毎週金曜日は、彼と一緒に帰ることになっている。

バレー部のオフは月曜だが、その日には大抵私の委員会活動が入る。これまでは水曜にあることが多かったのだが、担当の先生の都合で月曜へと変更されたのだ。

休日に二人に出かけることは滅多にない。というか多分、罰ゲーム期間中からカウントしてもそんなイベント一度なかったと思う(放課後デートは計算外とする)。とは言えそれに不満は全くない。なんせ一緒に帰るだけでもなかなか精一杯なのに、一日二人で過ごすとかいろいろ持つ気がしないのだ。主にメンタルとか心筋とか平常心とか。

だがしかしせめて一週間に一回くらいは一緒に帰っておかないと私が困る。何も乙女な発想じゃなく、いやそれもないわけじゃないがリアルな死活問題として、ますます免疫が失われてゆく気がしてならないのである。だってなんだもうあのひとホント格好良いから困るんだ。免疫が無理ならワクチンが来い。…閑話休題。

そんな私情は胸に秘めつつ、とりあえず報告はせねばと委員会の曜日変更を告げれば、松川は一瞬かちんと表情を固めてしまった。僅かに泳ぐ瞳、それからいつも以上に慎重な様子で、彼は言葉を選ぶように言った。

『えーと、じゃあ…もう一緒には帰れない、とか』
『うん、待たせるのは申し訳ないし…』
『……』
『…、え?あっいや、けどそれ月曜はって話で!』
『え』
『…全然、自習とかして待ってれば、他の曜日でも全然…』
『……ホントに?』

ぱちくり、虚を突かれたように見開かれた眠たげな瞳に、伺うように見つめられる。自意識過剰だろうか、きっとそうだ、でも慎重な色を重ねた双眸は微かな期待を秘めているように見えて、小刻みに何度も頷いた。

『…結構遅くなるけど、それでも大丈夫?』
『いい、平気。…迷惑じゃなければ、』

言葉は切れた。つんと唇を尖らせ、顔ごと背けるように視線を斜めへ落とした彼が、日に焼けていない頬に朱を昇らせるのがわかってしまって、一気に体が熱くなる。
どうか何も言わないでくれ。心の底から願ったけれど、こういう時の彼が必ず私にとどめを刺しに来ることは経験則で知っている。案の定彼は呟くように言ってきた。

『…良かった。もう帰ってくんないかと思った』

こうしていちいち心臓を握り潰しに来るこの人への対処法が、私には未だわからない。


そんなこんなで死にそうになりながら決めなおしたエックスデー(と呼べば友人らは死んだ目で私を見た。何故だ)は毎週金曜日となった。一週間の終わりだし、と理由づけた彼の真意は迷宮入りだが、私個人としてもバックに土日が控えているのは心強いため異論はなかった。なんたって何があっても二日は死んでいられるのである(と言えばやはり友人らには遠い目をされた。何故だ)。

そうして金曜の放課後、自習したり本を読んだりして時間を潰す私を、松川はわざわざ教室まで迎えに来てくれる。本当なら校門前で待ち合わせるのが一番フェアなのだろうけれど、松川は頑として出迎えを譲らなかった。きっと他の部員さんたちと鉢合わせになることを気にしてくれているのだと思う。

お菓子の一件もあり、彼らを視界にいれた反射で回避行動を取ることはもうほとんどない。だがあれ以来これと言った直接の接触がないこともあって、私自身まだどんな顔をして会えばいいかイマイチわからないのは本音だ。いつかきっとお礼と挨拶に行こうと決めてはいるが、もう少し時間が欲しいのも事実。

その代わりにはならないが、あのお菓子たちは順調に消化中である(今日は付箋のついていたイチゴキャラメルを持ってきた)。残すところは3分の1になるだろうか。そして何となく、これを食べきった暁には彼らに会いに行けるような気もしている。

