彼を含めてもともと実力のあった二年生が、一部の先輩や同輩から快く思われていない節があったこと。

目を付けられ、紅白戦で負けたところに罰ゲームを課されたこと。真っ先に狙われた花巻くんには、ようやく出来たばかりの彼女がいたこと。残された中で最も器用で、一番被害の少なく済む自分が適任だろうと、彼自身がその罰ゲームに名乗りを上げたこと。告白して、すぐに事情を説明して謝罪するつもりでいたのを、あまりに真っ直ぐ返事されて、機を逸してしまったこと。

「その後ずっと、いつ言おうどう言おうってすげぇ悩んでた。一番傷つけない方法、ずっと探してて、けど多分―――城崎さんと一緒にいるのが、どんどん楽しみになってったみたいで」

更なる生贄に岩泉の名を仄めかされて、一か月の「延長戦」を呑まざるを得なかったこと。だとしてもすぐに事情を説明しなかったのは彼の落ち度だったこと。長引けば長引くほど手酷く傷つけることもわかっていたはずで、けれど徐々にその現実から目を背けるようになってしまったこと。身勝手だと言われれば返す言い訳もないこと。けれど彼なら大丈夫だろうと、投げっぱなしだった自分たちにも責任があること。

「でもわかってほしい、確かに最初は厄介なことになったって思ってたけど、」

アイツが城崎さんのこと、裏で嘲笑ったりとか、弄んで楽しんでたとか、そんなことは絶対ない。

「誓っていい。アイツと一番一緒にいた俺たち全員で誓える。すげぇ苦しい顔して―――言わなきゃなんねぇってのと、罪悪感と、」

花巻くんが言葉に詰まる。最良の返答を探して足踏みする彼の語りを、棒立ちになって待つ。心臓が焦げ付きそうになるのを堪えながら、私はただじっと待った。

「アイツ、どうでもいいと思ってる子のことで、あんな落ち込んだり、キレたりするヤツじゃない。同情なんかでも絶対しない。信じてほしい」


差し向けられた嘲りに、無遠慮な詮索と無責任な断罪に、最後まで沈黙を守り通していたこと。
止める間もない勢いで相手に殴りかかったのが、下卑た中傷の矛先が私に向けられた時だったこと。

寸でのところで滑り込んだ花巻くんが代わりにその拳を受け、全力で羽交い絞めにしてもなお、少し気を抜けば再度殴りかかりそうなほどだったこと。


「その気持ちまで、嘘だったとは思ってやんないで」


お願いします。

頭を下げた彼の淡い茶髪をただ見下ろす。ぱたぱたと音がして、隣にかけてきた女の子が、瞳を揺らして私を見つめた。言葉に迷うように唇を開き、結局閉じて、間をおかずに同じように頭を下げる。ふわふわの髪は花巻くんのそれとは色味の違う黄色がかったくせっ毛で、ああそうかこの子廊下の、思い出してそっとその手を取った。

「…手首は大丈夫でしたか?」
「!」

華奢な肩が揺れて、大きな瞳が私を凝視する。いつだったかの帰り道に彼が話していたカップルと、私は私の方で知らぬうちに出逢っていて、そして今こんな形で輪は繋がった。世間って狭い。

「…はい、」

強張った瞳が揺れ、淡白な表情がわずかに歪む。そんな顔をさせたいわけじゃなかったのだけれど、今笑いかけでもしてしまったら、堪えているすべてが崩れてしまいそうだった。

私は頭を下げ、震える膝を叱咤し、踵を返して走り出した。




「あっ…!」
「大丈夫」

何も言わずに駆けだすゆづるに声を上げたくせっ毛の少女に、ゆづるを連れてきた友人は小さく笑った。まだ混乱も驚きも冷めやらぬといった様子だったが、険しい表情を仕舞った彼女は、さり気に胸を張って言う。

「ちゃんと伝わってるよ」

確信のこもった言葉に、くせっ毛の彼女が唇をぎゅっと噛み締める。感謝か謝罪か、何か言わんと彼女が口を開いたその時、しかし不意に響いた冷え切った声が、水を打ったような沈黙を張り拡げた。

「オイタが過ぎたね」

花巻は一瞬驚いた顔をしたが、しかしようやくかと肩から力を抜いて背後を振り向く。そこには普段女子の前じゃ絶対見せないような極寒の怒気を纏い、さして背丈の変わらぬ部員数名をひたと睨み下す及川の姿があった。その隣には同じくして、こちらは彼らしく義憤に燃える瞳で彼らを牽制する岩泉。

「騒ぎにするも何も自由だがな、てめぇらの首を絞めるだけになることは覚えとけよ」
「先に手を出したのはまっつんだとしても、情状酌量の余地は十分ある」

吐き捨てた岩泉に続いて釘を刺した及川が、駆け込んできた教師に制するように向き直る。その一瞬で何も言わずに幼馴染へ調停役を任せた岩泉は屈み込み、片腕一本でやすやすと倒れた机を掴み上げた。騒動の後始末に回った副将を見て、花巻、そして温田や志戸もまた黙したままそれを手伝いにゆく。

困惑顔の教師に冷静に状況を説明した及川は、実質が部内問題であるゆえに、解決を監督たる入畑に委任したい旨を伝える。教師はしばし言葉なく及川を見詰め、それから後ろで言葉なく黙り込む数名の男子生徒と、その隣で黙々と後片付けに取り組む岩泉達を見、躊躇の末に「わかった」と頷いた。








