黄昏時に踊る月

「ただーいまーぁ…あ?」

ああ疲れた、今日も今日とて頑固な患者の説得をしなければいけないわ変人の外科医に振り回されるわ散々だった、なんて頬に詰め込んだ愚痴もそのままに帰ってきて玄関口、狭いそこに並ぶ見覚えのない大きなスニーカーに目が点になった。

くたびれたナイキのサイズは多分27とか8あたり。女三人で暮らす我が家ではまずお会いしない男モノ。したらば考えられる人物はただ一人―――だが我が家にいるとは珍しい。

その上廊下の向こうのリビングは無音だ。話し声どころか物音すらとんとしない。いつもなら下の娘が顔を覗かせて出迎えてくれるというのに。靴の数からして全員いるのに間違いはないのにどういうことか。もしや勉強中。

買い物袋をガサガサ言わせつつリビングに向かい、ドアを開ける。初めに飛び込んできたのは大きなエナメルとスクールバック。そしてその延長線上、ソファとテレビの間のスペースに出来上がった川の字に、再び目が点になった。

「…やれまあ、」

高校生の娘を持つ身としてはまだ年若い女は、三人分の寝息が溶け込むリビングで、思わず眼を細めて笑った。


一回り歳の離れた妹に腕枕を貸してやり、空いた手を小さな妹のお腹に乗せて、寄り添うようにして眠るのは18になる我が娘。小さな体をくるむのは娘、名前のブランケットだろう。それだけなら見慣れた光景だ。
だが見慣れないのは娘をくるむ爽やかなミントブルーと白のジャージ、ラグマットの上のその頭の下、枕代わりになった逞しい腕。

幼い妹を挟んでその姉と向かい合うように眠るのは、この数か月ほど前から姉妹がそろってすっかり気を許した男の子だ。

「…これはこれは、仲の良いことで…」

名字名前、そして莉子の母たるその女は、可笑しいのと嬉しいので満面に笑みを浮かべた。完璧な川の字。まるで夫婦とその娘。否、親を語るにはまだ随分と寝顔があどけないのだが。

青年、岩泉一の頭の下では丸められたブレザーが枕になっていたが、体にかかるものはない。おおよそ名前が眠った後にでもジャージを譲ってくれたのだろう。そっと買い物袋をキッチンに運び、脱いだコートを彼の大きな体にかける。暖房が必要な寒さではないが、大事なスポーツマンの体だ、万一があってはならない。

質実剛健、実直と男前を地でゆくように凛々しく、黙っていれば強面な体育会系。親のいない彼女の家に上がりこむことは滅多になく、家の前で鉢合わせればちょっと緊張気味ながらきちんと挨拶してくれる。

名を岩泉一。揺るがぬ一途さを表して成るような、なんとよく似合う名かと思う。普通の幼児よりずっと手のかかる妹を臆することなく可愛がり、それどころか叱ってくれさえする彼の人格者っぷりには驚かされたものだ。そもそも性別問わず人間が苦手な莉子が懐いている時点で驚愕だったのだが。

くだんの幼い娘は安心しきった顔(当社比)で熟睡している。片手に姉のブレザーを、もう片手で兄と慕う彼の指を握って、無防備にブランケットにうずもれる姿に、ちょっと涙腺がゆるみそうになった。いかん、歳か。

今でさえ妹を挟んで川の字のそこに邪な気配はこれっぽちもない。これではたまに娘の彼氏であることを忘れそうになるのも仕方ないと思う。というかこんなよく出来た彼氏を射止めるとはうちの娘もなかなかじゃないか。親バカ上等である。

「……男運まで遺伝しなくてよかった」

母は薄く笑い、抜き足差し足でキッチンまで戻る。夕食は肉じゃがと揚げ出し豆腐にしよう。確か彼の好物だと娘が練習していたはずだ。




母としては失格の人生を送ってきた。

男運がないのは家系からだ。怒鳴り散らす父親の元で育ち、反動で結婚したのが優しいばかりで強さのない男だったのが悪かった。精神を病み、仕事を辞めたまではなんとかなると思っていた。そこからの育児放棄、自分のみならずまだ幼かった娘にまで手を上げたところで限界だと思った。

母を早くに亡くし、親とは半ば絶縁した身たる私に帰る実家はない。一人息子の夫を庇ってばかりの義理の両親は頼れず、それどころか体面を気にして離婚もままならない。挙句の果てには孫である名前の親権を寄越せと言われ、後ろ盾の無さにつけ込まれる前に家を出ることを決意した。

唯一助けを差し伸べてくれたのは宮城の古い友人。ほとんど誰にもなにも告げないまま、600キロの距離を新幹線で飛び越えた。名前にすら十分な説明もしてやれなかった。
小学校まで一緒だった友人たちとまともな別れすらないまま引き離され、慣れない土地に移り住み、中学という難しい時期に一から交友関係を築かなければならない。昼夜問わず仕事に明け暮れる母親に代わって家事をするため、中学生らしく部活に入ることすらできない。

なんて不憫な娘だろう。
家に帰ると用意された食事を見るたびに心底申し訳なく思った。食べるのには困っていないが贅沢は出来ない生活。せめて母の休みの日だけは存分に友達と遊んでこいと送り出すのが精一杯の自分に、気にしてないよと笑う出来た娘には頭が下がった。

必要以上の我慢に慣れさせてしまった。我儘の言い方すら忘れてしまっているのかもしれない。不幸な娘にしてしまった。
耐えかねてこぼしたそんな懺悔はしかし、大人びた娘のかつてない逆鱗に触れた。


―――私がいつ、母さんの娘で、不幸だなんて言ったんだ。
私の母さんに向かって、なんてこと言うんだ!


