人気の絶えた最終下校間際の下駄箱で、待ち人を待つ。


待ち合わせの時間まではまだ10分あった。連絡は済ませてある。時間も間違ってない。何週間かの空白を経て再開されたラインのトーク画面を確認するのは今日でもう何回目になるだろう。
自分でも呆れるほど落ち着きがないのはわかっている。女々しいと言われても仕方ない。けれどたかだかラインの繋がりひとつだろうが、彼女が俺と再び連絡をとってくれる、それだけで俺にとっては奇跡も同然だ。

いつもより割り増しで速く着替えを済ませたのは及川達には筒抜けで、けれど経緯が経緯なだけあって冷やかされることはまるでなかった。むしろ割りと本気で神妙な顔して送り出されてしまい、相当に心配させたことをちょっと気まずく思ったほどだ。

だが実際一度完全に崩壊した関係が、全くの元通りに戻るなんてことはあり得ない。
俺と城崎の関係は、未だ先の見えない綱渡りの最中にある。





溶け合った体温が互いの手のひらの境界を曖昧にさせる頃、彼女の頬を濡らす涙は止まった。

蒼く透けた肌に紅く染まる目元が痛々しくて、けれど彼女は俺の手を離すことなく、ブレザーの腕で適当に頬を拭った。繋がったままの手をそのままにする仕草がぎゅっとさせた胸の感覚は、今でもまざまざと思い出せる。

俺と彼女は何も言わないまま、そのまま六限まで屋上前で座り込んでいた。彼女も泣き止んだところで戻れるような状態じゃなかったし、俺も戻ったところで間違いなく呼び出しを食らうのは目に見えていた。彼女に事情聴取が及ぶ可能性もあるし、それなら人が捌けた放課後に出頭する方がいい。
それでもやっと一言「戻る?」と聞いた声はみっともなく掠れていて、城崎は俺の手をじっと見詰めたまま、静かに一度だけ首を振った。

細い指先が手の甲をなぞる意味に気がついたのはその直後だ。寸前で花巻が飛び込んでくるのが見えたのに、体が止まってくれなかった。後でマジで謝んねーと、それだけしか考えていなかったが、口を噤んだ彼女の視線の先に気が付いて居たたまれなくなった。
花巻に相当痛い思いをさせたはずなのだ、俺の手も当然赤く腫れていた。あのみっともないザマを見られてしまったことを急に思い出して、恥ずかしさと気まずさで体が熱くなった。

『…花巻くんから、全部聞いた』

彼女が言ったのはたったそれだけだった。そしてそれは彼女がここまでやってきてくれたことから薄々推測できていたから、俺はただ小さく相槌を打つほかなかった。

俺に言えることは何も無い。何を言ったって言い訳にしかならないと思った。少なくともあらぬ誤解の可能性はきっとなくなったのだ。それ以上を望むか否か、俺に決める権利はない。
決められる覚悟は全部決めて、俺はじっと判決を待った。けれど彼女は最後の最後までただ黙って俯いていた。

放課後が近づき、流石にもう行かねばならないことはお互いわかっていた。このまま別れたら、ぎりぎりのところで繋ぎ止めている糸が今度こそ立ち消えてしまう気がして、階段を下りきった校舎の出口、背中をせっつかれるみたいにして口走ったそれは、最後の賭けに近かった。

『連絡、…また、してもいい?』

彼女は頷いた。目は合わないままで、けれどそれだけで十分だと思った。




連絡するまで三日がかかった。踏み切る勇気が出なかったのもあるが、そのうち最初の一日分はあの騒動の事後処理があったからということは弁明しておきたい。

練習を終え、着替えにゆく手前で溝口コーチに呼び出され、向かった先には入畑監督の姿があった。職員室から呼び出しを食らわなかったのはこのためかと納得できるくらいには冷静だった。きっと及川あたりが上手く話をつけてくれたんだろう。思いながらやってきた俺に、厳しい顔をした監督は事実関係を一つ一つ尋ね、俺が答えるのにじっと耳を傾けていた。

