「・・・・かような場所では、風邪を引いてしまう・・・・・・
倫敦の裁きの庭とも言われる、
「・・・・・・・・《死神》・・・・・・・・」
少女は大きな紳士を見上げて、独り言のようにぽつりと呟く。
「・・・・どうして、あの男は無罪になったのですか」
「今日の審理は、陪審員や裁判官たちが被告人によって買収されていた。・・・・真実に背く、許されざる悪行だ。」
少女に声を掛けた紳士は、今日行われた裁判の検事である。黒い金縁のマントに身を包み、その顔は《死神》という呼び名がよく似合うほど青白い。
紳士の額に薄らと刻まれた傷跡を雨粒が流れ落ちていくと、頭の奥にズキリと痛みが走った。
「私は、ハッキリと見ました。私の父を、あの男が銃で撃つ瞬間を。・・・・・・・・なのに、どうして私が《混血》というだけで、証言の信憑性が無いと判断されてしまうのですか・・・・!」
濡れて頬に張り付いた髪の毛を払いもせず、少女は悔しげに何度も地面を拳で叩く。小指球の辺りが赤く腫れ、僅かに滲んだ血を見た紳士は、もう一度振り上げた少女の手を窘めるように掴んだ。
「・・・・あなたが《死神》だという話は、私も噂で聞いたことがあります」
「・・・・・・・・・・・・」
「ふ。ふふふ・・・・この際、もう何に縋ろうと関係はないのでしょう。・・・・金と名声に魂を売る悪魔に対抗するには、《死神》に魂を売る悪魔に成り下がる他、ありません」
少女の胸には、キラリと光る金細工のブローチが施してあった。雨に濡れた金のブローチは、暗い倫敦の街中でも怪しく光っている。
「
雨が降り止む様子は一向に無い。懇願する少女の声を聞いた紳士は、右胸にある憲章に思いを馳せるように手を当て、暫く口を閉ざした後、ようやくその重い口を開いた。
「・・・・・・《死神》、か。その名前で救われる者がいるのならば、それもまた・・・・」
産業革命を経て、世界有数の産業国家となったこの倫敦では、数多の“闇”が息を潜めている。最先端の司法制度と名高くも、犯罪が後を途絶えることは決してなく、寧ろ悪質な犯罪が横行することが極めて多かった。
「・・・・ポーロック家の子女よ。今の言葉で私の疑念は確信に変わったようだ。この街は、死神を必要としている。・・・・そなたの言葉、忘れないでおこう」
雨に濡れた《死神》と呼ばれた紳士は、何かを見据えるように遠くに視線を移すと、そのまま颯爽とどこかへ行ってしまった。
それから、ちょうど三週間後のことだった。少女の父親が殺害された裁判の被告人が変死体となって見つかり、あくまで噂でしかなかった《死神》の存在が、中央刑事裁判所の確固たる《死神》として倫敦に君臨したのだ。
これが、今から約9年前の出来事である。
9年前に父親を亡くした彼女―マヤ・ポーロックは倫敦の大学を卒業した後、予てから懇意にしていた法曹界の重鎮であるハート・ヴォルテックスの推薦もあって、検事であるバロック・バンジークスの助士を務めることになった。『倫敦の《死神》に魂を売った女がいる』・・・・当時、倫敦の粗悪なゴシップ誌はここぞとばかりに彼女のことについて、あることないこと書き立てたものである。
それから9年後の現在。
倫敦の中央で、その圧倒的な存在感を知らしめるように位置する高等法院。マヤ・ポーロックは、その高等法院の、首席判事の執務室に訪れていた。
「ミス・マヤ。報告ご苦労であった」
「・・・・滅相もございません。ハート・ヴォルテックス閣下」
ヴォルテックス卿への定期報告は彼女の仕事だ。とは言っても、現在彼女が報告することといえば、バンジークス卿が捌いた書類に関することのみだが。
5年前のとある事件をきっかけに、バンジークス卿は検事として法廷に姿を現すことはなくなっていた。《死神》と畏れられた男が5年も姿を消していては、流石の倫敦における社会情勢も少しずつ変わってくるもので、ヴォルテックス卿は少しずつ倫敦の空気が悪い方向に傾いていることを危惧していた。