思いつく限りすべての場所を片っ端から当たっていった。

まず部室に走った。鍵がかかっていた。体育館を覗けば、五限目が体育らしき一年生が準備運動を始めていた。体育館裏と倉庫も見たが無人。この時点で息切れする自分の体力に舌打ちしそうになりながら、中庭と校舎裏をぐるりと巡った。どこにもいない。姿は見えない。あの背丈があれば、歩けばすぐに見当たるだろうに。

もしや校舎を出ていないのか。膝に手を付き肩で息する。先ほど飛び出した校舎を見上げた。保健室、社会準備室、理科準備室。空き教室になりそうな場所は山ほどある。一階からすべて見て回るにはどれくらいかかるだろう。

逸る気持ちを急かすように酸素の足りない心臓が鳴り響く。胸を突き破りそうなそれに手を当てた。考えろ。チャイムが鳴る。考えろ。五限が始まった。授業を受けに戻る気になんて露程もならなかった。彼が居そうなところを、花巻くんに聞いておけばよかっただろうか。いいやそれじゃきっと意味がない。

そうして不意に仰いだ校舎の、一番上の隅の窓に目が留まった。ぴん、と頭の中で糸が張る。――――もしかして、あそこに。

校舎に飛び込む。焦る足がもつれてバランスを崩し、階段につまずき大きく転んだ。意地だけで立ち上がり、痛みが速度を鈍らす前に一段飛ばしで駆けあがる。四階が遠い。軋む肺から血の味がするようだった。ずきんと痛んだ脛にはきっと痣が出来始めていたが、そんなものはどうでもよかった。

走って走って、四階に上がり、息を切らして廊下の端まで駆ける。この校舎の最上階は四階だが、その西側の一番端には、もう一つ上へ向かう階段がある。
見上げて、見つけて、息が止まった。

「っ!」

古びた屋上前階段。
何度となく一緒にお昼を食べたその場所に、果たして、彼は座り込んでいた。

「…っ、」

迷った。どうしたらいいんだろう。何一つ考えないまま衝動だけで追いかけてきたから、何を言えばいいかちっともわからない。
折り曲げた長い脚の膝に乗せられた腕と、そこへ項垂れるくせっ毛の頭から表情はわずかも伺えない。さっきの今で、そうでなくともこれまでに彼のそんな姿を見ることもついぞなくて、どうしていいか見当もつかない。

けれど人の気配を感じたんだろう、僅かに持ち上がったその視線は、私には見えなかったがこちらを捉えたようだった。微かに跳ねた彼の肩が、その確信を強めさせる。どうしようもない居たたまれなさが、色すら帯びて彼を押し包むのが見えた気がした。その心苦しさがこちらにまで伝わって、もう言葉など何も出てこなかった。

なんでもいい、答え合わせは後回しで構わない。溢れだしそうないろいろをなんとか堪えて、私は階段に足をかける。頑なに顔をうずめたままの彼の足が乗せられた段、その一段下に、ほとんど座り込むように膝をつけた。肺が軋む。整わない息もそのままに、動かない彼を見上げる。

数拍の沈黙、漏れ聞こえたのは、今にも泣きだしそうに掠れた声だった。


「……ごめん」


――――ああ。


「…ごめん…っ」


私はなんて、酷いことをしたんだろう。


突き刺さった血を吐くような謝罪が、酸欠じゃ説明がつかない痛みとなって心臓を握り潰した。けれど彼はきっと、これ以上の痛みをずっと抱えて、今この瞬間まで堪えていたのだ。

私は謝罪を拒絶した。連絡を断って、会話を拒んで、顔を合わせることすら拒絶した。そしてそのすべての予防線を、松川は決して踏み越えようとしなかった。不慮の事態で顔を合わせた時でさえ、引きとめる素振りもなく、すべて私の望むままにしてくれた。

今なら理解できる。それは松川のせめてもの罪滅ぼしで、その状況で出来得る限りの私に対する配慮だったのだ。

絞り出すような彼の謝罪には、返り血まみれの罪悪感が嫌と言うほど見て取れた。きっとそれはこの瞬間まで彼の中で暴れまわり、いろんなところを切り裂いてきたに違いなかった。

私が彼を避け続け、会話の余地を与えなかったことで、松川は身を刺す感情を抱え込んだままもうずっと我慢していた。謝ることすらできないまま、むしろ選んでそうしないまま、ずっと耐え続けてくれていたのだ。
それを思うと、心がへし折れるほど申し訳なくて、どうしようもなくたまらなくなった。

膝の間に力なく垂れた、大きな両手を包み込む。びくり、跳ねた長い指に構わず、包める分だけ目一杯に握り込んだ。
堪え切れずに額が垂れる。祈るように押し付けて、そうしてようやく吐き出した。

「ごめん」

酷いことをした。

最後の最後まで優しかったこのひとに、今この瞬間に至るまで、酷く苦しい思いをさせてしまった。

「……なんで」
「…ッ」
「なんで、城崎が謝んの」

松川の手が、声が震えている。泣いているんだろうか。わからない、何も見えない。きつく瞑った両目から落ちる礫が、スカートの上にぱたぱたと散る。こつり、伏せた額にぶつかったのは傾げられた彼の頭。

「ごめん、…ごめ、っ」
「泣かないで、…泣くなよ城崎」

城崎は謝ること、何もしてないだろ。

酷く途方に暮れた声で繰り返す彼に、私はきつく首を振った。するり、力の入らない両手から抜けていった彼の片手が、戸惑いがちに肩を包む。その手の優しさが一層苦しくて、残った片手だけは離すまいと握りしめて、私は涙が止まるまで泣き続けた。

160810
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