ねるも、返事はない。ただその黒々とした瞳は、瞬きすら惜しんで岩泉を見詰めている。
仕方ないか。酷く怯えた反応を気にしすぎていては埒があかない。一度置いた弁当包みを手にし、少女の小さな腕を取って抱えさせた。少女がしっかり包みを抱えたのを確認して手を離す。

「兄ちゃんか姉ちゃんに、弁当届けにきたのか?」
「…」
「なんていうんだ、名前」
「…」
「…あー…名前がわかったら、お前の兄ちゃんか姉ちゃん、探すの手伝ってやれんだけど」

無反応。視線だけはがっつり合うが、引き結ばれた唇は一向に開かない。こうも反応がないと弱ってくる。
どうしたもんか。やっぱり職員室に…と思った頃合い、少女がわずかに視線を泳がせ、弁当包みを抱えた腕を下にずらした。

「、!」

名札だ。名字莉子。その上にはひらがなで読み仮名がふってあった。

「莉子、ってのか」
「…」
「良い名前じゃねーか」

本当にかすかにだが、少女が頷く。さっきまで完全無言とガン無視で対応されてた分、微々たる変化でも喜びはひとしおである。
それに、去年クラスが同じだった女子に名字という名前がいた気がする。今は確か隣のクラスの筈だ。

「弁当は姉ちゃんのか?」

莉子は頷いた。自分の知る同級生の面影はあまりないが、恐らくビンゴだろう。岩泉はやや安堵した。

「弁当届けたくて、幼稚園抜け出してきたのか」

たっぷり間を置いてから、少女は見落としそうなほど小さく頷いた。叱られることをしたとわかっているなら構わない。岩泉は苦笑し、縮こまった少女の頭を力加減に苦労しつつわしゃわしゃと撫でた。

「んな怖がんな。悪いってちゃんとわかってんなら怒らねぇよ」

莉子はこれまでで一番驚いたように大きく肩を揺らした。だがお構いなしに髪をかき混ぜ、仕方ないと言わんばかりに笑う岩泉の顔を見て、大層戸惑ったように目を瞬かせる。

「大したもんだ。まあ手放しじゃ誉めれねーけど、姉ちゃんもきっと喜ぶべ」
「…」
「でももうすんなよ。姉ちゃんも先生も喜ぶ前に、お前を心配して走り回ってんだ。いいな?」

俯き加減の顔を覗き込むと、小さな頭を丸ごと包む手のひらの下で、莉子は瞬きをやめて岩泉を見ていた。
わかったか?と念押しすると、目を白黒させながらもやっとこさ一つ頷いたのでよしとする。

この年の子には似つかわしくない表情の乏しさが気にならないではなかったが、如何せん昼休みも残すところ15分。今は頬と膝に痛々しく滲む擦り傷の赤が優先だろう。

「よし。なら、まずそのケガなんとかしてから姉ちゃんに会いにいくべ」
「、っ」

岩泉は軽々と、しかし慣れない手つきで気を付けつつ少女を抱き上げた。再び硬直した莉子を支え部室に向かう。
及川たちはまだ体育館だろう。こんなところを見つけられたら間違いなく幼女誘拐だ何だと騒がれる。…その見た目を否定出来ないのが死ぬほど腹立たしいが。

「莉子、ちゃんと捕まってろ」

ただただ胴の脇で身構えられた腕を見かねて、可能な限り優しく言うと、これもまたたっぷり間を置いて小さな小さな手がシャツの肩口を握る。
…あ、なんかかわいい。ちょっと照れくさくなって小さく笑うと、くりくりした目がじっと岩泉を見詰める。そこには先ほどの塗り潰したような恐怖はやや薄れ、戸惑いとわずかな好奇心が伺えた。

「っし、じゃあ行」
「岩ちゃんおっそーい!何して……え。」
「げっ」

噂をすれば何とやら。最悪すぎるタイミングである。
ボール片手に可愛くもない膨れっ面で現れた幼馴染みが、岩泉の姿を見つけて凍りつく。
嫌な予感しかしない。岩泉はこれ以上ないほど顔をゆがめ、口を開く―――が、遅かった。

「おい待て及川、」
「ままままっつんマッキーどうしよう!!岩ちゃんが幼女誘拐に手を染めた!!」
「ふざけんなボゲ!!誰が幼女誘拐だゴルァ!!」

案の定の展開である。それでも怒鳴り返す一瞬前に莉子の片耳を手のひらで包み、もう片耳が胸元にあたるよう抱き直した岩泉のフォロー力は淀みない。これぞ青城のお母さん真骨頂。

