一瞬何を言われたかわからなかった。
「えっ? 潜入捜査先にわざわざ来るって一体何のつもり? 嫌がらせ?」
「俺も何言ってんだって思ったけど。松平のとっつぁんが、『黒服、嬢、客、すべての視点から見てこい』ってさ」
 ザキの声は落ちついていた。先に知っていたからというより、もうどうでもよくなってきているような気もする。
「なら自分で来ればいいのに……」
「すまいるを裏切れないんだって。局長も同じく。で、副長に白羽の矢が立ったみたい」
「それはそれで不自然すぎない?」
 かぶき町でのトシは硬派で通っている。といっても単にとっつぁんや近藤さんとの対比で勝手に株が上がっているだけのことなのだけれど、少なくともキャバ遊びをするタイプではないと認識されているはずだ。いくら今話題とはいえ突然ポセイドンにやってくるのは不自然極まりなく、それこそ捜査の感がある。
「そこは一応、原田や二木に強引に連れられてっていう体で来るみたいだよ」
 私が以前吉原に連れていってもらったあのコンビだ。
「まずは凛子ちゃんを副長たちの卓につけて、原田と二木には別の子に絡んでもらって、その隙に副長は凛子ちゃんと話してもらうっていう手筈」
「トシのこと強引に連れてきといて、ひとりにするんだ」
「うん、まあ、そうだね」
 指名なしで来店した客は、二十分ごとにキャストが入れ替わって対応することになる。その最初を私にして、まず軽く報告を聞く流れ、ということだ。ガバガバすぎる。そもそもこの潜入捜査の始まりからしてそうなのでいまさらだ。ザキだって同じことを思っているからこんなに淡々としている。
「わかった。うまくやるよ」
「ありがと、頼りにしてる。じゃあ後でね」
 電話を切り、ザキも可哀想な役回りだなと同情して家を出た。
 三人がやってきたのは、私が出勤してしばらく、双葉さんの卓にヘルプでついているときだった。原田、二木に続きトシが入ってきた途端、わずかに店内が色めいて、私は思わず感心してしまった。すまいるに行けば黄色い声があがるというのはよく聞いていたけれど、目の当たりにしたのは初めてだ。
 私の卓の前を通り過ぎるとき、原田と二木がこちらを横目に見てにやりと笑う。みんなして緊張感がなさすぎる。
 すぐにザキが私をトシたちのところにまわしてくれ、原田が自然に私とトシ、残り三人の間に入る形で着席した。そしてすぐさま私たちに背を向けて大声で話しはじめるところを見るに、一応仕事のことは忘れていないらしい。
「初めまして、失礼します。お凛と申します」
 ぎらついた名刺を差し出すと、トシは眉をぴくりと動かしながら受け取った。それを懐にしまうのと入れ替わりに新しい煙草を出したので、すかさず私がライターをかざすと苦々しい顔をした。
「普段通りでいい。やりにくい」
 しっし、と手で払われる。
「でも」
「大丈夫だろ、誰も気にしてねえ」
 トシが親指で背後を指す。あちらは早速四人の空間ができあがっていて、原田の大きな笑い声が店内に響き渡っている。やっぱり仕事のことは忘れているのかもしれない。
 トシが私より先にメニューブックを手に取り、中も見ずこちらに渡してくる。
「どうせ経費で落ちるから好きなもん頼め」
「トシは?」
「黒霧。あるよな?」
「うん」
 通りかかった黒服に注文を済ませ、早速だが、とトシが前傾姿勢になったとほぼ同時。背後からわっと高い声があがった。原田と二木が次々にドンペリ、クリスタル、アルマンドと高級シャンパンを頼みはじめたらしかった。トシは視線だけを背後に送り、小さくため息をつく。
「あいつら……あんまり目立つなっつったのに」
「とりあえずビールくらいのノリでいってるね」
 とはいえ、ちゃんとキャストのドリンクも頼んでいるあたり遊び慣れているのだなと感心してしまう。シャンパンは本指名されたときでないとキャストの儲けにはならないので、フリー客についたキャストとしては単品のドリンクを頼んでもらう方がありがたいのだ。
 まあいい、とトシがまたこちらに視線を戻す。
「でもお前に報告聞くつってもな。大した進捗はねえんだろ?」
「うん……まだ何も」
 トシが長く大きく吐いた煙が、小さな雲みたいにあたりに立ちこめた。
「つーか、一生何も出てこねえだろうな」
 トシの制止もきかず潜入捜査に臨んだ手前、私は黙るしかなかった。そうだと思っていてもトシの前で言えるわけがない。
「まあ、だから今日来たわけなんだがな」
「え?」
「黒服と嬢を潜入させたうえ客まで送りこんでなお成果なしとなりゃ、とっつぁんも諦めざるを得ねえだろ」
 煙草の灰が、とん、と落とされるのを見つめたまま、トシの方を見ることができなかった。くだらない個人的な意地で潜入捜査を引き受けてしまった自分が、改めてひどく恥ずかしかった。
 トシは前傾したまま素早く目だけを動かして周囲を見渡した。
「だいたい山崎から聞いてた通りだな。特段変わったとこもねえ、おかしな空気も感じねえ。いたって普通の店だ。上位争いしてるって嬢は今日いるか?」
「うん。まっすぐ正面にいるボルドーのドレス来てる人、あれが一位のお市さん」
 トシが視線を移した先でお市さんはヘルプの女の子の手を握り、お客さんたちにも見せて盛りあがっている。
「二位は斜め後ろの方、端の席で黒のドレス来てる人。双葉さん」
 こちらはかなり長い付き合いらしい指名客とふたり、夫婦のような落ちついた空気で酒を飲んでいる。
 ふうん、とトシが店内を一周軽く観察したところで飲み物が運ばれてきた。
 乾杯、とグラスを合わせ、お互いひと口飲んでまたグラスを置いた。トシが煙草を消した灰皿を新しいものと交換する。新しい煙草に火がつき煙が吐き出された。
 隣の四人の、まるで大学生の男女グループのように盛りあがっている声が私たちの無言を貫いていく。トシは黙ったまま、いつもよりさらに早いペースで煙草を消化していく。
 前にもこんな空気になったことがあった、と思い出したのは、入隊してすぐのことだった。入隊からずっと不和だったトシに誘われて行った定食屋で、和解はしたもののまだ気まずくて、料理が来るまでずっと居心地がよくなかった。あのときは、トシが私に問答無用で土方スペシャルを食べさせておきながら、そのあとで好物を訊いてきたものだから思わず笑ってしまったんだっけ。
 それがきっかけで気安い関係になったのに、私ときたら。ちょっと笑われたくらいで拗ねて、まるで子どもだ。
 トシのことを不器用だ不器用だと思っていたけれど、自分も大概だ。
 今のうちにちゃんと謝ろう。仕事中だけれど、こんな風に黙って過ごすよりましだ。次いつ顔を合わせるかもわからない。
「あのさ」
「なあ」
 顔を上げると、同じタイミングでトシも口を開いた。お先にどうぞと言いかけ、引っこめる。トシが言おうとしているのは、きっと私と同じだ。今回は私が先に言わないといけない。
「先に言っていい?」
「ああ」
「あの、この間のことなんだけど」
 なんとなく、トシの目に小さな安堵が浮かんだように見えたのとほぼ同時だった。
「失礼します」
 黒服のひとりが私に耳打ちをした。
「指名です」
「えっ?」
「ウダさんという先日ご来店された方です。こちらの卓ももうそろそろ時間なので移動してください」
 淡々と言い、私の立つのを待つ。不意を突かれた顔のトシに作り笑いを向ける。
「時間になっちゃったので失礼します。また来てくださいね」
「あ、ああ。じゃあな」
 嬢と客に戻り、動揺するトシを残して私は黒服の後についていった。

