練習は思いのほか長引いた。試合が近いとかで、スタメンらしき選手の多くが自主練に勤しんでいたためだ。
ギャラリーに詰め掛けていた女の子たちも一人また一人と去ってゆく。友人は最後まで私に付き合うと言ってくれたが、彼女のご両親が門限に厳しいことを知っているため、先に帰した。そこからさらに二十分、ボールの音がしなくなって体育館をそっと見下ろせば、片づけを開始する部員たちの姿が見えた。

時刻は七時半。結局ずるずる待ってしまった。しかしあの過酷な練習の後に自主練二時間とは大した話である。ちなみに私は途中から宿題を片づけていた。用事の無い日は図書館に籠もったり教室に残ったりして自習している身からすれば、七時半程度なら誤差の範囲内だ。

とは言えいつもより遅いのは間違いない。これを松川に渡したらすぐ帰ろう。決めて、私は彼がちょうど体育館外へ出てゆくのを見計らい、急いで階段を下りた。この前の朝の様子から彼はきっと、他のチームメイトのいるところであれこれ接触するのは本意でないだろうからだ。

シャワー室に向かっているのだろう、タオル片手に部室棟へ歩を進める松川の歩幅は私のものよりずっと大きい。殆ど駆け足で近づき、急いで呼び止めた。

「松川」
「、え」
「ごめん、いきなり。これよかったら」

振り向いた松川は私の姿に大きく目を見開いた。その反応も最もだと思う、なんせこの時間まで残っている生徒は運動部でも少ない。手短に済ませた方がいいだろうと前置きもそこそこに突き出した紙袋に、三色のボールを鮮やかに操っていた手は伸びない。

「…城崎?何でここに…」
「これ渡しに…えーと、ブラウニー。気まぐれで焼いただけなんだけど」

困惑の滲む声に、冷水をかけられたように冷静さが舞い戻ってきた。浮ついた思考が急速に萎んでゆく。気まずさを拭おうと出した言葉は誤魔化しようなくしどろもどろになった。
軽率だった。どこかで少女漫画的展開を想定、あるいは期待していた自分が猛烈に恥ずかしくなる。やはり思いとどまるべきだった。これを彼女面の押しつけがましさと言わずになんと呼ぶ。

「みんなに配って、…あー、お裾分けなんだけど…苦手だったら適当に処分して」

二言目には出そうになるごめんの三文字を再三呑み込み笑って言う。ここで変に謝ったら余計面倒なヤツだ。もうずいぶん暗いから、きっと無理やりの笑みでも誤魔化せる。だってこれ以上まともな言い訳を思いつかない。
突き出していた手が下がる。けれどその瞬間、かさり、紙袋越しに他人の力を感じた。指先が軽くなる。

「…これ渡すために、今まで待ってたの?」
「…まあ」
「体育館で見学して…とか」
「……」

松川の声と言葉には慎重さが伺えた。それに応じて言葉数を削った私は、ついに頷くだけで応じた。どれくらい黙っていたかわからない。ただ、名前を呼ばれて顔を上げる。松川は笑っていた。私と同じで、少し緊張気味の笑みに見えた。

「ありがと。帰って食う」
「…好き嫌いとかは」
「、や、特には」
「アレルギーとか、」
「えっないない」
「…なんか、ごめん」
「え、謝んないで、…ちゃんと嬉しいよ」

降ってきた声にようやく色が見えた気がして、その瞬間どっと肩から力が抜けた。ちょっと可笑しそうな、その次には落ち着いた控えめな声音。あからさまにほっとしたのを隠せなかったが、何にせよ気分を害することがなかったことだけで十分だと心底安堵する。そうやって胸を撫で下ろしていれば、松川が不意に言った。

「あのさ、もしかして帰り一人?」
「、うん」

松川は何かを言いあぐねているようだった。私は何となくその先の言葉を察せたような気がして、すぐに断りの文句を準備した。松川は多分すごく良い人だから、きっと私でなくともそう言う可能性は十分あると思った。そうであれば嬉しいなあとも。そして私の推測は的中した。

「遅いし来る。ちょっと待ってて、着替えてくるから」
「いいよ、すぐだから大丈夫」
「けど」
「平気。他の部員さんもいるでしょ?」
「、!」
「引きとめてごめん。部活、御疲れ様。また明日」

長居すると彼の仲間たちが来てしまうかもしれない。そんな意図で発した言葉に一瞬松川の瞳が揺れたのを見て確信する。やはり彼はそういうのを好まないのだろう。ここは押し切ってでも帰ろうと考えていたのは正しかったようだ。
一息に挨拶を詰め込んで踵を返し、足早に校門へ向かおうと急ぐ。けれど体育館から離れ校舎を横切ろうとした瞬間、後ろから聞こえてきた駆け足と呼び声が私の足を止めた。

「城崎!」
「!…松川?どうかした?」
「あー、…その」
「…?」

言葉を濁される。陽が落ちて久しい校舎の影の中でも、松川の顔に躊躇が浮かんでいるのがわかった。その手にはさっきの紙袋がある。
やっぱりブラウニー要らないだろうか。突っ返されることも覚悟してとりあえず黙って待っていれば、しかし迷いを振り切った彼が取り出したのはスマートフォン。

「…連絡先。聞いていい?」

眩しい液晶に浮かぶラインの画面、伝染する緊張が唇を縫いつける。付き合って暫く、そういえば彼のラインもメールアドレスも知らなかったことに軽く愕然とした。なんだって自分はこんなに無頓着なんだろう。仮にも自分に好きだと言ってくれた人に対する興味の欠如を示すようで、穴があったら入りたい。
けれど一番申し訳ないのは、彼がわざわざ追いかけてまでそれを聞いてくれたことを、申し訳ないと思う以上に喜んでいる自分の煩悩である。

「ごめん、全然気づかなかった。もちろん」
「…いや、俺も」

松川が首裏を掻きながら否定する。画面に追加された松川一静の文字に、なんとも言えないむずがゆさが湧いた。

160607
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