「バンジークス様。マヤです。ただいま戻りました」
「・・・・・・入れ」
中から低い声がして、マヤは大きな音を立てないよう、慎重に扉を開ける。検事局の執務室にしては薄暗く、厳かな部屋の中で、壁に描かれていた絵を見上げていたバンジークス卿は、マヤが部屋に入ってくると同時にさっと視線を元に戻した。
「・・・・ヴォルテックス卿への報告、ご苦労だった」
「いいえ。あの、バンジークス様」
「何だ」
「一つ、ヴォルテックス卿から預かった言伝があります」
マヤはヴォルテックス卿が話していた、日本からやってくる司法留学生のことをバンジークス卿に伝えた。
「・・・・・・日本人、だと?」
「・・・・・・・・・・」
そして、その話を聞くなり、バンジークス卿の目の色がさっと変わる。マヤは頭を下げながら、自身の右胸につけている金のブローチに手を当てる。それは、彼女が困った時についついしてしまう手癖のようなものだ。
「日本人ごときが、我が国の司法を学ぶなど・・・・。マヤよ、その司法留学生が来るのは一体いつだ」
「はい。つい先程船が出港しており、到着するのはおよそ二ヶ月後だと聞いています」
「くっくっく・・・・そうか」
「・・・・・・・・・・」
「今こそ、裁きの庭に戻る時かもしれぬ。なにせ、5年ぶりの法廷だ。日本人こそ、我が“いけにえ”にふさわしい・・・・か。・・・・マヤよ。事件が起きた時は真っ先に私に情報を回せと、《
「・・・・おおせのままに」
バンジークス卿の目には、憎悪の色がありありと見て取れる。法廷に立つことのなかったこの5年を打ち破るきっかけが、まさか彼の憎悪の対象である日本人だとは、何て皮肉な話だろうか。
《死神》は罪人を憎むが、その一方で日本人を強く憎む。それは、マヤが彼の下で長年働いてきたことで知り得た情報だった。
「そなたも、日本人に会うのは久方ぶりだろう」
「はい。実に、10年ぶりです」
「その目によく刻み、改めて理解しておくことだ。キサマがかつて踏んでいた大日本帝国の地が、いかに卑小なものであったのか・・・・な」
「・・・・はい」
だが、バンジークス卿が《死神》と世間に呼ばれる一方で、なぜ《殺人鬼》と呼ばれないのか。その理由は、バンジークス卿が相手にする“いけにえ”の特性にある。
彼が担当する法廷の被告人は、司法だけでは裁ききれぬ、倫敦きっての大悪人ばかりだった。産業革命を経て、世界有数の産業国家となった大英帝国では、表の光が眩い分、その裏に潜む闇の色も実に濃い。
時には、被告人が陪審員や裁判長を買収し、不当な判決が言い渡されることも少なくなかった。バンジークス卿は、そのような大悪人に《死神》として死を与えている。だからこそ、倫敦市民からは
「例えそなたの血に日本人の血が混じっていようと、幼い頃より倫敦で育ってきたそなたは英国人だ。・・・・断じて、日本人などではない」
「分かっております。私は、バンジークス様の助士ですから」
マヤ・ポーロックは、英国人の父と日本人の母の間に生まれた子供だ。倫敦で生まれてから数年ほど日本に住んでいたこともあったが、様々な事情により父親と二人だけで倫敦に帰ることになり、今に至る。
「ならばいい」
バンジークス卿は葡萄酒の入った瓶をおもむろに取り出すと、グラスの中に注いでいく。そのグラスを揺らしながら、耐えかねたように視線を窓の外に向けた。
「・・・・・・・・日本人など、」
マヤには、バンジークス卿に救われた恩義がある。だが、それと同時に、彼が日本人への憎しみを顕にする度、胸の辺りが酷く痛むのもまた事実だった。
10年にも近い時間を共にしてなお、自分はバンジークス卿のことを理解しきれていない。それが、何よりも彼女の胸を痛ませる毒となっていた。
それとも、自分が苦しむのは、自分に日本人の血が流れているからだろうか。今度倫敦にやってくる日本の司法留学生と会ってみれば、何か分かるだろうか。
そんなことを考えながら、マヤは日本からやってくる司法留学生に、毎日のように思いを馳せた。バンジークス卿が日本人を憎んでいることは知っていたが、彼女にとっては暗い日常のなかに垂らされた一滴の光のようにも思えた。
倫敦の変わることのない曇り空を、彼が晴れさせてくれるのではないかと心のどこかで期待していたのだ。
そして、時は流れ裁判当日。
倫敦の中央に位置する、
「バンジークス様。こちらが改めて整理しておいた証拠品の情報リストです」
「ご苦労」
「久しぶりの大法廷の控え室なので、体調を悪くされないよう気をつけてくださいね」
「・・・・そなたは、私を何だと思っている」
「いえ・・・・私自身、昨日から少し目眩がするので」
「・・・・・・・・敢えて指摘するならば。それは二日酔いだ」
呆れたようにため息を吐くバンジークス卿だが、彼こそ、昨日葡萄酒の瓶を2本ほど開けたにも関わらず平然としている。マヤはズキズキと僅かに痛む頭を押さえて、ゆっくりと深呼吸をした。
「ちなみに。先程係官の方から聞いたのですが、今日の弁護人はやはり日本の司法留学生だそうです」
「私の立つ法廷にのこのことやって来る物好きは、この倫敦にはもういないのだろう」
「どのような方なんでしょう。留学生と言うからには、バンジークス様より年下の方でしょうか」
「マヤよ」
「は、はい」
「お喋りはそれまでだ。・・・・我々には、日本人の素性など関係ない」
「・・・・申し訳ありません」
係官の「そろそろ開廷の時間です」という言葉を聞くなり、バンジークス卿は黒い金縁のマントを見に纏い歩き出す。
倫敦の司法の厳格さを、その姿をもってまさに表現したような大法廷。その空気の重さを久しぶりに感じつつ、マヤが向かった先の法廷には、真っ黒な制服を着た日本人の姿があった。
「(・・・・・・あれが、日本から来た司法留学生)」
その隣に立つ女性は、自分と同じ助士……だろうか。彼女は司法留学生の彼を、大層心配しているようだった。
「成歩堂さま。あの・・・・今日も元気に目が泳ぎまくってございます」
「も、申し訳ありません、寿沙都さん。泳ぐな泳ぐなと念じるのですが・・・・念じれば念じるほど目が泳ぎたがるのです!」
司法留学生ともなれば、まだあまり経験を積んでいないことは明らかだろう。だが、それにしても、何だか拍子抜けな弁護席の様子に、マヤはすっかり毒気を抜かれてしまった。
「・・・・バンジークス様。ひっ、」
チラリと横に立つバンジークス卿の姿を見て、マヤは思わず顔を青ざめる。マヤが毒気を抜かれた一方で、どこか不機嫌そうなバンジークス卿の様子に、今日の審理は果たして何本の聖杯が割れるのだろうと心配でならない。
「(それにしても。日本から来た司法留学生・・・・てっきり“あの人”のことかと期待していたけど、どうやら違うみたいだ)」
マヤの頭の中に蘇るのは、彼女が日本にいた僅か数年間のこと。その間に交わしたある約束を、彼女は今でも待っていた。
「(・・・・一真さん。今頃、どこで何をしてるのだろう)」
ふと、マヤの目は弁護席に立つ男の懐に止まる。確かあれは、カタナと呼ばれる日本の武器だ。その柄を、マヤはどこかで見たような記憶があるが、どうしても思い出すことはできなかった。