黄昏、暁に邂逅

病気でなく大袈裟な比喩でもなく、眩暈がするという言葉をリアルに使ったのは生まれて初めてだった。

「本当にすみませんでした!」
「いや、名字が謝ることじゃない。幼稚園側も引率の保育士の不注意だと話していたし、何事もなかったんだ」
「ですが、」
「敢えて言うなら、次から弁当を忘れたりするなということだけだな」
「…ありがとうございます…」

いささかぐったりしながらも笑っていなしてくれた担任に、深々と頭を下げる。随分駆け回らせたに違いない担任は、「姉想いの良い子じゃないか、なあ?」と言い残し、デスクへと戻ってゆく。

一週間分の疲労が30分でやってきたみたいだ。臆病や人見知りというには感情が稀薄過ぎる黒目がちの瞳が思い出されてため息が出た。廊下で待っているだろう妹を思い、私は職員室のドアに手をかけた。





弁当を忘れたことに気づき、仕方なく購買に行って帰ってきたのが昼休みの半ば。その私を教室で待ち構えていたのは、切羽詰まった顔の担任だった。
何事かと聞けばなんと、ここから10分ほどの距離にある幼稚園に通う幼い妹が、昼の散歩コースを脱線し、私の通うここ・青城高校に迷い込んだというのである。

驚いた。それはもう飛び上がるほどに。
普段心配しっぱなしなほど大人しいあの子が逃げ出すなんて何があったんだと血の気が引いて、知らせを聞くなり教室を飛び出し職員室に駆け込んだ。そして中庭あたりを逃げ回っているという妹の捕獲に出た教師陣の顔ぶれを聞いて、私はさらに真っ青になった。体育教師総出とか何のイベントだ。

申し訳ないというのもあったが、何より怯えて凍りつく妹の姿が思い浮かんで居ても立ってもいられなくなり、教頭の話もそこそこに職員室を飛び出した。

だがまさにその時男の子二人―――バレー部の岩泉くんと及川くんが、しかも岩泉くんに至っては莉子を抱いてやってきたところで、私は今日三度目の衝撃で盛大にフリーズしたというわけだ。


『莉子っ、どうして…岩泉くん、及川く、なんで』
『まずは落ち着け名字』

駆けてきた莉子を迎え何があったのかと急いで尋ねた私に、岩泉くんが莉子を下ろしながら冷静に言う。だが事情を聞く間もなく現れた教頭が、私に別室に移るよう言った。

園長先生たちもすでに席についているらしい。これはただ事じゃ済まない。混乱したまま何とか職員室横の相談室に移ろうとしたその時、私の元へやってこようとしていた小さな妹が、担任達を見た途端足を止めた。
怯えた顔をした莉子に、担任は悪気なく近づいてしまう。先生、言いかけたがしかし間に合わず、後ずさった妹はあろうことか、傍に立っていた岩泉くんの足の影に逃げ込んだのだ。

『うおっ、』
『っ!?莉子、何して…!?』

言いかけてハッと言葉を失った。待て、いろいろびっくりしてサラっと流してたけど、彼は確か莉子を抱いて連れてきてくれてなかったか。なんだそれヒーローか。
とにもかくにも、限られた人以外に滅多に懐かない妹が、むしろ担任より強面で男らしい風貌の彼に助けを求めたのが信じられなかった。

『お…おいで、莉子。来なさい』

だが感動も混乱もしているヒマはない。今はとにかくきちんと先生方に謝らなければ。
全く機能してない頭で優先順位をつけ、逸る気持ちを抑えて言った私に、しかし莉子は岩泉くんのズボンを握り締めたまま動かない。

余り手荒な真似はしたくないが、これは抱き上げるなりして連れてくるしかないか。そう思った矢先、しばし黙って莉子を見下ろしていた彼が沈黙を破った。

『すみません、俺も一緒でいいですか』

こいつ見つけたの俺なんで。

それは一体、…つまりどういう?
呆気にとられた教師陣に向かい事も無げに申し出た彼は、返事が来るより早く妹をあっさり抱き上げてしまった。

そして横にいた及川くんに、次の授業の先生に遅れる旨を伝えるよう頼み、彼は莉子の腕にチェックの包みを乗せて近づいてきた。

『おう莉子、届けにきたんだろ。ちゃんと渡しとけ』
『……これ、』

まさか。
むしろ私より保護者か、とか何時の間に名前呼び?とかいろいろ思ったが何も言葉にならなかった。
ただ、にゅ、と突き出された細い腕が抱えた見慣れた包みを見た瞬間、私はこの一大騒動の発端が他でもない私にある可能性を悟ったのだ。





結果から言って私の予測は正しかった。私が忘れた弁当を幼稚園に持っていった莉子が、それを私に届けるべく散歩中に脱走。青城にやってきたところを用務員さんに見つかり、彼、岩泉くんが確保するまで校内を逃げ回っていたらしい。

自己主張の少な過ぎるこの子が忘れたころに発揮する恐ろしい行動力には絶句する。これまでも何度か突飛な行動に出ることはあったが、これはもはや過去最高水準だ。
しかもその引き金が私とは本気で笑えない。

莉子は私の膝に座りながら、岩泉くんのシャツを握ったまま離そうとしなかった。そんな幼子を振り払うでもなく、彼はたいして話したことも無い私の隣に並んでソファに腰掛け、連れてくるまでの経緯を淀みなく先生に説明してくれた。