「岩ちゃんやめて今なら間に合うよ、ホラ、いつか岩ちゃんにぴったりの同世代の女の子が振り向いてくれ…いったあああ!!ちょっ蹴らなっ、ぎゃあ!酷いよ岩ちゃん!!」
「うるせぇてめぇがふざけたこと抜かすからだろうが!!」
「だって!!じゃあその子一体何…あ」
「あ?」

ピーピー騒ぐ及川が突然言葉を止める。その視線の先、莉子が岩泉の腕の中で、真っ黒の瞳をさらに真っ黒にして凍り付いていた。
―――これ、さっきの。

岩泉は本能的に察知した。地雷を踏んだ。教師に追い掛け回された直後の顔に戻ってしまっている。
この少女は多分、大人の男の大声が苦手なのだ。

「莉子、スマン。あー、怖かったな、悪かった」

莉子はますます体を固くする。そもそも子供の扱いなど未知の領域、どう安心させてやればいいかわからず岩泉は少なからず焦った。
いつもと同じ調子で及川とやり合ってしまった。周りの皆は見慣れたもんだし、及川のファンでさえ笑って見ていることもあり、自分にとっては日常茶飯事な光景である。だが幼い子供には十分恐怖になったはず。

そこに助け船を出したのはなんだかんだでスペックの高いこの男、鋭い観察眼でもって事態を察知しすぐに場に馴染んだ及川だった。
人好きのする、そして珍しく含みのない(当社比ならぬ岩泉比)笑顔で強張った少女の顔を覗き込むと、必要以上の距離は詰めずにゆっくり話しかける。

「莉子ちゃんっていうんだ?ごめんねーびっくりさせちゃって、怖かったよね。でもダイジョーブ、このお兄ちゃんちょーっと怒りっぽいんだけど、ホントは俺のこと大好きだから」
「てめぇクソ川…」
「どうどう岩ちゃん、莉子ちゃん怖がっちゃうじゃん」

ぜってェ後でシメる。
伊達に腐れ縁じゃない、そんな心の声は筒抜けで及川は笑顔をひきつらせるが、岩泉は内心少し感謝した。及川の笑みを見た莉子の体から、ゆっくり緊張が解かれるのが伝わってきたからだ。

「で、岩ちゃん、この子どうしたの?誰かの妹さん?」
「おう。どうも勝手に抜け出して弁当届けにきたみたいでよ。ホントはケガの手当てしてやりたかったけど、時間ねーな…」
「あちゃーホントだ。でも先生方も探し回ってたみたいだし、職員室直行した方がいいんじゃない?」
「…それもそうか」

よっこらせと抱き直された莉子は、ごく普通に会話する二人を瞬き一つせず見詰めていた。
高い視界、大きな手のひら、やや下手くそな抱き方をする逞しい腕。漂うは爽やかなレモンとかすかな汗のにおいで、どれも彼女の知らないものだ。

眼をぐりぐりさせて自分を見上げていた莉子に気づき、岩泉は慎重に、やや罰が悪そうに尋ねた。

「莉子、悪かったな。もう怖くないか?」

それなりに整った、しかし及川のような甘いマスクなんて言葉とはお世辞にも縁がない岩泉の男らしい顔をじっと見つめ、しかし少女は今まで一番はっきり頷いた。
岩泉は安心して相好を崩し、それを及川にさんざんからかわれつつも小さな少女の手前地味な反撃を加えるに留まり歩き出す。

職員室までの短い間にさんざん注目を集めた二人に連れられながら、莉子は何も言わず岩泉のシャツを握ってひたすら及川と岩泉のやり取りを見詰めていた。


しかし職員室手前、ドアを勢いよく開け放ち飛び出してきた女子生徒を見た瞬間、それまで大人しくしていた少女は身を乗り出すことになる。

「―――莉子!」

女子生徒は酷く焦った顔を驚愕に染め、飛び出した勢いでたたらを踏んだ。
そして見知った男子生徒二人に連れられた妹を見て、彼女、名字名前は、しばしの間呆然と立ち尽くした。

150324
新連載、岩泉さん。少し古いものですのでいろいろ粗品感というかお粗末感が半端ないですが、宜しくお願い致します。
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