■ ■ ■


W 少年Bの煩悶



「花巻ナイスキー!!」
「松川、右側守り甘ぇぞ!」
「っ…おう!」

最初に抱いた印象は、よく笑う子だな、なんて程度のものだった。

岩泉の一件以来、こっそり観察するのが日課となっていた名字さんの傍には、大抵あの小柄な彼女の姿があった。
女子にしてはやや長身で、綺麗めの顔立ちだが表情が乏しく、独特の静寂と落ち着きを纏う名字さんに並ぶと、やや幼さの残る可愛らしい顔をした彼女は小柄で、少々容量が悪く、でも何においても一生懸命でいつもよく笑う女の子だった。

普段七割は至って常識人な名字さんにサポートされる危なっかしさ、けれど残り三割がぶっ飛んでいる彼女が周りから浮かないようフォローする小動物みたいな様子が可笑しくて、何となく彼女に目を留めるようになるのに時間はかからなかった。

ちょっとからかえば面白いほど慌てる姿とか、名字さんを心配しておろおろする様子とか、いつ見ても落ち着きのない子だよなあなんて思う。
けれど、何気ない瞬間にこぼれる自然な笑みはあどけなく、損さえしそうな素直さに擦れはない。

そして、

「及川ナイッサー!」
「ナイッサー!!」
「…、」

――――あの真っ赤になった頬、泳ぐ瞳、落ち着きを放り出してどもる言葉が、こちらに向けられればどんなだろうと。
思ってしまったのが悪かった。

(…わかりきってたろ、最初っから)

溜め息を飲み下す。代わりに自分へ失笑した。及川が好きなのか、なんて愚問にもほどがある。
小学生みたいなちょっかいを出しては慌てふためく彼女にくだらない独占欲を満たし、その瞳が自分を映すたびに仮初の満足感で本音を水増ししていた。

真っ向から糾弾してきたくせっ毛の下の凛然たる瞳を思い出す。「彼はナマエを泣かそうとする」、その一言は存外堪えたようで、行いを改めようと決意したまではよかった。
だがまとまらない思考と焦りがこぼしたのはどうしようもないミスワード。明らかな選択ミス。その結果がこの気まずさだ。

こうも会うたびに視線を泳がせ言葉に困る姿を見せられると、さすがに堪えてくる。
勢いで行動するとロクなことにならない。あの子が誰を見てるかなんて、一番初めから明らかだったのに。

本来の性分として、負け戦はしない主義だ。勝算ゼロの大博打に出る趣味はない。それがこれまでの自分で、きっとこれからもその本質は変わらないだろう。

それでも気付けば名字さんではなく、その隣でいつも無垢に笑う友人の彼女のことを目で追っている自分がいて、自覚した時にはすでに手遅れだった。

「…あー…カッコわる」

普段の自分は、そりゃ自分で言うのもなんだけど割と器用な方で、無茶をするより堅実な道を選ぶ手堅いタイプだ。
そして、その方が物事が上手くいくことを理解出来る程度には大人で、――――けれどそれを言葉通り完璧に実行するのが容易でない程度には、まだ子供なのだ。





それからわずか二時間後、松川一静は事態の急変に内心そこそこ、いや結構、むしろかなり混乱していた。

練習を終え、ジャージ姿で向かった校門、待っていたのはチームメイトの恋人とその友人。
オフの月曜以外でこの岩泉とその彼女が並ぶのを見るのは珍しい。そんなことを思いながら意識を傾け、きっと及川の隣にでも並ぶであろうあの小柄な少女の動向を締め出そうと視線を投げた―――筈だったのに、何故。

「…」
「…」
「…」
重ねて言うが、松川一静は混乱していた。否、初めに受けた衝撃こそ随分薄れて、今はそれなりに冷静さを取り戻してはいるが、なおやはり現状を理解するには時間がかかりそうだった。

なぜ彼女、ミョウジナマエは、自分の隣を歩いているのだろう。

「…えーと、」
「!…?」
「……今日は名字さんの付き添い?」

及川のとこ行かなくていいの。本心と全く相容れない癖に、少し気を抜けば転がり落ちそうなそんな天邪鬼を飲み下す。わざわざ自分の首を絞めることはないだろう。前に空気をおかしくしたのも及川関係の質問だった。同じ轍を踏むのは馬鹿げている。