「お待たせ」
「!や、全然。…おつかれさま」

最終下校のチャイムが鳴って、そろそろかと伸びをする。そうしていればものの数分後、からり、教室の戸が引かれ、顔を覗かせたのは渦中の待ち人だった。ゆったりとした足取りはわずか数歩で距離を詰めてしまう。部活終わりの疲れもあるのだろう、アンニュイな空気を濃くさせた松川はいつ見たってどきりとさせられる。

普段より少し緩く締められたネクタイが伏せた睫の纏う色気に更なる陰を加えている。無駄に夜が似合いそうで落ち着かない。なんだろうあれ計算なんだろうか。…いいやないな。彼は素で殺しに来るタイプである。

「数学?」
「うん、提出近くて」
「そっか。…それ、」
「うん、キャラメル。美味しいよ」
「いいの?」

筆箱の横のパッケージに目を留めた彼に、一粒取り出し差しだせば、長い指が私の指先を掠めて薄ピンクの包みを浚ってゆく。口元に運ぶ何気ないしぐさにやっぱり落ち着かなくなって目を逸らした。自分でも変態みたいだと思うので何も言わないで欲しい。

「…あま、」
「よね」

ちょっと顔をしかめてもぐもぐする彼に笑いつつ、広げたノート類を手早く片付ける。教室を出てゆっくり階段を下り、たわいもない話をしながら校舎を出た。斜陽が眩しく、人気は少ない。最終下校を15分ほどオーバーした校庭は静まり返っている。

不意に触れた右手が、無言のままに繋がれた。揺れる肩は隠せない。それでも凍り付かないだけ随分慣れてきたと思う。並んだ距離が縮まって、腕が触れるたびに心臓も一緒に触れ合うようで、絡まる骨ばった指が頬を熱くした。

少しして再開した他愛もない話でぽつぽつと沈黙をつぶしながら、いつもと同じ道を歩く。一度松川にきちんと家の位置を聞けば、私の家とは90度以上方角の違う住所が返ってきて、思わず黙り込んだのは良い思い出だ。
それでも「俺がしたいだけだから」に始まり「迷惑?」だなんて困ったようにトドメを刺されれば、私に異論を言う隙などありはしなかった。つくづくずるい人だと思ったが、以来黙って厚意に甘えることにしている。

「そうだ、この前花巻くんと彼女さんの二人に図書室で出会ったんだけど」
「うん?」
「突っ伏して寝てる花巻くんの髪の毛をさ、彼女さんがヘアピンで遊んでて」
「へえ」
「終始無表情だったんだけど、出来上がったときどことなくドヤ顔しててさ」
「ああー、してそう」
「こう、なんだ。めちゃくちゃ可愛いよね彼女」
「すげえ実感籠もった声で言うね」

あそこはどっちもあんま顔に出ないだけで砂吐くようなバカップルなんだよ、と松川は笑いながら言う。その幸せオーラに当てられた及川くんがよくぶすぶす僻みをこぼしているらしい。意外だ、彼ほどの見目であればより取り見取り選べるだろうに。そう返せば、「ジュンアイがしたいんですって」ともったいぶった調子で松川が言うので笑ってしまった。

「真面目な話をすると、アイツあれでやっぱバレー馬鹿だから。モテるわりに基本長続きしないんだよ」
「ああー、なんかわかるなあ」
「…わかっちゃう?」

一瞬の間、茶化したように小首をかしげる彼の瞳に、茶化す以上のものを見つけてしまった。上手に隠す人だと思う。それに少しは気づけるようになってよかったとも。

「うん、でも、共感はしないよ」

重ねた手に力を籠めてきっぱりと言い切れば、ちょっとバツが悪そうに目を逸らされた。そっか。ややあって降ってくる返事に満足すると同時に、きゅっと手を握り返される。

この人は時折、いや、往々にして、私に対してすごく慎重だ。その幾重にもわたる気遣いは時折、私を少し寂しくさせる。

練習の話、ポジションの話、チームメイトの話。松川はあまりたくさんを一気に話す人ではないから、私が彼について知ることはなかなか増えてはゆかない。けれどそのゆったりした会話の中で私は、紡がれる一言一言を心に収め、落ち着いた声に含まれた微かな笑いに耳を馴染ませ、時折覗く男の子らしいトーンを拾い集めることが出来る。それに、あんまり早々多くを知ってしまうのはなんだかもったいない気がして、私は彼との言葉数の少ないやり取りがとても好きだ。

