柔らかな走馬灯

「ほれ、こけんなよ〜」

人好きのする柔らかな声を聞くのは一年ぶりだろうか。しゃがみ込んで莉子を降ろした彼の腕から飛び出した妹が、一目散にこちらへ駆けてくる。
一体何がどうなった。思わず涙も引っ込んで呆然としたまま惰性だけで膝をつく。それでも飛びついてきた小さな体を抱き留めた瞬間、がつんと頭を殴るような現実感が舞い戻ってきた。

「莉子、おまえ、一体どこにっ…ごめんね、姉ちゃんがちゃんと待ってるとこ言わなかったから、」

小さな手が一生懸命に私の首に回るのが胸を締め付ける。薄い背中を撫でさすりながら、怪我はないかと手足を確かめた。…大丈夫だ、泣いてもいないし震えてもいない。小さな顔の大きな瞳を覗き込んで尋ねる。

「痛いとこない?」

莉子は頷き、私の襟元を握ったまま後ろを振り向いた。つられて視線を向けたそこには、にこにこしながらこちらを眺める淡い髪の友人の姿。

「すげー偶然だなあ。久しぶり、名前ちゃん」
「孝支くん、一体なんで…」
「いや、部員一緒に水族館きたら、うちの一年が迷子を見つけたって連絡してきてさ。迷子が迷子見つけてどうすんべって合流したらまさかの莉子ちゃんだったんだよ」

部員。そうだ、孝支くんも岩泉くんたちと同じバレー部だ。だから―――いやでも何だか仲が良さそうには見えないな…。孝支くんの後輩さんらしき二人の男の子とらしくなく騒ぐ及川くんを見て思う。花巻くんと松川くんはニヤニヤしたまま傍観ときた。二人ともなかなかいい性格をしているらしい。

それにしたってなんてよく出来た偶然だろう。傍にしゃがみこみ、莉子の頭を優しい手つきでかき混ぜる彼は、紛れもなく菅原孝支その人。驚くことに莉子もまた孝支くんの頬や髪をぺたぺた触っていて、ああなんて失礼をと思うも何から言えばいいのか見当もつかない。

「…名字、烏野と知り合いなのか?」
「え?あ、うん。いや、正確には孝支くんだけなんだけど」

不意にかけられた声は岩泉くんのもの。言いかけて顔を上げたところではっとした。どさくさでなし崩しになっていたが彼は今までずっと莉子を探してくれていたのだ。
薄く汗の滲む額が彼の真剣な捜索を語っている。ハンカチを取り出しそっと手を伸ばせば、一瞬びっくりして身を引いたものの、私の意図を察したらしい彼に手首を掴まれた。
あ、と思う間もなく身を屈められ、私の手ずから額を拭う彼がそっと目を伏せる様に、途端私は落ち着きを失う。普段は男らしいという言葉を体現する硬派な彼は、何の前触れもなく息を呑むほどの色気を纏うから心臓に悪いのだ。平然を装って言葉を選ぶ身にもなって欲しい。

「…ごめん、ホントにありがとう、ずっと探してもらって…」
「謝んな。…それに、結局見つけたのは烏野だしな」
「関係ないよ、少しも」

短い黒髪の下、小さく苦笑する彼に唇を噛んで首を降る。尽きない感謝に対して足りない言葉がもどかしい。本当に真剣に捜してくれていた、その事実だけで十分に尊いのに。
岩泉くんがちらりと視線を投げる。その先には莉子と戯れる菅原くんの姿があった。

「…菅原だっけか。何の知り合いなんだ?」
「前に話してたの覚えてるかな、宮城に越して来たときお世話になった母さんの親友」
「、もしかしてその人の?」
「そう、息子さんなの」