少し間を取って切り替えた質問に、彼女はさして疑問に思った様子もなく、しかしやや歯切れ悪く頷いた。

「そ、れも半分…かな」
「半分?」
「…うん。今日は私が来たいって言って、名前がそれに付き合ってくれたんだ」
「…へえ」

ということはやはり及川を見に来たのか。松川は再び視線を投げ、もやつく心中に語りかけた。そら見たことか、無用な期待はするもんじゃない。
途端にどんな歩幅で歩けばいいか一瞬わからなくなる。隣の女の子の歩幅を慎重に測りつつ内心呟いた彼の独白はしかし、思わぬ彼女の台詞により根底からひっくり返される。

「今日は、その、松川くんに会いに来たの」
「…は?」

松川はナマエを見下ろした。ナマエは緊張した、しかし揺るがぬ決意を伺わせる顔で、完全に呆気にとられた彼の顔を見上げていた。
彼の思考が白紙になっているのに気付いているのかいないのか、ナマエは言葉がひっこんでしまう前に全て話してしまえと勢いに任せ口を開く。

「まず、球技大会の時は改めて本当にありがとう。おかげで酷くならずに回復してます」
「あ…ああ、うん」
「それとあの質問、あの時答えられなかったから考えたんだけど、」
「質問…?」
「私、及川くんのこと、多分松川くんの言ってる意味では好きじゃないと思う。だから心配しなくて大丈夫だよ」
「ッ!?」

待てこの子今なんてった。
松川はぎょっとしてナマエを見下ろした。俺の言う意味では、及川のことは好きじゃない。つまりそれは…恋愛的な意味でという解釈でいいのか?
じゃあ心配しなくていいというのはどういう意味だ。さあっと血の気が引いてゆく感覚。……まさか気づかれてたとか?俺が彼女を好きだってことを?

しかしただならぬ表情で自分を見下ろす松川の急変に、一方のナマエも動揺していた。どうしてこんなに驚かれているんだろう、私そんなにおかしなことを言っただろうか。

「ま…待って、それどういう、」
「え?その、つまり、及川くんのバレーの邪魔もしないし、彼女さんの仲を邪魔するつもりもないってことで…」
「……オーケー、一回整理しよう。多分俺ら今すごい食い違いがある気がする」
「う、うん…?」

流石と言うべきか、先にクールダウンに成功したのは松川の方だった。ナマエの頭を軽く包めてしまうような大きな手で目元を覆い、いったんしっかり深呼吸。
何とか手繰り寄せた冷静が脳みそに馴染むのを急かしながら、彼はこのどう考えてもおかしすぎる現状を言葉を選んで整理する。

「まずミョウジさんは、あー、及川のことが…」
「えーと、好き、は好きなんだけど、ただのファンっていうか、多分そういう…恋愛的な意味では好きじゃないみたいで」
「……じゃあ、心配しなくていいって俺に言ったのは、なんで?」
「それはあの、松川くんが、及川くんのバレーとか、恋人さんとの関係を心配して、私に注意してくれたのかと思って…」
「……。」

ひゅう、と風が吹いた。いつの間にか二人は足を止め、歩道の真ん中で向かい合っていた。
時間にして数秒。松川は黙し、考え、そしてようやく事の次第に結論を下した。

つまり何かと言うと、彼の気持ちはバレていないどころか、むしろとんでもなくぶっ飛んだ方角で勘違いされていたということである。

「…はあああ……」
「えっごめん、私もしかしなくてもすっごい勘違いして…!?」
「…うん、とんでもなく勘違いしてる」
「…!!ごめ、ごめんなさ、」
「いい、いいから。…あー、いいんだけど、」

松川は手を下にずらして覗かせた双眸で、戸惑いながらもしっかり頷いたナマエを見つめる。困惑しつつも至って真剣な面持ちに、返すべき言葉が嵐のように過ぎ去って行って、結局彼は何一つ言葉にすることなく手を下ろして天を仰いだ。夕焼け空が綺麗である。

ああもう、ここ十数日に及ぶ俺の葛藤と煩悶を返してほしい。いや返ってきたところで要らないけどやっぱり返してほしい。だってじゃないとあんなガラにもなく悩んで悶々としてた自分が恥ずかしいだろ。及川とか花巻あたりにバレでもしてみろ、いい笑い者だ。

