「え」

色白の絹肌、造形の整った顔立ち、十人が十人振り向く美しさで人目を引く少女は、はたと買い物の手を止め立ち止まった。

長い睫に縁どられた彼女の理知的な瞳が眼鏡越しに捉えたのは、先ほど彼女が買い物かごに放り込んだのと同じ粉末ドリンクのコーナー前。お徳用と普通サイズの箱を手に、何やら表示を覗き込んでいるらしい華奢な後ろ姿に、彼女、清水潔子には見覚えがあった。洒落た純白のブレザーとキャラメル色のチェックのスカート、肩まで落ちる整えられた黒髪。県内でも名の知れた私立高校の制服は街を歩けば簡単に見つかるものだが、数年の付き合いになる友人の後ろ姿は見間違えるはずがない。

しかし潔子は買い物かごを腕に歩み寄り、普段のように気さくに声をかけ、普段こうしたスポーツショップに縁もゆかりもないはずの友人との偶然の邂逅を楽しもうとはしなかった。否、いつもであったら迷うことなくそうしたはずだ。言葉なく足を止めた理由はただ一つ。

「清水ー、あったあったいつもの。なんか場所変わってたみたいで…さ?」

烏野男子バレー部御用達、使い慣れたメーカーのテーピングを片手に奥の角から戻ってきた菅原孝支は、彫像のように立ち尽くす美人マネージャーの姿に首をかしげる。その細腕から粉末ドリンクによって重量を増した買い物かごをさり気なく引き取った彼は、当然ながら潔子の凝視する先へと視線を投げかけた。そして気づく。

「え、あれって…」

棚二つ分向こう側、両手に余る粉末ドリンクの箱を品定めする少女の隣に、同じく純白のブレザーに身を包んだ背の高い青年が歩み寄ってくる。ゆうに30センチはある身長差、少し身をかがめた青年は自然な様子で彼女に声をかけた。その接近に気づいていなかったらしい彼女が、肩を揺らして顔を上げる。

純粋な驚きを浮かべた少女の横顔に、ついでに言えばそれを見てふわりと笑んだ青年にも、菅原には見覚えがあった。潔子の中学からの親友たる城崎ゆづると、名は知らないがその恋人であろう男子生徒だ。

とは言え記憶に残るものとはずいぶん雰囲気が違っている。指一本でも触れれば砕け散りそうな――否、すでに砕けていたのかもしれない――あの緊迫と膠着を孕んだ気配は跡形もない。
依然ややぎこちない様子ではあるが、それはあくまで付き合いたてのカップルが醸す空気というヤツで、大きさにずいぶん差のある背中を寄せ合う姿はなるほど様になっている。

「そっかー、上手くいったのか。あ、というよりは復縁?」

詳細を聞き出すことをしなかった菅原は事の次第を知らない。和解できたという報告とその礼はゆづる本人から受けていたが、あの痛々しい泣き顔を二度も目にした身としては、実際この目で現状を知れたというのは僥倖だった。

なんにせよめでたいことに変わりはない。良かった良かった。ほのぼの微笑み頷いて、なあ清水と相槌を求めたまでは良かった。否、むしろそれが悪かったのかもしれない。
菅原は笑顔のまま動きを止めた。見下ろした美人マネはぴくりとも表情筋を動かさず友人とその恋人の姿を見詰めていた。それからスッと手元の買い物メモに目を落とす。幸か不幸か、入用の品々はほぼすべてカゴに収まった後である。潔子は時計を見やり、それから菅原を仰ぎ見た。

「菅原、まだ時間あるよね」

ここでノーと言えるヤツは多分ウチには誰もいないな。
コンマ数秒で決断を下し、菅原は白旗を上げる思いで応じた。

「まあ、ちょっとならな?」
「じゃあそのちょっとで付き合って」

怜悧で理知的な瞳がすいっと細められ、油断のない鋭さを帯びる。菅原は菩薩顔で微笑んだ。ヤダもうこの子本気じゃん。
レジへ向かうマネージャーを見送り、菅原はケータイを取り出した。そうして今頃フードコートにて二人の帰還を待つ仲間たちに連絡を入れる。ちょっと遅くなるかも、先に勉強始めてて。ほどなくして何かあったのかと浮かんだ吹き出しに、彼はしばし指を止め、そして簡潔に応じた。

『女の友情ってやつ?』

一様にクエスチョンを飛ばしてきた二人分の返信には応じず、菅原はスマホをポケットに押し込んだ。




「あ、待ってこれも捨てがたい…レースにパールはずるい…!」
「さっきのとかなり系統違うんだな」
「ぶっちゃけ何つけても似合うと思うんだ」
「すげぇ深刻な真顔で言うね」
「あああ無理だセンスが来い…!」

