やらかした。鞄を覗きこんで数秒、私は一人ため息を吐いて頭を抱えた。入れたと思っていた数学の教科書を忘れてしまった。

ノートはあるから当てられるとしても問題はない。だが今日は確か新しい単元に進むと聞いた。隣の席はほとんど関わりのない男子だし、教科書を見せてほしいと頼むのは少し気が引ける。
休み時間は残り五分と少し。仕方あるまい、他クラスの友人に借り行こう。

「ゆづるどした?」
「数学の教科書忘れた。借りてくんね」
「あー災難ね。ノートは?」
「ヘーキ」

友人に手を振り廊下に出る。さあどうしようか、他クラスで一番仲の良い友人は理系だ。もしかすると教科書レベルで範囲が違う可能性がある。けれど一番頼れるのは彼女だし、何より残された時間はそれほどない。

廊下を小走りに駆け、友人のいるクラスへ赴く。同じ学年とはいえ、やはりほかのクラスに入るのはちょっと勇気がいる。息を整え扉に手をかけたその瞬間、力を込める手より早く戸が開いた。

「!?」

視界いっぱいに飛び込んできたベージュのセーターに心臓が飛び上がった。辛うじての急ブレーキ、たたらを踏んで見上げた先には、はるか上から見下ろす大人びた双眸。普段眠たげな瞳は驚きに小さく見開かれていて、私もまた目を丸くする。宙返りしそうな心臓が目の前の人の名前を告げた。

「ま、つかわ」
「びっ、くりしたー…どしたん?」
「ごめん、勢いが…友達に教科書借りに来て」

額が軽い。前髪が乱れてるからだ。慌てて撫でつける髪と手のひらの下で目が泳ぐ。松川の体の影から友人の姿を探すも、彼女の席に彼女の姿はなかった。どうやら席を外しているらしい。

「友達ってどの子?」
「、マコ…宮原マコ」
「宮原サン…」

くるり、背後を振り返る松川も友人の姿を見つけられなかったようだ。今いないみたい、と返され、私もみたいだねと頷く。仕方がない、別のクラスの友人に頼んでみよう。そう思ったその時、ちらりと時計を目にした松川が不意に言った。

「何の教科書?」
「、数学だけど…」
「数U?B?」
「今はB」
「ん、待ってて」

流れるように会話に乗せられものの数秒、松川はわずかな歩数で窓際の机へ向かい、引き出しから取り出した教科書を手にこちらに戻ってきた。まさかと思う間もなく差し出された教科書に目を丸くする。
なんとスマートな一連の造作。なるほどこうやって乙女心はきゅんとさせられるわけか…新たな発見をしてしまった。ついでに自分にも幾ばくかはそんな乙女心が内蔵されていることも今知ったわけだけれども。女子とはまこと単純に違いない。

「…いいの?」
「まあ、もうチャイム鳴るし」
「ごめん、じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうよ」

なんだか貸させてしまったみたいで申し訳ない。いや減るものじゃないけどそれでもだ。
有難いはずなのに感じてしまう一抹の気まずさの理由は多分、遠慮とか微妙な距離感とかそういうものだと思う。私にとって松川という人はついこの間まで普通に「感じの良い男の子」だった。けれど彼にとっての私は「好きな人」であるらしく、故に今の関係があるわけで。
私の中では多分、その意識の差の埋め方がわかっていない。

「昼も部活?」
「いや、部活はないけど…大抵チームメイトと飯食ってるかな」
「そっか、なら掃除の時間に返しに行く」

頷き言えば、彼は二、三度瞬きして、それから追いかけるようにわかったと頷いた。そのなんとも言えない応答が気にかかって、それで間に合う?と重ねて尋ねれば、今日は数学終わったから大丈夫、と落ち着いたトーンで返答が返ってくる。
心なし口元を持ち上げた淡い笑みと共に返された返事に、ならば大丈夫なのだろうと頷いた直後、私は廊下に鳴り響いたチャイムに背中を押され自分の教室へと駆け戻った。

160601
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