地元を出る時、唯一頼ることの出来た東北の母の親友。住む家から母の職からなにくれなく面倒を見、莉子の事情を話した時には病院に駆け付けてまで助けてくれた恩人だ。
そんな彼女にそっくりな息子さんの孝支くんに出会ったのは、引っ越してすぐの中学入学前だった。田舎暮らしに慣れない私を笑って助け、今よりずっと問題山積だった莉子をも臆することなく可愛がってくれた。地元の小学校から進学する生徒が大半の中学で、入学してすぐに友達を作ることが出来たのも、人懐こい彼が架け橋となってくれたためだ。

「高校が離れてからは年に一回会うかどうかって感じだったんだけど…まさかこんなところで会うなんて」
「…」

クラゲのぬいぐるみで妹と遊んでくれる孝支くんの姿に懐かしさが込み上げる。彼は昔からああやって人をとことん甘やかすのが上手だった。
あぐらをかいた膝に莉子を乗せてはシャボン玉を吹かせたり読み聞かせをしたり、山に行った時にはセミ取りや川遊びを教えてくれた。彼の甘やかす対象は妹に限らず私も一緒で、名前ちゃんは遠慮ばっかりだと叱られたのは記憶に鮮やかだ。

「…、」

名前がふっと表情を和らげる。妹と菅原の姿に蘇るものがあるんだろう、穏やかで遠い眼差しをする彼女に、岩泉は再び沈黙した。

面白くない、というのは自分の本音だ。けれどこれは決して自分には踏み込めない領域だともわかっている。過去は積み直すことも付け加えることも出来ないし、肝心なのは今隣にいるのが自分だという事実、それ一つを見失わなければいい。
それは間違いなく本心で、けれどそうわかっていても、手を伸ばせば簡単に触れられる距離でどう足掻いても越えられない時間の壁を見上げるのは、気分の良いものではない。

何を言うでも割り込むでもないものの、岩泉は閉口し眉間に皺を入れる。すでに一歩引いて傍観の姿勢を取っていた花巻と松川はそんな彼をちらりと見やり、無言のうちに互いに目配せし合った。
やっぱ思った?うん、思った。

((意外に嫉妬深いんだよなあ、岩泉って))

「孝支くん、ホントにありがとう。なんてお礼を言えばいいか…」
「俺は途中から抱っこしてただけだよ。見つけたのはうちの一年二人」
「一年生…」
「おーい日向ー、影山もこっちこっち」

二人の反応の速さたるや。神妙になるはずが名前は思わず笑ってしまった。なにやら及川くんと仁義無き(?)言い争いをしていた黒髪の男の子と、その後ろに半分隠れていた小柄な男の子が、孝支くんの呼びかけに一瞬で反応して飛んできた。なるほど、莉子も懐く彼の人タラシは健在らしい。

最早眼中に無いと言わんばかりに放置された及川くんが騒ぐのをニヤッと笑って見ていた孝支くんは、男の子二人に場所を譲るように身を引いた。

「あ、やっぱり菅原さんの知り合いだったんすね」
「莉子ちゃんのお姉さんとお兄さん見つかったんですか!」
「お兄さん…?」
「え?」

明るい髪色の男の子がパッと顔を明るくして言った言葉に一瞬場が停止する。皆で見下ろした莉子の顔がくるり、別の方向を向いた。それを追った先、ぱちん、目があったのは一歩引いたところで事態を見守っていた岩泉くん。

「え」

小さな指が一点を指して止まる。一度に注目を浴びて驚いた顔をする岩泉くんを指さし、孝支くんの目をじっと見つめて、妹は言った。

「…はじめにーに」
「!」

まさかここで話を振られるとは思わなかったんだろう、岩泉くんも驚いた様子で幼子を見た。孝支くんも後輩さんも目をぱちくりさせている。
かく言う私は莉子がこうして岩泉くんを誰かに紹介するのは初めてで、むしろそっちに感動していたのだけれど。うちの妹ホント可愛い。シスコン上等、ドンと来い。