言いながら項垂れる友人の横で、見上げるような長身を折り曲げていた青年、潔子もその名を知る松川一静は、軽く声を立てて笑う。その様子を数メートル離れた死角にて、ピアスを眺めるふりをして伺っていた潔子は、何も言わずに目を細めた。


自分達と同じく買い出しだったのだろう、スポーツショップを出た後、二人が向かったのは本屋だった。用事があったのは松川の方らしい。目的は決まっていたのか、参考書を二冊ほど買うと早々に店を出た。

しかし買い物は続行らしく進んでゆく二人を追えば、行き着いた先は最近オープンしたというアクセサリーショップ。漏れ聞いた会話からするに、どうやらゆづるが誰かにプレゼントを選びたいのだという。彼女連れとは言え男性客が入るには躊躇われるであろう店のチョイスに、潔子が目を光らせたのは言うまでもない。

しかし潔子の予想に反し、そしてゆづる自身の遠慮にも拘わらず、松川はすんなり店へ足を踏み入れた。選別に真剣なゆづるが他の客の接近に気付いていなければ、そっと通路を空けてゆづるの肩を引き寄せる気遣いもある。昔から買い物には優柔不断なゆづるが、商品を手に取っては戻しを繰り返し20分程が経つ今も、苛立ちどころか飽いた素振りすら見せる様子はない。

それどころか悩むゆづるに対し、「じゃあこれは?」なんて提案までし始める始末だ。しかもその趣味が普通に良い。どこの少女漫画のヒーローだ。
無言ながらも不服を隠さず唇を尖らせる潔子に、こちらも松川同様さしたる躊躇なく入店した菅原は(ただし松川以上にすんなりと店に馴染んだあたりが圧巻の菅原クオリティ)は、苦笑交じりに潔子に告げた。

「そろそろ十分じゃないの?」
「…断言できない。前科があるもの」
「二度も騙す理由がないって。それに、そんなことする人にも見えんべ?」

お前もそう思ってるくせに。そう言いたげな眼差しで宥めにかかる菅原に、潔子は唇を引き結んだ。少なからず図星である。あの声もあの眼差しも、相手を本当に好いていなければつくれない。それは時として客観視できる第三者の方が、当事者以上に察せられるものだ。

別に粗探しをしたいわけじゃない。わけではないが、仮にも相手は己の友人を、それも人前では滅多に泣かない親友を、二度きりと言わずに泣かせた男なのだ。
にもかかわらず復縁に至ったというのだから、潔子にとっては待ったナシの「曰く付き物件」。例えその経緯を十分聞かされた身であれど、手放しに親友を任せられるほど楽観的にはなれない。
そこでこうもあっさり及第点を超えてくる彼氏ぶりを見せつけられるのだ。複雑な気持ちがするどころかいっそのこと腹の立つ思いである。

そんな複雑な潔子の心境どころかその存在すら露知らず、当のゆづるはついに最終選考に入ったらしい。手元のシュシュやらに目を落とし、じっと考え込んでいる。こうなると後は数分で決断を下すはず、と潔子が様子を伺っていれば、案の定ゆづるは顔を上げた。

「うん、これにする」
「いいと思うよ」

頷く松川の眼差しは傍目から見ても柔らかい。照れたように笑んだゆづるは、足取り軽くレジまで進む。

しかし会計を済ませたそのタイミングで、ゆづるがふとブレザーのポケットに手を突っ込んだ。どうやら着信らしい。やや焦った様子で松川を見上げるゆづるに、彼はすぐその手を取ると、混雑する店の細い通路を先立って歩き始めた。道を開ける歩調も彼女に合わせつつ、あれよと言う間に戸口まで連れ出す。「何だアレ、ただのイケメンか…」と慄く菅原に同意せざるを得ないそのスマートさがまた憎い。

一言断りを入れたと見えるゆづるが着信に応じるのを確認し、くるり、松川が踵を返す。そのまま店先で通話が終わるまで待つのだろう―――そんな菅原と潔子の予想に、しかし松川はなぜかその女性客で溢れる店に再び足を踏み入れた。

「…なんだろう」
「忘れ物とか…?」

しかし彼が背負うのはエナメル一つ、落とすものを出した様子もなかったはず。
その背丈も手伝い注目を集める中、連れの彼女が隣にいない今はさすがに居づらい思いもするのだろう。やや気まずげに肩を縮めて進んでいった彼は、先ほどゆづると並んで見ていた棚の前で漸く足を止めた。

繊細なアクセサリーには不釣合いな骨ばった武骨な指が伸びる。手に取られたのは棚の中ほど、色とりどりに並ぶイヤリングの一つ。立ち位置をほぼ変えていない潔子にはすぐわかった。あれはゆづるが最終選考寸前に、ふと手に取って見詰めていた一品だ。