煽ったのは向こうでも手を出したのはこっちだったのだから、部停くらいにはなるかもしれない。そう腹をくくっていたがしかし、監督は話が終わると、一つ手を叩いて立ち上がった。そうして、それまで以前から上級生の圧力があったこと、その目撃証言、騒動を起こすまでの経緯、止めようとして殴られた花巻に大した怪我がなかったことを挙げ、この件をこれ以上大きくするつもりはないと告げた。
拍子抜けする俺に、入畑監督はふと目元を和らげると、穏やかな声で言った。

『二年の主力が総出で頭を下げに来た。お前を罰するなら、同じペナルティを与えろと言って聞かん』

相手の子にはきちんと謝ってきなさい。
そう言い残して部室を出て行く監督に、俺は黙って頭を下げた。


監督にすら背をおされながらもう一日たっぷり迷い、花巻やら及川やらにさんざんせっつかれ、ついに「連絡するっつったんだろ。男に二言はねぇぞ松川」と揺るぎない漢っぷりにばっさり袈裟懸けに斬られてようやく(誰の台詞かなど言うまでもない)、思い切ってラインを送った。月曜一緒に帰ってくれませんか。吹き出しの横に現れた既読の文字に息が止まって、返信が返ってくるまでの沈黙で酷く胸が苦しくなった。

ようやく浮かんだ「下駄箱で待ちます」の一言に、解放された緊張と安堵でベッドに倒れ込んだのは三日前の晩のことだ。
そうして迎えた今日、彼女の姿はまだ見えない。


時計を覗きこむ。待ち合わせ時刻から10分が過ぎていた。人の近づく気配はない。
…下駄箱、ここで合ってるよな。じわじわとせり上がる不安を押し込んで辺りを見回した。
西側の窓から注ぐ斜陽が窓枠の影を伸ばすばかりで、廊下に人影はない。もしかして昇降口側だろうか。城崎はいつだって時間に正確だった。俺も5分前行動が基本だから、大抵待ち合わせの時間を前倒しにして集合が終わってしまう、それが俺と彼女の通常で。

最終下校を知らせるチャイムが鳴る。昇降口の方へ足を向けた。遠目に校門をくぐってゆくのは俺と同じような部活終わりの生徒ばかりで、校舎は相変わらず静まり返っている。

喉を締め上げるような不安。時計を見る。17分の経過―――来て、くれないのだろうか。

スマホを取り出し、トーク画面を見る。通知はない。通話ボタンを呼び出して、けれど親指は動かなかった。

「―――……っ」

座り込みたくなる脱力感を呑み下し、下駄箱に背中を預けた。堪えろ。天井を仰いで目を瞑る。それからまたどれくらい待ったかわからない。ただもう時計は見なかった。
仕方ないだろ。もしものこともどうなったとしても自業自得だ。これ以上情けねぇザマを晒すな―――思って唇を噛み締めたその時。

ぱたぱたぱた。
上履きが地面を叩き、鞄が揺れる音。聴覚の端っこが拾い上げる静寂のほころび。徐々に大きくなるそれに、恐る恐る目を開けた。昇降口の方。

まさか。背中を浮かせたその瞬間、下駄箱の影から飛び出してきたのは、髪を乱して肩で息する制服姿の女の子。城崎。

「っご、め…!」

凍り付く俺の前にたたらを踏んで急停止し、間をおかずに突き出される片腕。鞄を足元に転がし、余った方の片手を膝について、切れ切れの声が言う。

「とけ、っ…電池…きれ…っ」

時計、電池。突き出された細い手首の文字盤を見る。二針が差すのは17時15分――――待ち合わせの30分前。
彼女が顔を上げる。必死な眼差しに息が詰まって、

「ごめ――――」

限界だった。止まった時計ごと手首をつかんで、腕の中に引き込んだ。

言葉を封じて閉じ込める。硬直する彼女に気づいていても、力加減する余裕さえなかった。全力疾走をしたばかりの熱を持った柔い身体が、制服越しに伝わる鼓動の速さが、微かな汗と共に香るシャンプーの香りが、どうしようもない感情を掻き立てる。

