■ ■ ■


V 少年Aの静観


来たか。

ギャラリーの隅っこ、いつにもまして目立たない場所で体育館を見下ろす二つの影をさりげなく見やって、岩泉一は人知れず思った。

今日、ナマエと見学に行くよ。
恋人になってからもせいぜい二週間に一、二度来るか来ないかの見学に、いつもはしない事前宣言をしてきた時点で、何かあるなというのは予想がついていた、おそらく彼女の方もそうしたもろもろを込めて連絡してきたに違いない。

ぱちり、目があったのは彼の恋人の方。普段は控えめに手を振り花咲くように微笑む彼女は、今日はそこはかとなく硬い表情をしている。
まあ大丈夫だろ。そんな思いを込めて小さく笑い返してやれば、名前は少し目を大きくし、それからやっといつものように、柔らかな微笑みを浮かべて頷いた。

「及川ナイッサー!!」

今日も今日とて強烈なサーブを決める及川に、ギャラリーが待ってましたと言わんばかりの歓声を上げた。無論練習中のためそれほど騒がしいわけではないが、なんというか、空気がウルサイ。
(ちなみにこれを一度花巻に言うと無表情で同意された。いわく、「こう…沈黙がすでに騒がしいよネ」。名言である。)

他のギャラリーにつられてだろう、及川の方に視線を動かした名前から視線を外し、岩泉はその横に小さく佇む彼女の友人を見やった。そうして気づく。
ほとんどの女子の注目が一点に集中する中、彼女、ミョウジナマエの瞳は、及川のいるコートの向こう側には向けられていなかった。

「…?」

真剣な表情に浮かぶのは緊張。その瞳にあるのは憧憬や好意なんていうわかりやすいものではなく、それこそ本人にすら制御しかねているような、複雑で真摯な眼差し。

きゃぴきゃぴした空気の中で異彩を放つ視線の先を追った岩泉は、一瞬その意外な終着点に目を大きくした。

そこには隣のコート、ネット前で、後輩たちのアタックを黙々と叩き落とす癖っ毛の同輩。

「…マジか」

これはもしかすると、もしかするかもしれない。

目につく程の不調ではないが、本調子にはどこか足りない。このところそんな及第点の域を出ないプレーを見せており、本人自身十分煮えきらない思いを抱えている彼、松川一静を見やり、岩泉は微かに口角を上げた。


騒がしい及川とそれをぶん殴る岩泉、普段からノリの良い花巻に囲まれているととりわけ大人びて見えるが、松川一静という男は存外わかりやすいところがある。

松川は基本的に、女子に接する時は割と事務的というか、あくまでクラスメートないし同級生という態度を崩さない。
そこには重い意味はなく、単に同性とつるむ方が楽しいという一般的な理由と、男の無神経な振る舞いは時に思わぬ形で女子を傷付けるということを心得た、至って良心的な配慮があるのみだ。

そんな松川が、自分の恋人の友人である彼女にはやけに積極的にちょっかいをかけるのを、岩泉は少なからず珍しく思っていた。
ミョウジナマエ、それがその少女の名前である。

松川がナマエを気に入ったことはすぐにわかった。それが恋心になるのに時間は掛からなかったのだろうと思う。そして、そんな松川にとって壁となったのは、他でもないナマエの友人である自分の恋人に違いないとも。

名前は友人のことをとても大切にしている。すごくいい子なんだ、と岩泉に向かい簡潔に説明した名前の声音は、言葉より豊かにナマエを誉め、誇り、慈しんでいた。

よくも悪くも真っ直ぐ過ぎるところのある名前にとって、そんな友人をからかっては困らせる松川が軽い要注意人物扱いになるのも理解出来る。松川も松川でその表情の変化は付き合いの長い人間にしかわからないところがある分、余計にあらぬ誤解が生じたのだろう。

球技大会のあの時、ついに松川を糾弾した名前に、岩泉は致し方なく松川の胸の内にある男心というものを簡単に説明した。名前は初め納得しかねる様子でいたが、最後にはナマエを松川に任せた。
岩泉の自惚れではなく厳然たる事実として、名前の判断は松川をというより、松川を知る岩泉の言葉を信用しての決定だった。