猛然と声を荒げ、足音高く嵐のように去り、布団に飛び込んでいった娘を見送った後、一人風呂で泣いたのは内緒だ。

私にはもったいない娘だと心底思う。どう考えたって責任を負いきれるかギリギリの赤の他人の子を引き取ると言ったときさえ、名前は二つ返事で頷き、高校一年生の貴重な夏休みをすべて投じて莉子を守ってくれた。世辞にも恵まれたとは言えない環境で、辛抱強く愛情深く育ってくれた。親バカだろうが何でもいい、奇跡のような娘だと思っている。

「…、」

ふ、誰かがと身じろぐ気配がして、母は水道の水を止めた。足音を殺してキッチンのカウンターを出、リビングを覗きこむ。先に目を覚ましたのは彼らしい。
まだ眠気の最中にあるのだろう、自分にかけられたコートの存在も疑問に思っていない様子の彼が、その指を握る小さな手を見やるのがわかった。その大きな手は小さな指を放すと、そのままゆるゆると幼い妹の頭を撫でる。その温かい手つきに眼が細まった母が、それ以上に言葉を失ったのは次の瞬間だった。

「…!」

自分の腕を枕にして眠る名前を見やった彼の相好が、酷く柔らかに崩された。まどろみを纏ったままの眼差しの、その穏やかさに目を奪われる。愛情深い眼だ。名前が莉子を見るのと酷く似ていて確かに違う。真に相手を想わぬ目には、決して作り出せない色味。

莉子にそうするように頭を撫でるわけではない。ただ見やって微笑んだだけだ。けれどそこに込められた愛情は明白だった。眼差し一つでこの青年がどれほど自分の娘を大事にしてくれているかが震えるほど伝わってくる。

言葉なんかの器には収まりきらない感謝が心臓を圧迫してせり上がる。いっそ泣いてしまいたいほどの衝動に唇を噛み締めた。
岩泉の手がおもむろに名前の方に伸びる。きっと肩からずり落ちたジャージを引き上げてやるのだろう―――思って見ていたがしかし、その体にかけられた見覚えのないコートが、彼をまどろみの縁から引きずり上げたらしい。

「っ、……ッ!?」

がばり、彼が見やったコートの先、リビングの端にはその持ち主であろう母の姿。
理解より早く飛び込んできた現実に岩泉は凍り付いた。彼の脳味噌はマッハの速度で現実処理に駆け巡る。腕には彼女の愛娘、胸元にはその妹。脊髄反射だけで半身を起こした岩泉の顔から一瞬で血の気が引いた。
やらかした。いや疚しいことは何一つしていない。だがそんな話、この状況をもってして、年頃の娘を持つ親に二つ返事の理解など―――。

「あっ待って止まって、そのままでいてやって」
「っ、…え?」
「あーでも腕痺れるか、うーんどうしよう」
「え、あの、けど」
「んんー…や、でもなんだったら腕枕やめていいから、」

そのまま一緒に寝てやってくれないかな。

眠る二人の娘を気遣うように、あるいは秘密話をするように潜めた声で、恋人の母はすまなさそうに言った。申し訳なさげに眉を下げて笑うさまは名前がそうするのと酷く似ていて、その顔をされると弱い岩泉は言葉ない躊躇を呑み込むほかない。それでも最低限の礼儀を忘れないのは体育会系の賜物だ。

「…スンマセン、勝手に上がり込んで…」
「ん?ああ、そんなことどうでもいいのよ」

あっけらかんと笑う母に岩泉はさすがに黙する。どうでもいいって…仮にも(いや何一つ仮じゃないが)女子高生の娘の彼氏が、親不在の自宅に上がり込むのをどうでもいいって。それってどうなんだ、大丈夫なのかこの母親。
いっそこっちが頭を抱えたくなるのはなぜだと閉口する岩泉の心中は、しかしさすがは二児の母、言わずとも察してからりと笑う。

「うちの莉子が懐くんだ。そこんじょそこらの男前じゃないのはわかってるわ」

目を細めて象られる笑みから、若々しい快活さが不意に鳴りを潜める。岩泉は言葉に詰まった。ふとした瞬間に塗り替わる老成した気配が、厳然と存在する歳の差を唐突に思い出させるのに、彼はまだ慣れそうにない。

