それから二日後、潜入捜査四日目の深夜。
「明日はお市さん、出勤だね」
「うん。ドリンク確認する」
お市さんがドリンクを作らなくていいと言ったことを、キャバ嬢のいろはを知らない私はそういうものかと思っていたけれど、ザキにしてみれば相当怪しいことらしかった。運悪くそれから二日間お市さんが休みだったので、ようやく明日お市さんのドリンク作りを観察する手筈になっている。
「これで何か掴めるといいんだけどねえ」
んん、と伸びをしたらしいザキが直後「あ」と何かを思い出した。
「そういえば。お市さんのホストの話だけど、一応調べてみたよ」
「え、早いね。さすが監察筆頭」
「いいよそういうの」
まんざらではなさそうな声色でザキは続けた。
「お市さんの担当はホストクラブ須佐之男のナンバーワン、ハジメ。お市さんはハジメの一番の太客で彼女でもあるらしい。いわゆる本カノエースってやつだね」
「ああ、よくあるやつね」
「そうそう。彼女にエースさせるような男の何がいいんだか。で、ハジメは色恋営業タイプのホストで、まだ大事には至ってないものの、ちょこちょこトラブル起こしてるみたい」
「いつか刺されそう」
「本当だよね。お市さんもよく耐えられるもんだ」
理解できんよ、とザキが呆れたような感心したような声で独り言のように呟いた。それがハジメに向けられたものなのかお市さんに向けられたものなのかはわからないけれど、私はお市さんのことはなんとなくわかる気がした。
きっと、気にも留まらないのだと思う。キャバ嬢としても、ハジメの客としても、ハジメの女としても一番だという余裕があるから。聞こえよがしな悪口を言う双葉さんのことも、ハジメの抱える他の女のことも、相手にする気にすらならないのだろう。
「ま、それとポセイドンの売上が伸びてることとは今のところ関わりはなさそうだけど」
さっさと終わりたいよねえ、とザキがあくびをしながら言い、通話を終えた。携帯を文机に置き、布団に寝転がる。
さっさと終わりたい。けれど、ポセイドン繁盛の原因を探れという指示に対し何をどこまで提示すれば松平さんが納得してくれるのか、よくわからない。たとえばポセイドンが客を魔法で操って来店させていたというようなわかりやすい原因があるならともかく、今回の件は要は人気商売の盛衰の話だ。よくてマーケティング分析のまねごとをするのが関の山、それを持って帰ったところで、私たちがどうにかできるものでもない。そもそも素人の私たちにできるくらいなら群雄割拠のかぶき町の店々がとっくにやっている。
じゃあ松平さんの本来の目的はというと、おそらく、阿音ちゃんに協力しているというポーズを示したいだけなのだ。そのついでに、真選組を自由に動かせる自身の力の誇示。
だからこそこの潜入捜査がどこで終わりになるのかわからない。松平さんの気が済んだときなのだろうけれど、それがいつになることやら。
相変わらず近い天井を見つめていると、ため息が漏れた。
でも、断るチャンスはあったのだ。トシが必死に作ろうとしてくれていたのを、意地を張って潰したのは自分自身だ。それでいて早く終わらせたいなんて芯がぶれぶれでよくない。
できる限りのことはやろう。自分の意思で引き受けた仕事だし、もし何か少しでも志村家の助けになるかもしれないのだし。
四時半に起きて家を出た。捻った足は翌日には治っていたけれど、念のため休んで三日ぶりに走る。
キャバ嬢の生活に少し慣れたのか、一日目よりも軽い足取りであっという間に工事中の道を通り過ぎ、そこからのすぐの公園に着いた。そこも通り過ぎながら、ベンチの横で蹲っている人を見つけて私は急いで旋回した。
「大丈夫ですか?」
初老の女性が右胸を押さえていた。左手に握ったリードの先でコーギーがただこちらをじっと見つめている。
「ええ、もうおさまってきたみたい。ありがとう」
女性がゆっくりと立ちあがりながら振り返り、顔を見た途端、ふたり「あ」と声が重なった。この間足の手当をしてくれた女性だった。
「あなたこの間の」
「その節はお世話になりました」
頭を下げたそのとき、女性の持っているリードがぐいっと引っ張られた。コーギーが散歩を待ちきれないみたいだ。
「ちょっと待って、獅子丸。もう少しだけ休ませて」
「あの、よかったら私が散歩させましょうか?」
「あら……いいの?」
「もちろんです」
「じゃあお言葉に甘えちゃおうかしら」
リードを受け取ると、ものすごい勢いでコーギーが走りだしたので驚いた。小さいのにこんなに力があるのか。公園から出ていかないようにだけ気を付け、コーギーに引っ張られるまま公園内をぐるぐると走ってまわった。
ベンチに戻ってリードを渡すと、コーギーはベンチのまわりの匂いを嗅ぎはじめた。
「ありがとう、助かったわ」
「犬飼われてたんですね。この間は気付きませんでした」
「ちょうどこの間はいなかったのよ。私がちょっと家を空けてて息子のところに預けてたから。あなたが帰った日に戻ってきたの。獅子丸っていうのよ」
「獅子丸」
「勇ましい名前でしょ」
ふふ、と女性が笑う。
「あなたも座ったら?」
女性が場所を少しずれたので、人ひとり分を空けて私も座った。
「足、もう大丈夫なのね。よかったわ」
「はい、おかげさまですっかり。また改めてお礼に伺おうと思ってたんです」
明日が潜入捜査後初めての休みなので、昼前に家を尋ねるつもりだった。
「あら、わざわざありがとう。今ので充分返してもらったわ」
「本当にありがとうございました。手当てがプロみたいで、おかげで夜にはほとんど治ってました。」
「ふふ。だって私看護師だったから」
「あ、どうりで」
獅子丸がトヨさんの足元に寝そべった。トヨさんがその背中を撫でる。
「私、竹永トヨっていうの。あなたは?」
「近藤トシ子です」
自己紹介をした。潜入捜査中はこの名前で暮らすことになっている。
「私、二十三歳になる孫がいるんだけど、トシ子さんと近いかしら」
「はい、ちょうど同い年です」
もちろん年齢もそういう設定だ。
「そう、同じなの。男女の差なのか自分の孫だからそう思うのか、トシ子さんに比べるとずいぶん幼い気がするわ」
そりゃあ、私は四歳サバ読んでますから。
「まあ、可愛いんだけどね」
トヨさんがあんまりにもやさしく微笑むものだから、私もついつられてしまった。
それから少しだけ休んで、トヨさんと別れた。
「毎朝この時間に散歩してるの。もしまた会ったらお話しましょう」
「はい。気を付けて」
私はしばらくトヨさんの背中を見送った。しっかりした足取りで獅子丸と角を曲がっていった。
その日出勤する直前、ザキから電話がかかってきた。
「ごめん! 凛子ちゃんに伝えるの忘れてた!」
「な、何事?」
「今日副長たちが様子見に店に来る!」