そうして戻ってきた松川に、一見したところ何か異変が見られるようなことはなかった。それは恐らく及川や花巻あたりに無用な詮索をされたくないが故の防衛だろう。
「普通に保健室に送ってきただけ」。あれやこれやを聞き出そうとする二人に対し、終始一貫してその説明を曲げなかった松川は、帰りに岩泉にだけ言葉少なに言った。

『聞いちゃったんだよね』
『は?…何をだよ』
『及川が好きなのって』
『、…そらまた、なかなかの自爆だな』
『…やっぱそう思う?』

すっげー固まっちゃってさ、カノジョ。

視線をやや上に飛ばさないと見えない横顔、いつもと変わらず眠たげな友人の瞳は、なんでもない色を灯して遠くを眺めたままだった。
けれどじいっと見つめ続けた岩泉の視線は言葉以上にモノを言ったらしい。無言の尋問に耐えられなくなった松川は、貼り付けていた平然をため息と一緒に手離した。

『俺さあ、こういうタイプじゃないんだよね』
『おう』
『もっとこう、安全志向なわけ』
『まあそうだな』
『…こんなん勝ち目ゼロだろ、ほぼ』
『…』

最後の最後に放り投げられた台詞は、辛うじて残していた軽い調子すら放棄した、感情そのまんまの声音をしていた。

確かにあの様子じゃ―――つまり、及川と目が合うだけで頬を赤くして戸惑う様子を見せつけられては、望みがないと思うのも当然だ。

結局は当人同士が決着をつけるべきカテゴリーの問題、極力手を出すつもりはない。だが岩泉は松川と同じようには思わなかった。
理由は彼の幼馴染み、一応は松川の恋敵というものにあたる及川の態度にある。

及川の性格は悪い。尋ねる人がいるならば、岩泉は自信を持って、堂々と、迷いなく答えられる自信がある(「酷いよ岩ちゃん!!」という叫び声は一切無視する)。軽いしチャラいし、そのくせガキで性悪だ。

だが人としてクズではない、と岩泉は断言できる。確かにヘタレで愚図で面倒臭いが、イコール性根が腐っているとは露程も思わない。そうであればとうの昔にチームメイトどころか、幼馴染などやめている。

そんな及川が、たとえ似たような経験をこれまでしてきたとしてもだ。
チームメイトという特別な絆で結ばれた仲間の恋敵になるという状況で、ああもヘラヘラして当人たちに絡んでゆくだろうか。

幼馴染暦十年を優に超える岩泉はこれに関しても断言できる。答えは無論、ノーだ。

アレは人当りが良い分さんざん女子を勘違いさせるが、バレー一筋でやってきたことから考えれば簡単に推察できる通り、土壇場で選ぶのは間違いなく恋愛よりバレー、ひいては仲間の方だ。

ナマエが本当に自分を恋愛的な意味で好きであるなら、人一倍他人の機微に敏い及川はそれをすぐに察知するだろう。そして当然彼女に向ける松川の想いにも然りである。
そうしてその三角関係が進行・悪化する前に、誰にも、つまり松川とナマエ本人たちにも気づかれぬよう、その三角関係の一角から巧みにフェードアウトするべく水面下で動くような、そんな男なのだ。

ナマエをよく知るわけではない岩泉にとって、決定材料はその幼馴染の行動パターンのみ。だがそこから導き出される結論、十分あり得る推測として、岩泉は考えていた。

恐らくミョウジナマエは、及川徹を恋愛対象として好きなのではない、と。


「…存外、負け戦じゃねーんじゃねぇの?」

岩泉はギャラリーの隅を見上げ、愉快そうに口端を吊り上げる。
及川コールを繰り出す女子たちの中、自身の恋人の隣で、ナマエはやはり真剣なまなざしで、松川だけを見つめていた。

150502
次回あたりで決着をつけ…られれば…
ALICE+