徐々に薄暗さを増してゆく住宅街に入れば、いつも通りかかる公園が近づいてきた。大きな桜の木と生け垣に囲まれた昔からある小さなそこでは、住宅を気にせず少々のボール遊びが出来るものの、日が暮れると早々と薄暗くなることで有名だった。当然私がお世話になったのはせいぜい小学校までだ―――最近になるまでは。

「…寄り道してって大丈夫?」
「…うん、平気」

なんとなく緊張するのを意識せずにはいられなくなる。理由はひとつだけ、そこが彼と一緒に帰る日に必ず足を運ぶ地点となったからだ。
昔遊んだ公園なのだと話して、じゃあちょっと寄っていこうかという話になった。それが始まりだった。滑り台にブランコ、ベンチと鉄棒。でも今はその何一つ、ここを訪れる理由にはなり得ない。

黙って踏み入る敷地、人目を遮る桜の枝が落とす影。何でもないフリはきっととうの昔からできていない。握った手が心拍音に拍車をかける。つい、と引かれる力に従い身を反転させれば、一層濃く落ちる影。ふわり、いつもと同じように、包み込むように抱きしめられる。

「…っ、」

手をつなぐのは随分慣れた。けれどこれはまだ慣れない。慣れる気が全くしない。
きゅ、と力を込めてくる背に回った長い腕が心臓を騒がせて仕方ない。強くなる彼の匂いと制汗剤の香りが、前と変わらないと実感してしまえることそのものに恥ずかしさが湧き上がってくる。だってそれはもうこの行為が何度目にもなるという揺るがぬ証拠なのだ。

ちょっとだけ、触ってもいい?

初めてこの公園にやってきて、何となく長引いてしまった沈黙を持て余しそうになったその時、不意に紡がれた彼の声はいつもより少し小さかった。びっくりして見上げた面持ちは隠しきれない緊張を滲ませていて、それを見たら断るなんて選択肢は顔を出すにも至らなかった。
ほとんど手探りで頷けば、酷くそっと引き寄せられた。抱きしめると呼ぶにも数秒にも満たない、淡く短い抱擁だった。


それから毎週、一緒に帰る金曜日には必ず、こうしてこの公園に足を運ぶのが通例になった。数秒にもならなかったそれが少しずつ長くなって、囲うだけのような力が少しずつ強くなって、そっと身体を離すとき少しだけ目が合うようになって。

腕を回し返す勇気はなかなか出なかった。それでも酷く気遣い屋の彼を無暗に不安にさせることは避けたくて、シャツだけは絶対に握りしめることに決めていた。
そうして初めてその大きな背に腕を伸ばすことが出来た時、初めてきちんと触れた鍛えられた背中にいっそのこと死にそうになった私を、彼は身体をわずかに揺らして、けれど一拍の間を置き、それまでよりずっと強く抱きしめてくれた。心臓まで一緒に抱きしめられたみたいに、体が熱くて仕方なかった。


言葉にされない想いを確かめ合うようなこの時間は、相変わらず慣れなど皆無で死ぬほど恥ずかしくて、けれどやめたいとは絶対に思わない。
そ、と腕の力が弱められて、応じるように身を離す。しかしいつもならそのまま完全にひらく間合いは、背に回されたままの長い腕により留められた。何だろう。怪訝に思ってあげようとした頭を止めたのは、小さな彼の声だった。