「バロック・バンジークス卿は、この5年間検事席に立ってはおらぬ。だが、その《死神》という存在が倫敦にあるからこそ、近年の犯罪件数が激減していることは確かだ」
執務室の天窓の傍に見える大きな歯車は、いくつも重なり合い、歯を噛ませ、今日も一秒もズレることなく時を刻んでいる。その様子をちらと見た、この部屋の主であるヴォルテックス卿は、満足そうに頷いた。
「8年・・・・か。そなたがバロック・バンジークス卿の助士となってから、彼の活躍はさらに目覚ましいものとなった。私としては、一刻も早く法廷に戻ってきてほしいものだが」
バロック・バンジークス。その名前は現在、この大英帝国の倫敦において、誰もが知る名前となっている。
中央刑事裁判所の《死神》として恐れられる彼の担当する法廷では、無罪有罪に関わらず、被告人に必ず死が訪れるという。断じて根も葉もない噂ではなく、これまでに彼が担当してきた16件の事件では、例外なく被告人が全て死亡していた。
ヴォルテックス卿の前で頭を垂れるマヤは、そんなバロック・バンジークスの助士を務めているのだ。
「・・・・おそらく。バンジークス様は、きっかけを探しておられるのだと思います」
「《死神》が目覚めるきっかけ・・・・それを探す役目こそ、そなたの責務だと私は思うが」
「・・・・・・最もなご意見です」
「だが、今ならば。少し面白い話を聞かせてやれるかもしれぬ」
「面白い話・・・・ですか?」
ヴォルテックス卿は、懐中時計を取り出して時間を確認した後「5分で話を済ませよう」と指を鳴らす。大方、次の会議の時間が目前まで迫っているのだろう。
「今度、我が国に司法留学生が来ることとなった。その者は、倫敦での最先端の司法を学び、自国の司法の貢献に活かしたいそうだ」
「司法留学生、ですか。一体どこの、」
「大日本帝国・・・・・・そなたがかつて、地を踏み、血を分けた国だ」
「!」
マヤは驚いた。その反応を予想していたのか、ヴォルテックス卿はまたも満足そうに頷く。
「今や、倫敦には《死神》の立つ法廷を担当したがる弁護士は、誰一人としていない。この話は、そなたにも・・そして、バロック・バンジークス卿にも決して関係のない話ではあるまい」
「・・・・ですが、日本からきた司法留学生などに、バンジークス様が腰を上げるとは到底思えません」
「それは逆だ。日本からきた司法留学生だからこそ、バンジークス卿は必ずや法廷に復活するだろう」
「・・・・・・それはつまり、」
マヤが言いかけたところで、ヴォルテックス卿は「時間だ」と指を鳴らす。
「私も生憎忙しい。次の会議の時間に、既に5時間5分の遅刻をしている」
「(・・・・迫っているどころか、とうに会議は終わっているのでは?)
・・・・貴重なお時間を頂いてしまい、申し訳ありません。この事は、私からバンジークス様に必ずご報告させていただきます」
「司法の未来を担っているのは、政府の席にいつまでも居座る腑抜け共ではない。我らこそが、この倫敦の街を新たな司法国家として再建しなければならぬ。・・・・そのことを、くれぐれも忘れぬように」
「・・・・はい」
ヴォルテックス卿は背中を向けると、さっさとその場から立ち去ってしまう。マヤは下げていた視線を天窓の外に移し、小さく呟いた。
「・・・・・・ニッポン」
マヤには、かつて英国人である父と日本人である母親がいた。しかし、母親は彼女が幼い頃に亡くなっていたため、顔すらもほとんど覚えていないのが現状だった。
倫敦の曇天の下を真っ白な翼で飛び立っていく鳩たち。かつて、自分もあのようになりたいと幼馴染と共に夢見ていたことを、マヤはぼんやりと懐かしんでいた。