よかったら夕飯も食べて行ってちょうだいな。
笑う顔は恋人のそれによく似ていて、とんとんと響きだした包丁のリズムは並べた言葉を細切れにしてゆく。岩泉は黙し、それから小さく礼を述べ、名前の頭の下に丸めたブレザーをそっと押し込むと、腕を引き抜き半身を起こした。名前の肩にジャージをかけ直す仕草、まどろみの中にたゆたっていた時よりずっとぎこちない手の不器用さに、母は気づかれないよう小さく笑う。

「手のかかる子たちで悪いね」
「!いや、そんな…思ったこともないっすよ」
「はは、まあ我儘とかって厄介さじゃないけど―――名前の物わかりの良さなんて半分病的でしょう」
「、」

不意を打たれた顔をする岩泉に、やはり気づいていたかと母は含み笑いをした。大した洞察力だ。一度このよく出来た青年のご両親にお会いして、謝礼共々お話を伺いたいものである。

「もともと辛抱強いところに、我慢癖と強迫観念で拍車をかけさせてしまってね。
親の責任だよ。我儘の言い方なんて、小学校の頃に忘れちゃったんじゃないか」

名前はたいてい幼い頃から、周りの子より頭一つ大人びて見られることが多かった。それはきっと「自分さえいい子にしていれば家庭の平和は保たれる」という、幼い子供の拙い結論に端を発するものだったのだと思う。
出来た子だと手放しに喜んでいられないことに気づいたころには遅かった。名前にはいつだって、あるべき「子供らしさ」の欠如と圧殺ゆえに、片足立ちでバランスを保っているような危うさがあった。

無理にも我慢にも限界にも気づかずに、倒れ込むまで走り続けてしまう。倒れたところで何故倒れたのか理解できない。莉子を引き取ってからはなおのことその危うさに拍車がかかった。
我儘を言わない、喧嘩もしない、余りにも自分を顧みない傾向に心配は絶えなかった。言葉にこそしなかったのは、そうさせた親たる自分が何を言えると思ったからだ。

良い娘でいよう、良い姉でいよう、決めたことを果たすためには何の躊躇いなく身を粉にする。これでは不安定な妹もろともいつか必ず瓦解する。

そう危惧していたそこに颯爽と現れ、あっけなく――実際はいろいろあったようだけれど――名前のガス抜きしてしまったのが、岩泉一という青年だったのだ。


「こんな話しといて何言うかって話だけど、先のことなんてね、わかんないから。この先何かあって、うちの子と道を違えることになっても、それは全く構わないのよ。若いんだし、人生長いんだから、親の戯言なんて気にしないで聞いてほしいんだけどね」

苦笑する母を前に、しかし岩泉は真剣な表情を崩さなかった。どこまでも真摯な瞳が、母の語りの帰結点を待っている。真っ直ぐに引き結ばれたままの唇は、全てに耳を傾け終えるまで解かれないのだろう。それもわかってしまって、だからこそそう遠くない会話の向こう側に見える彼の結論に、母は眉を下げて笑う。


「…名前を好きになってくれて、ありがとうね」


奇跡的だと思う。この目に映る現実を構成するすべてのことを、心から。

「まあこんな話をすること自体、君みたいな誠実な子には圧力になるんだろうけど」

苦笑と一緒に付け加える母に構わず、岩泉はじっと沈黙を守っていた。途切れることなく向けられていた眼差しが不意に逸れ、右側に横たわっている娘二人を見やる。徐に立ち上がった彼は、かけられていたコートを丁寧に腕にかけ、キッチンへ歩み寄った。

「…確かに、先のことは約束できませんけど」

椅子の背にコートをかける手の大きさを追った目を上げる。精悍な横顔だ。18を数える彼はきっと学校ではさぞ大人びて見えて、けれどこの世に生まれて半世紀の母からすればそこに残る危うさはまだあどけない。
それでもコートから目を離し、こちらに向き直るそのまなざしは、それゆえにこんなにも真っ直ぐだ。


「生半可な気持ちで付き合うつもりは、今までもこれからも一切ないです」


母は笑った。大きく歯を見せて笑んだそこから再び消える乾いた大人の気配に、岩泉はそれ以上何も言わずに頭を下げた。それから再び、ラグで横たわったままの姉妹のもとへ戻る。

小さな妹を守るようにして眠っていた姉の瞼は下ろされたままだ。だが莉子の薄い腹に乗せられた手は、さっき見た時以上に震えている。

莉子は目を覚ましていた。その大きな瞳に眠気はすでになく、ただじっと、何かを求めるようにもの言いたげな瞳で、岩泉を見上げていた。
よしんば声を出さぬのがいつも通りだとしても、腹に乗った手をそのままに横になっているのはきっと姉のためだろう。敏い子だ。普段の感情の乏しさを忘れそうになるほどに。

わかってるよ。
訴えかける幼い妹に微笑って頷いてやり、頑なに目を閉じたままの名前の頭を優しく撫でる。瞼の縁に留め損ねられた滴が、音もなくこめかみへ走ってゆくのを見て、岩泉は母には聞こえないよう小さく笑った。

160321
書いておきたかったママン編。
*prevnext#
ALICE+