チャームはやや大ぶりのバラに似た花か。しかしバラと言うほど派手でなく、ブルーを基調とした色合いには落ち着いた印象がうかがえる。ゆづるが好きそうなデザインだ。

不用意に壊さないためだろう、やや覚束ない手つきでそっと手のひらに乗せたそれを、しかし迷いなく歩を進めた彼はレジ前で差し出した。手早く会計を済ませた彼はきっと店先に戻ろうとしたのだろう。
しかし踵を返して直後、彼はその一本奥の通路にて自分を見つめる二対の瞳に気付いてしまった。

「…え、」

ぱちくり。眠たげな瞳が驚きで見開かれる。視線の先にはいつぞやの泣きぼくろの青年と、見覚えのない黒髪の女子生徒が一人立っている。ジャージではない学ラン姿はしかし、既視感を誘うには十分の同じ黒。何よりあの修羅場に居合わせたイレギュラーを松川が見紛うわけがない。

華やかなアクセサリーのきらめきが致命的に場違いな二度目の邂逅。一瞬流れる行き場のない沈黙。
動いたのはやはり潔子だった。

「それ、ゆづるにあげるの」

唐突かつ思わぬ問いに松川は面食らう。菅原はむしろぎょっとして斜め少し下の彼女を見下ろした。直球か。いやド直球だけどなんか方向違うくない?ストレート投げてるだけで割と暴投じゃない?

菅原はこわばる表情筋を無理やり半笑いに仕立てる。しかし案ずることはない、そこは青城次期レギュラー候補内随一の落ち着き(ただし当社比もとい青城比)を持つ松川一静である。
横に立つ菅原の姿と告げられた恋人の名、加えてその恋人からしばしば聞かされていた親友の特徴を照らし合わせればピンときた。むしろまさにその親友のためにゆづるはこの店でああでもないこうでもないと頭を悩ませていたのである。

なるほど、これは何を買うか迷うのも納得だな。
じんわりと密度を増す緊張感の片隅で、松川は頭を抱えていた恋人の心中を思いやった。曰く「宮城一の美人だと思ってる」とゆづるが豪語したのも納得がゆく容姿。しかもこれも聞いていた通り、凛然とした佇まいに隙は無い。

手の中の包みを指しての問いであろうに、潔子の眼は松川自身を捉えたまま揺るがない。しっかりと息を吸い、揺れないように定めた声で彼は応じる。

「うん、そう」
「あの子のどこが好きなの」

追及の手は止まない。それも間髪入れずの第二刃である。淡々としつつも逃げを許さぬ声音に、今度こそ松川は十分な間を取った。
中途半端な答えを出したくないのもある。だが一番には一言では説明し得ないという理由からだ。しかしその間を悪い意味での躊躇と取られては分が悪い。
未だまとまりきらないうちに、言葉を継いで合わせるように、一番形にしたい想いだけをゆっくり紡いで音にする。

「…いろいろあるけど、一番は多分。人に対して、出来るぜんぶで真っ直ぐなところかな」

潔子は思わず息を止めた。それは彼女が知る城崎ゆづるを、最も短く的確に表す一文のひとつに違いなかった。

「まあ、本人にそういう意識はあんまりないみたいだけど」

それがなかったら、"今"はなかったと思う。


淡々とした応答に落ちる自嘲の影。陰りを帯びた彼の視線が斜めに落ちるのを見送って、潔子は思わず口を噤んだ。

ゆづるのあの真っ直ぐさがなければ、自分はもう一度あの子に振り向いてなんてもらえなかった。松川が言いたいことは恐らくそういうことで、それは潔子の認識と遠からぬところにあった。

彼らの今があるのは偶然でも成り行きでも、ましてや彼の努力だけによる賜物でもない。人に対するあの子の姿勢が、あの子を松川に向き合わせたのだ。

潔子はそう思っていた。しかし松川もまたそれを、他人に告げられるまでもなく、骨身に染みるほど自認している。
それがわかってしまっては、準備した言葉は出せなかった。


「清水、あれ」

不意に菅原が潔子の肩を叩く。促されるまま視線を投げた店の外で、電話を終えたのだろう、戻ってきたゆづるがきょろきょろと辺りを見回していた。同じくその姿を捉えた松川の体が店先の方へ傾く。

咄嗟に口を開いたのは多分、一方的に敵視していたことへの罪悪感とか、それを素直に認めたくはない意地とか、そういうものを一緒くたにした説明のつかない感情からだった。

「次にゆづるを泣かせたら、…」
「、」

松川が踏み出した足を止める。彼が視線を戻した先、勢いだけで口を開いた潔子は続く言葉に一瞬詰まった。出てきた続きは自分でも呆れるような、ほとんど負け惜しみのような子供じみた脅しだった。