わずかに受ける抵抗を封じ込めるように力を強めて抱き締めた。今だけは何を言われたって離してやれる気がしなかった。

「…ま、つか…っ」
「―――今だけ赦して」

ごめん、今だけでいいから。

力を緩めてあげられない。繰り返す唇から、来てくれないかと思った、だなんて恨みがましい言葉を遠ざける。それを言う資格は俺に無い。ただ華奢な肩を、細い腰を抱き込んで、胸元に感じる彼女の吐息にきつく目を瞑る。
そうして不意にそっと、首裏に触れ、襟足を掬う何かに身体が跳ね上がった。

薄い肩にもたげた頭が思わず持ち上がる。それに応じて一瞬離れたその温度は、けれど再び、意を決したように髪をくぐった。そうしてわずかに浮かせた頭が、隙間を埋めるように引き寄せられる。

たどたどしく項を撫で、慰めるように襟足をまさぐるぎこちない指先が、信じられないほど熱い。溶けそうなほどの熱に眩暈がして、ずくり、体の芯が疼いた。

一瞬思考が真っ白に染まり、吹っ飛んだのが理性だったと気づいたのは、必死に言葉を紡いだ後だった。

「――――好きだ」
「!」
「好きだった、城崎のこと。…ずっと好きだった、」

ああくそ、こんなはずじゃなかったのに。思うのに言葉が先走る。せき止められない感情に任せ、溢れ出すがままに繰り返した。クソみっともない。もっとちゃんと段階を踏んで、つーかその前に言わなきゃいけないことも、取り戻さなきゃいけない信頼も山ほどあったはずなのに。

なのに、願ってしまう。
頷いてくれと、赦してくれと。今すぐじゃなくていい、けどいつか、どうかそれ以上の気持ちを向けてくれと。

「ごめん、」

言いかけて声を失う。不意に彼女が身じろいだ。

艶やかな黒髪の頭が肩口でゆっくりとこちらを向く。ぴたりとくっついた首筋に、長い睫と薄い瞼の目元が、すり、と押し当てられた。
ゆっくりと細腕が持ち上がる。行き場を探すように肩をなぞる手が、そろそろと伺うように力を込める。なんで。心臓まで一緒にぎゅうと締め付けられて、名を呼ぼうと動かした舌は音を出す前に絡まった。

城崎は震えている。合わさった柔い胸から、どくどくと脈打つ鼓動が伝わってくる。きっと同じくらい速く脈打っている心音を分け合いながら、彼女がそっと背伸びするのを感じた。
項を引き寄せる力が強まって、促されるまま屈み込む。だがそのまま首筋へ感じた酷く甘い感触に、一瞬思考が吹っ飛んだ。

「…ッ!?」

反射的に逃げそうになるも首裏に回る小さな手は逃がしてくれなかった。これ以上ないほど脈打つ余裕のない心臓はきっと筒抜けだ。本当ならそこだけでも死ぬほど恥ずかしいに違いないのに、薄い皮膚に吸い付くように押し当てられた柔い感触がそれどころじゃなく体温を上昇させる。

「っ、城崎、」

やっと呼ぶことのできた名に、彼女は何も答えなかった。震えたまま、それでも迷いを振り払うように引き寄せられる。折れそうな細腕を振り払うなど出来るわけもなく、されるがままに背中が折れた。

「ま、待って、ちょ」

震えた吐息が襟元を掠める。身体が熱い。多分今茹でダコ超えて顔赤い。思わず彼女の項を捕らえる。寄せられた薄い瞼は同じ人間のものとは思えないほど繊細で、首の薄皮をくすぐる長い睫に眩暈がした。呆然を通り越して心臓が死にそうだ。この子は俺を殺す気なのか。

ちょっと力を籠めれば折れてしまいそうに細い首におっかなびっくりしながら、なんとか頭を上げて、とにかく一旦距離を取る。ああもうどうしてくれんの、まさかこれが復讐とか、期待させといてホントはどうでもいいとかそういう、