「城崎」


キス。


「…して、いい?」


言われた意味が導火線を燃やし、脳みそに辿り着いた瞬間、思考が真っ白に吹っ飛んだ。

どれくらい凍り付いていたのか体感時間すらわからない。なんならさっきまでじわじわと上昇していた体温さえ行方不明になっていた。手持ちのカードは皆無、返す言葉も反応も何一つ思い浮かばない。
わかったのは離れる温度、背から外れて二の腕を掴み、体を離す大きな手だけ。

「―――ごめん、やっぱ今のナシ」

それが気まずさを感じさせないよう、精一杯に繕った声だとわかった瞬間、飛び込んだのはほとんど反射だった。

「っ!?」

離されかけた体を半ば無理やり引き戻す。しわになるほどシャツを掴んで、硬い胸元に額を押し付けた。煩い鼓動はどちらのものだろう。声も言葉も追いつかない、でもわかってほしい、どうか伝われ。

「顔、…あげれそうに、ないけど」
「、」
「でも、その」

不意にうなじに何かが触れた。添えられた手を感じた瞬間、ぶわり、湿度を感じるほど体温が上昇した。
再び二の腕を優しくつかまれてそっと体を離される。落ちる影が深くなる。近くなる気配に屈み込まれるのがわかって、いよいよ心臓が煩く騒ぐ。添えられた手の裏で、汗ばむほど火照る体の熱を意識すればするほど、ますます顔が熱くなる悪循環。

どうしようもないほど真っ赤なのはきっと筒抜けだった。せめてもの抵抗に俯かせた顔へ垂らした髪を、松川は払いのけずにいてくれた。覗き込むように顔を近づけられる。うなじを引き寄せられて、たまらずきつく目を瞑った。
一瞬掠める甘い香り。これ、キャラメルの。思う間もなくくちびるに触れる、うすく柔いその温度にぶわり、肌がさざなみだって―――それなのに。

「ッ!」

今度こそ本当に息が止まった。完全な不意打ちだった。一度は離れていったはずのそれが、今度は意志を持ち、食むように触れてくる。生まれて初めて感じた感触、その生々しいほどの艶やかさに、今度こそ心臓が溶け落ちた。

「…っ、」

しっかり重なった薄い唇に味わわれ、名残惜しむように離される。掠めた吐息が帯びる熱と人工的な甘い香り、逃げそうになる腰を引き寄せる手に、眩暈がするほど翻弄される。
足が震えている。きっともう次は耐えられない。シャツをつかんだ手だけで懇願した。気づいていたかはわからない、けれど松川は私の限界に応じてくれて、そっと離れていった温度は、いつも以上に深く包み込む抱擁になって戻ってきた。

後頭部を包んでくれる大きな手に抱き込まれる。そうしてぎゅうと与えられる温度にようやく深く安心して、同時にどうしようもなくかき乱される。
それなのにこの人は、やっぱり私にとどめを刺しに来ずには終わらないのである。

「…ありがと、すげぇ嬉しい」
「…っ」
「…またしていい?」
「お、ねがいだからちょっと何も言わないで、しばらく黙ってて」
「……ヤだった?」

―――ああもう!
その徐々に声を小さくするのがホントに、あとそういうぎゅっとする切ない声出さないでください、いちいち全部聞かなくていいし、つまりだからいったい私をどうしたいんだ!
言いたいことは山ほどあった。いっそ叫んでやりたいほどだ。それでも結局出てくるのはいっぱいいっぱいの情けない悲鳴だけ。

「ヤだったら最初から言ってる…!」
「ん、すき」

恐ろしく成り立たない会話にもはや文句さえ言えなかった。とびきり蕩けたテノールで囁かれ、溶けるほど甘い指づかいで耳たぶを甘やかされる。駄目押しに頬にまでそっとキスされて、襲い来る羞恥と多幸感で死にそうになった。
こうなればもうどうしようもない。瀕死の心臓を抱え込み、嵐が過ぎ去るのを待ってくちびるを噛みしめる他、私になすすべなど残されてはいないのだ。

160921
全力で砂を吐かせたい。
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