「あ」

はた、と足が止まる。駅前で出くわした思わぬ人物に、私は咄嗟に反応できず立ち尽くしてしまった。それは彼、松川も同じようで、驚いた顔で私を見ているのが分かる。距離はおよそ十数メートル。走ったら多分数秒足らず。会釈だけで済ます距離だと言われればそうかもしれない。でもこの前。

「…、」

思い出すと居ても立っても居られず、私は思わず視線を投げそうになるのを、ぺこりと会釈することで誤魔化すことに成功した。つい数日前彼は私に告白したわけで、私はそれに頷いたわけで、しかし約束をすっかり忘れていた友人から連絡を受け、慌ててその場ですぐに別れたわけなのだが、結論として私と松川は今恋人というか、彼氏彼女というか、世間一般で言えばそういう間柄であって。
でもだから馴れ馴れしく彼女面出来るかと聞かれれば私には無理な話だ。そういうピンクな女子には生憎、生まれてこの方一瞬たりともなったことはないのである。

そのまま平気なふりをして横断歩道へ向かう。今更整えたって仕方がない髪にそれでも改めて手櫛を入れて、特に化粧をしているわけでもないけれど、柄にもなくリップクリームを塗り直した。
どうせ学校への道に入る頃には生徒がいっぱいで松川の目に入ることはないだろうけれど、身なりはちゃんとしておいて損はない。信号待ちの間こっそり鏡をのぞき、その柄にもない自分に気恥ずかしい思いをする。彼氏ができるとこうも女子は変貌するのか。恋愛とは大変だ。

「っ、城崎」
「!」

信号を渡りきって右へと爪先を向けたそこで、追いかけてきた声に思わず肩が跳ねた。振り向いたそこには見上げるような長身の彼の姿。呆気にとられる私を見下ろし、どこか戸惑いを隠せないような顔をした彼が、一瞬視線を泳がせて唇を引き結ぶ。どうかしたの、聞こうと思ったその時、松川が慎重な様子で言った。

「…一緒に登校…とかどうかな」
「え」
「いや、嫌なら全然いいんだけど、」
「いや、全然、…そんなことは」

想定外のお誘いに目が丸くなる。慌てて首を振ったはいいが心の準備は一切できていない。一緒に登校ってそんなイベント、…いやあるのか。恋人同士ならそれもあるのか。常識がついてこない。

「ただ私、多分歩くの遅いんだけど…それでよければ」
「、それは全然ヘイキだから」

じゃあ、行こうか。
ゆっくり踏み出す足の歩幅がいつもどれくらいだったかわからない。会話らしい会話も思いつかず、周りを行く制服姿の青城生たち全員がこちらを見ているような錯覚に陥りそうになる。
けれどわざわざ追いかけてきてくれた彼の気遣いが嬉しいのと予想だにしなかったことで、どうにもしがたい気まずさが宙ぶらりんになっている。前髪変じゃないだろうか。整えたはずのそれが気になって、思わずおでこを撫でつける。

「…城崎は、いつもこの時間?」
「大体は…あ、けど今日は駅の本屋に寄っただけで」
「ああ、じゃあ普段は歩きとか」
「うん、そう。…松川は、朝練とかじゃないの?」
「今日はたまたまオフになって」
「そっか」

横髪を耳にかけて、やっぱり変かと思ってまた戻す。ちら、と降ってきた視線に背筋が泡立って、平気なふりをしてアスファルトの地面に視線を投げた。ああどうしよう、今自分が恐ろしく落ち着きがないことは十分わかってるのにどうにもならない。
ぶおん、前方で鳴るエンジン音。ふと顔をあげれば、道の向こう側からバスが近づいてきていた。

「、ちょっとごめん」
「!」

くんっと引かれる腕、大きな背中が視界を横切る。柔らかく掴まれた腕は軽々と私の体を左に寄せ、さっきまで左側にいたはずの松川が私の右側にいる。すれ違うバスと彼との距離はわずかに人一人程度、こちらに身を寄せた彼と私の距離は多分、腕一本分を切るか切らないか。

「っ…、」

バスが走り去り、彼がゆっくり離れてゆく。人一人分。戻ったのは距離だけで、鼓動の速度はちっとも戻ってくれない。

「ごめん、気ィ利かなくて」
「いや、…ありがとう」

ちょっと素っ気なく聞こえる低い声が耳をくすぐるように馴染む。前から思ってはいたが、私は松川の落ち着いた声が結構好きだ。

校門が見えたとき、松川が一瞬歩みを鈍らせたように見えた。今日ようやくまともに見上げた彼の視線を追った先には、並んだ背の高いブレザーの後ろ姿。遠目なので自信はないが、一番左側の短い黒髪の男の子には見覚えがあった。去年クラスメートだった岩泉だ。

ならばその隣に並ぶ二人もバレー部の仲間だろうか。そこまで連想して、私ははたと気づいた。もしかすると私同様、彼もこういうところを友人たちに見られるのは気まずいタイプなのかもしれない。
私自身今の落ち着かない心臓で友達に出くわそうものなら、今度こそどんな奇行に走るかわからない。気づかれないよう周りを見渡せば、運よく友人が少し先を歩いているのが見えた。

「松川、あのさ」
「うん?」
「ここまでで大丈夫。友達と合流する約束があって」
「、そっか」

ちょっと驚いた顔が、どこかほっとしたような表情に変わったのは気のせいだろうか。随分と気を遣わせてしまったみたいだ。それが少し心を突ついたけれど、悟られないよう手を振る。

「一緒に行ってくれてありがとう」

譲ってもらった歩道側から離れて、私は友人の元へ駆ける。おはよう、と声をかければ返ってくるいつも通りの反応にやっと一息つくことが出来て、気の抜けた笑みがこぼれた。恋愛というものはかくも大変らしい。


不意に視線を感じて目を向けた先、さきほど背中を眺めていたバレー部と目が合う。ぱきん、なぜかフリーズされて思わず肩が揺れた。かろうじて会釈すると、どこかとってつけたような会釈を返され、複数の大きな背中がそそくさと校門をくぐってゆく。

「…私そんな前髪変?」
「別にいつもと変わんないよ?」

なんだろう、そりゃまあ学年でとびきり可愛いとかそんな付加価値が一切ないのは仕方ないとしても、松川趣味悪ィなとか思われてたらへこむ。幸い「可愛いはつくれる」だそうなので、ここは製造計画を立てた方がいいのかもしれない。

160529
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