「――――好き」

振り絞るようにして紡がれた言葉に、吹っ飛んだのは理性じゃなくごちゃついた思考一式だった。

「……は?」
「…まつかわ、が」
「え、…けど、…え?」
「…」

フリーズする頭がまともに再起動する間もなく、ようやく離したはずの首を引き寄せられる。30センチ越えの身長差を拒否するその要求は、けれどどこか縋るような弱々しさを帯びていて、呆然としたまま屈み込んで差し出したそこへ、さっきよりずっと強く目元が押し付けられた。
震える吐息よりもっと熱い滴で、首元がじわじわと濡れてゆく。迷って迷って、恐る恐る俯く彼女を伺った。当然この角度じゃ顔は見えない。ただ鼓膜を震わせた彼女の吐息は、涙を帯びて揺れていた。

喉がからからに乾く錯覚。掴んだ肩の薄さに今更どうしていいかわからなくなる。あれほど煩かった心臓の音が聞こえない。内側から焦がすような熱が肺を食い破ろうと込み上げてきて、やっと尋ねることが出来たのは自分でも呆れるような一言だった。

「……ほんとに?」

言った傍から埋まりたくなるような情けない声が出た。今更力を失った腕が中途半端に彼女を囲ったまま行き場に迷って彷徨った。ああもうここに骨うずめたい。どんな弱ってんの俺恥ずかしすぎる。けれど恥も外聞もどうでもいいと断言できるほど、俺は彼女の心が欲しい。

俺が羞恥で死ぬより早く、首元で城崎が小さく笑い声をあげた。鼻をすする音に胸が軋む。そっと体を離した彼女の腕が遠ざかる。それでも完全に離れるのを躊躇うようにシャツに引っかかる手に、胸の奥がぎゅっと掴まれた。

階段の時と同じぞんざいな仕草で、彼女は濡れた目元を親指で拭う。顔を上げ、きゅっと口端を持ち上げると、涙で揺れる声を震わせて、城崎は揶揄うように言った。


「罰ゲームって言った方がいい?」


きつすぎる冗談に死にたくなった。
目元を覆って耐えきったら、今度こそ本気で泣きそうな声が出た。


「…頼む、マジで、ホントに悪かったから、」
「エッ待ってごめん、そんな声出さないで、好きだよ」
「っ、」
「……ちゃんと好きだったよ、ずっと」

付け加えた声の震えには、彼女の緊張が、躊躇いが、一抹の恐怖が、今日一番に滲んでいた。
皮肉とも呼べないレベルのジョークが、けれど精一杯の悪ふざけであることはすぐにわかった。悪戯げに笑うくせして滲んだままの声とか、触れ合う身体から伝わる緊張とか遠慮とか、きっと本当はいっぱいいっぱいで、けれど大したことなどないように城崎は笑う。ことさら気丈に振る舞うその理由が、俺を目一杯気遣うものだということに気づかないほど鈍くはなれない。

全てをなかったことにはできない。何もかも忘れての再スタートなんて綺麗事だ。けれど彼女は、一度木端微塵に砕け散った信頼を担保に、何もかも預けるには足りなさすぎる確信を根拠に、俺を信じると告げてくれる。今度こそちゃんとした関係を築く機会をくれると言う。

「…ありがとう」

強がりの笑みが崩れた。瞳を揺らした城崎をもう一度引き寄せた。戸惑ったままの両腕がシャツに触れるのを感じて、ますますきつく抱きしめる。
きっとすぐには拭えない。負わせた傷が癒えるにはたくさんの時間がかかるだろう。償うなんて言い方をすれば、きっと彼女は良い顔をしないのだろうけど。

「俺も、城崎が好きだよ」

それでも確かに叩き割り、傷つけて、失わせてしまった繊細ないろいろが、少しでもその胸に戻るように、ありったけの想いを込めて囁いた。


160821
これにて終幕。ありがとうございました。
ALICE+