大人を相手にすることに慣れた様子で簡潔になされた岩泉くんの説明の横で、私はただ話を聞くばかりで小さくなっていた。幸い園長先生の丁寧な謝罪と妹の無事もあり、事件はそれ以上大事にはならなかった。

私もすぐにでも謝罪に加わりたかったが、それよりまず妹にはきちんと謝るべき理由を説明する必要があった。それから二人で謝らねばならない。
皆の前で叱るのは気が引けたが、母さんがいない今、この子に言うべきことを言う役目は私にあるのだ。

『…莉子。姉ちゃん言ったろ、幼稚園の先生の言うことはきちんと聞きなさいって。先生、お散歩中に姉ちゃんとこ来てもいいなんて言った?』

岩泉くんと私の間に座らせ顔を向き合わせた小さな妹は、頭が少しずつ重くなってゆくかのように俯きがちになった。決心が揺らぐが、ぐっと堪え、小さな頭が首を振るのを待った。

『お弁当はね、姉ちゃんがもしまた今度忘れて行ったら、冷蔵庫に入れておけばいいから。おうち帰ってから一緒に食べよう。姉ちゃん学校でもお弁当買えるから、お腹すいて困ったりしないよ』

上目遣いが二つ瞬き、頷く。ここまでは良い。次が一番大切だ。

『姉ちゃんが怒ってるの、なんでかわかる?』

合わせた目が揺れた。反応は無かった。やはりこれがわからないのだ。
気づかれないよう唇の内側を噛み締める。仕方がない、何度だってわかるまで優しく言い聞かせるしかないのだ。

『莉子のことをね、すごく心配したからだよ』
『…』
『先生たちみんなも莉子のことをものすごく心配したんだ。莉子がいきなりいなくなるから、車にひかれたらどうしよう、悪い人に連れてかれたらどうしよう、転んでケガしたらどうしようって、姉ちゃんとおんなじように心配したの。わかる?』

黒目がちな目が泳ぐ。ふっくらした頬に出来た擦り傷が痛々しくて、すぐ下の柔らかい肌を優しく撫でてやる。

『……ねーね、』
『うん?』
『………ごめん、なさい』
『…うん、いいよ。いい子だ、莉子』

絞り出すように、目一杯の勇気を詰め込んでやっと紡がれたか細いか細い謝罪に、胸が苦しくなって顔がゆがむ。
しんと静まり返った部屋と、担任たちの視線が痛いほど注がれていることはわかっていたけれど、小さくて柔らかい体を潰さないよう気をつけて抱き締めてやった。

あとはもうただ謝罪に明け暮れるばかりで、職員室に帰ってきた先生方一人一人に莉子と共に頭を下げ続けた。





「失礼しました…」

五限のチャイムが鳴ってから既に20分近く経過している。HRだからまだ良いけれど、ともかくあの子を幼稚園に返して、それから岩泉くんに謝っ、

「、終わったか」
「…oh…」

廊下で岩泉くんが待っていた。しかもまたもや莉子を抱いて。思わずアメリカンリアクションになったのはせめてもの現実逃避である。

「え、あの、幼稚園の先生とかって」
「こいつが待つっつったから玄関口で待ってもらってんぞ」
「言っ…!?喋ったの?」

衝撃だ。この子は人に慣れるまで余所の子の5倍時間がかかり、さらに人と話すようになるまで15倍はかかるのに。誇張じゃなくリアルな数値である。
だが岩泉くんは怪訝そうにしつつも至って真面目に言った。

「いや、なんか雰囲気でな。つか悪い、寝ちまった」
「…!!」

寝た?見つけて連れてきて説明までさせて挙げ句お守りまでしてもらってたと?なんてことだ、一体どこから謝ればいいんだ。

「ご、ごめん、ホントにごめんなさい、授業ももう半分とかなってるのにあの」
「別に構やしねーよ。どうせHRだしな」
「や、でも説明も…」
「見つけましたそんじゃって帰るか普通。半分当事者みたいなもんだろ、説明ぐらいしてく。おら」

至極当然といった様子の岩泉くんにこちらが気後れし言葉がなくなった。
莉子をこちらに向ける彼へ、ほぼ惰性で手を伸ばす。岩泉くんは少し迷い、それから殆どくっつきそうな距離から小さな体を私の腕に渡してくれた。
その手つきは小さな子に慣れたものではないが、眠る莉子を起こさないよう気遣われた慎重なもので、当然のように与えられたその優しさになんだか一瞬泣きたくなった。

「本当にごめん…」
「別に大したことじゃねーよ。つか、こういう時はごめんじゃねぇだろ」
「、…ありがとう、岩泉くん」
「おう」

に、と屈託なく笑ってくれた岩泉くんに酷く救われた気がした。この子を見つけてくれたのが岩泉くんで良かった。穏やかに眠る小さな妹の頬にはバンソウコウが貼ってあって、これもきっと彼の計らいだと思うと、涙が出そうになる。

「莉子、良かったねえ、ん?」

さらさらと指の間からこぼれる綺麗な黒髪に目を落として囁いた。岩泉くんがこちらを見たのが分かったが、応じることが出来なかった。

ようやく落ち着いた心を満たす安堵と遣る瀬無さ。
この子ひとりを護ることさえ、私の手には余るのだ。

150326
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