夕焼け空はやっぱり腹が立つほど綺麗である。

「…あの、ほんとに…」

今にも萎れてしまいそうな声で呼びかけられ、松川は自分より頭一つと半分近く小さな少女を見下ろす。ほとほと申し訳なさそうな様子はいっそ気の毒で、なんだか肩から力が抜けてしまう。
思えばこの子に非はないのだ。勝手に拗らせ勝手に調子を狂わせ、結果気を遣わせてしまったのはこちらの方。

不安げな目をしたナマエの頭に、ぽすり、大きな手がかぶさる。
つややかな髪をした小さな頭を優しくかき混ぜれば、胸の奥底でこじらせていた煩悶がするすると解けていった。あーあ、俺って単純。

「いーよ、ていうか俺のがゴメン」

すげー気まずくさせちゃってたでしょ。

自分でも気持ち悪いほど優しい声が出てしまったが、この際どうだっていい。目を丸くして自分を見上げたナマエを見下ろしながら、松川は思う。
完全なる負け戦と思っていた戦況は振り出しに戻ったのだ。ゼロからのスタートだってマイナスからよりはずっといい。

「あと、いろいろちょっかい出したのも謝る」
「!…う、うん、大丈夫」
「あーでもごめん、もうしないとは言えないかも」
「えっ」
「ミョウジさん可愛いから、つい」
「!?」

がばり。しれっと落とされた思わぬ台詞にナマエが顔を上げる。すでに十分見開かれていた瞳を驚愕でさらに大きくしたナマエは、しかし降ってきた松川の眼差しの隠されない甘さに息をのんだ。

優しく髪をかき混ぜる指の温度、その感触のひとつひとつが一気に現実感をもって全身の体温を上げる。顔が熱い。
このひとはどうしてこんな瞳で、私のことを見てるんだろう。

「が、がん、ガンバリマス…!」
「え、…っふは、頑張ってくれるの?」
「え!?いや、頑張んないでいいなら全然頑張りたくないけど、…あ、」
「ん?」
「じゃあ、あの質問はなんで…、っ!」

びくり、ナマエの肩が揺れる。どした?なんてわざとらしく首をかしげる松川に声も出ない。
髪を梳いて降りてきた松川の指が耳裏をなぞり、その指先が戯れるように耳朶を撫でる。耳元を悪戯にくすぐる柔い指づかいに全身の神経が麻痺して硬直した。

見る間に熱をもって真っ赤になる頬を親指でわざとゆっくりこすった松川は、わかりやすく自分を意識して凍り付く目の前の少女を見下ろして、意地悪い笑みを口元に浮かべてみせる。
しかし甘い熱を隠さぬ彼の瞳を前にして、ナマエに反駁の余地などあるわけもなく、

「それは追々わからせてあげるから、―――覚悟してて」

ひらり、一瞬閃いたのは獲物を前にした捕食者の眼光。
ほとんど本能で硬直したナマエは働かない頭で辛うじて考える。つまりそれは、…待って一体どういう。
そんな彼女に構わず、離れた手と同時に何事もなかったかのように歩きだした松川に連れられ、ナマエは惰性で歩き出した。

呆然とした彼女がその手首を彼に掴まれたまま歩いていることに気づいてまた軽いパニックに陥るまであと五分。それに気づいた及川が二人を前に盛大にニヤニヤするのを、松川が蹴り一発で黙らせるまであと十分。

以後会うたびに松川が公然と頭を撫でたり髪を梳いたりしてくるせいで今までとは違う意味で赤面し涙目になるナマエを見かねた親友が、松川に対して「"まだ"恋人でもないのに無暗にナマエに触るのはフェアじゃない」という爆弾発言を投下、当然凍り付いた当事者二人をよそに花巻と及川が(笑い的な意味で)爆発し、その隣で同じく笑いを堪えられない岩泉が名前を回収しつつ、「まあ確かに、そろそろ決着つけてもいいんじゃねーの?」と言い残して退場、残された松川が今までに一度もないほど拗らせた片想いに決着をつけるまで、あと一週間と四日。

150511
友人編(仮)これにて一先ず終幕です。
ALICE+