「…菅原を、紹介する」
「ヤメロ清水、俺で修羅場を巻き起こす気か」

足に加えて表情まで凍り付いた松川を前に、マッハの速度で菅原はツッコんだ。なんのフラグを建設する気だ。未だ記憶に新しいあの校門前での修羅場に当事者として巻き込まれるなど、想像するだけでぞっとする。

「…あー…」

しかし聞こえたのは意外というべきか、きまりも歯切れも悪い声。恐る恐る伺い見た菅原と、ぱちん、松川の視線がかみ合う。困ったような笑みを浮かべた松川は、苦笑交じりに呟いた。

「…それは、割りと本気で困るかも」

潔子は息を止め、菅原は眼を瞬かせた。
その瞬間、彼が菅原を脅威と感じる程高く買っていることに垣間見えたのは、謙虚と呼ぶには余る、負い目と呼ぶにふさわしい仄暗さだった。

潔子はぎゅっと唇を噛み締めた。ゆづるの顔を、声を思い出す。噛み締めた唇の痛みにでも尋ねたい。

一度は叩き付けるようにして粉々に砕かれた関係が、継ぎ接ぎの跡も消えるほどに戻るまで果たしてどれくらいかかるのだろう。

「馬鹿にしないで」

気付けば口を開いていた。内心どう松川を糾弾してやろうかと、さっきまで思い巡らしていた自分の理解と認識がいかに浅かったかを痛感する。しかしそれを反省する余裕もなく、先程の子供じみた脅し文句の告げ主が他でもない自分であることもまとめて棚に上げ、ただ湧き上がる衝動に任せて潔子は話し出していた。

「ゆづるがそんなことで揺らぐわけがない。見くびらないで。あの子がどれだけ、あなたに対して真剣だと思ってるの」


まだ上手に話せないこともある。上手く距離が取れないのも事実だ。
そう認めたゆづるは苦しげで、けれどそれに負けないほど深く彼の事を慈しんでいた。思い悩みが尽きなくとも、しっかりと前を見据えて進んで行こうという意志があった。

関係に結び目があるとするならきっと、ふたりのそれは酷く不恰好で、蝶々結びには程遠い有様なのだろう。

それでも彼らは向かい合い、その端と端を少しずつ手繰り寄せてきた。
千切れないよう言葉で繋いで、ほつれないよう温度で紡いで、いびつに拗れた絡まりを、ふたり手探りで解いてきた。

きっとすべてのわだかまりが溶けて消えるまでこれからも続いてゆく、それはなんて骨の折れる作業で、なんて心の擦り減ることだろう。それでもゆづるはそれを望んだ。彼もまたそうであるはずだ。それは互いが互いに抱く想い、その繋がりを失いたくないという願いゆえ。

「舐めないで。ゆづるはあなたが思ってるよりずっと、あなたのことを想ってる」







店先から現れた彼に肩を叩かれた少女は、耳に当てたスマホを持つ手ごと肩を揺らして振り向いた。手の主を見上げた彼女は安堵したように破顔するも、すぐに怪訝そうに何かを言う。なぜ店にいたのか、聞いた内容はきっとそんなことだろう。

くせっ毛の青年が答えたかどうかはわからない。しかし彼はポケットから小さな包みを取り出し、それを開封して中身を取り出した。そのまま30センチも下にあるつややかな横髪に指を通し、彼女の耳を露わにする。突如、それも耳に触れられ咄嗟に強張る彼女の薄い肩をよそに、松川は慣れない手つきで、その繊細な青い花を彼女の耳元に宛がった。

顔の横で動く手と耳たぶを優しくつまむ指に、当然じわじわ紅潮したゆづるはしかし、残された違和感を追って耳元へ手を伸ばす。一瞬の間の後触れたガラスの正体を悟り、彼女ははっとして彼を見上げた。その最中にももう片耳へ同じように花を咲かせた青年は、耳裏にかけた彼女の髪を両側ともそっと元の位置へ戻す。

細い髪が隠す控えめな煌めきが青く散る。その傍、耳元の長い指に囲われたまま、ぶわり、薄紅に染まる頬。
行き場なく彷徨っていた彼女のふたつの手が、ゆっくり離された彼の大きな両手を引き留める。俯いた黒髪から覗く紅い頬は、束の間逡巡し、けれど染まった色をそのままに、物言わぬ青年に向き直った。ふわり、溶けるように綻ぶ笑みで、彼女は彼を見上げて言う。

「『ありがとう』、…って」

彼女の唇が象ったひらがなを菅原が音にして潔子に告げる。潔子は黙ってうなずいた。死角になる立ち位置にいる彼女には、背丈のある松川の姿しか見えない。
けれどゆづるがそれを一音一音酷く丁寧に紡いだであろうことは、長らく彼女の親友を務めていれば、あるいはそれを告げられた松川の顔を見れば、潔子には容易に想像できることだった。


160916
プレゼントは後日無事潔子さんの手に届けられました。
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