「それって…」
「…あー、俺のことだな」
「せっ青城のエースの人…!」
「え、岩泉さん三人兄妹でしたっけ?」
「ちげーよ、兄貴分って意味だ」

彼を知るらしい黒髪の男の子に向かって苦笑混じりに否定した岩泉くんは、ちょっと照れたように首裏を掻いた。そんな彼をまじまじと見ていた孝支くんは、後ろの及川くんたちを見やり、また岩泉くんを見て、不意に嬉しそうに破顔した。そして莉子を覗き込んで柔らかく言う。

「そうかあ、今はたくさんお兄ちゃんがいるんだなあ」

綻ぶように柔らかな酷く優しい声だった。あなたがその一号ですよ、というのは彼のことだ、きっと言わずともわかっている。こくんと頷いた妹は徐に岩泉くんをじっと見詰めた。二人目のお兄ちゃんもまた、たったそれだけであの子の言いたいことを察してくれる。

「菅原だよな。ちょっと悪い」
「あ、おう」
「っと…」

歩み寄ってきた彼は菅原くんに一言断り、軽々と莉子を抱き上げた。小さな腕が待ってましたとばかりに伸ばされ、逞しい首にぎゅうと回る。
岩泉くんがつんと唇を結ぶ。小さな妹がこうする時、彼はああして必ずちょっと照れたように黙するのだ。けれど優しく背中を叩く大きな手は愛情に溢れていて、このひとと莉子が会えて良かったと、このひとを好きになれて本当に良かったと思う。

「…影山くんと日向くん、だよね?」
「あ、うっす」
「はっはい!」
「妹を見つけて下さってありがとうございました。お陰で怖い思いをさせずに済みました」

それもこれも涙一つなく戻ってこれたからこその結果。改めて二人の男の子に頭を下げれば、日向くんはぶんぶん手を振って声を上げた。

「いっイエ!あの全然!」
「…ほとんど菅原さんのお陰っすから」

頬を染める日向くん、目の合わない影山くん。タイプは間逆のようで、普段背中を見ている岩泉くんと及川くん、あるいは花巻くんと松川くんのようにしっくり馴染む一体感は無い。けれど同じように『会うべくして会った』、そんな二人な気がした。

「莉子、ちゃんとありがとう言ったか?」
「…、」
「世話んなったんだろ、ホラ」

岩泉くんが莉子を促すのが聞こえて見やれば、妹は彼の首にしがみついて顔をうずめていた。どうやら一年生二人を相手に今更人見知りを発揮したらしい。菅原くんは微笑ましげに声を上げて笑ったが、しかしそこは岩泉くんである。彼はそれこそ実の兄のように、莉子に対し無用な甘やかしはしない。

「莉子」
「…」
「おら、聞き分けろ」
「いっいいです、おれたち全然…」
「駄目だ。コイツのためになんねーんだよ」

そう、これだ。揺るがずこれを貫ける人だから、私は心やすく莉子を委ねることができるのだ。
見かねて止めに入った日向くんを迷わず遮った彼は、しかし苛立ちは無論厳しさも感じさせることのない一定の声で小さな妹を諭してくれる。彼はいつもこうして、守るべきこと、言うべきこととその理由を言えば、あとはただ莉子が頷くまで辛抱強く名を呼ぶだけだ。彼の態度はいつだって徹頭徹尾貫かれる。それゆえに幼い妹もまた、その声で促されれば観念する他ないことを経験から学び、信頼によって心得ている。

「……あり、がと」

案の定折れたのは莉子の方だった。今日一番に勇気を振り絞りやっとのことで謝辞を告げ、すぐさま彼の首筋に舞い戻った妹を、岩泉くんがふっと眦を緩めて見詰める。よく言えたな、と必ず優しく紡がれる誠実な誉め言葉も、莉子が言い付けを守ろうと奮闘する大きな理由の一つだ。

「…ホントのお兄ちゃんみたいだ、」

ぱちくり、目を瞬かせて岩泉くんを見上げる日向くんが思わずといった様子でぽろっと零す。影山くんもまじまじと二人の姿を見詰めていて、その姿が可笑しくも微笑ましく、私は思わず声を上げて笑っしまった。

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