 ◇

 一瞬、何事かと思った。指名客がいるなどという報告は受けていないが、凛子も青天の霹靂という顔をしていたのでおそらく初めて指名が入ったのだろうと理解した。
 キャバ嬢が初指名を受けるまでの平均期間など知らないが、約一週間はかなり早いのではないか。よっぽど凛子が好みに合ったのか、凛子の接客が良かったのか。
――男と駆け引きとか絶対できねえだろ、お前にゃ無理だって
 自分が凛子に向けて放った言葉を思い出し苦い気持ちになる。勢いで言ったことではあるが、半分は本音だった。凛子には男社会でうまく立ちまわる術はあれども、色恋――またはそれに準ずるもの――の絡む駆け引きの才はないと感じていた。実際、先日の女の件がいい例だ。本人にだってその自覚はあるはずだが、しかし踏んではいけない地雷だったらしい。俺が少しずれたことを言おうものなら笑ったり呆れたりするくせに、逆は拗ねるのかと思わないでもないが、凛子と気まずいままはもうたくさんだった。だからさっさと和解しようとしたのに。
 一体どんな野郎だ、凛子を指名したのは。
 凛子の背を視線で追いかける。そこに座る男に見覚えがあるような気がして思わず目を凝らした。どこで見たのだったか。凛子の代わりにやってきた嬢の話しかけてくるのを適当に返しながら記憶を遡っているうち、気が付いた。そうだ、いつだったか吉原で接待した駐在の天人だ。一緒に来ているのはあのときとは別の男のようだが。
 どんだけ地球の風俗店が好きなんだ。呆れながら、しかしもしかして凛子のことがばれているのではないか、と一抹の不安が胸をよぎる。
 いや、でも、待て。潜入捜査が外部に漏れた可能性があるということは、それを潜入捜査打ち切りのカードにできるかもしれない。進展の見込みもないうえ潜入が漏れたとなれば、交渉の余地は大いにある。
 光明が見え気分の上がった俺は、その日時間いっぱいまでただ飲んだ。

 しかし翌晩、二木の一言で事態は一変した。
「俺ポセイドンにはまっちゃったかもしんねえ。今日もまた行こうかな。何かすげえ居心地よかったんだよなあ」