the great ace attorney

I'm into you.

倫敦の街に広がる濃霧の中でも、瓦斯ガス灯の明かりだけはポツポツと見えるものだが、それらも夜になれば全てが濃霧にのみ込まれて消えてしまう。
そんな倫敦の街がすっかり寝静まった夜。自室で本を読みながらうつらうつらしていたマヤは、不意に自分の手帳にぶら下がっている“お守り”が彼女の太ももをつねったことで飛び起きた。
この奇妙にも攻撃性の高い“お守り”は、少し前にマヤがアイリスから譲り受けたものである。成歩堂たちが大日本帝国に帰ったあと、『マヤちゃんにもあげるね!』とアイリスが喜び勇んで持ってきたことまではいいのだが、これをしばしば悪用する不埒な輩がいることにはマヤも頭を悩ませていた。
お守りを介して『あ。あー・・・・聞こえるかい?』と聞こえてくる声は、もう呆れるほど聞き慣れた、かの名探偵の声である。マヤは眠気を邪魔されたことも相まって、少々不機嫌気味な声でこたえた。

「あの・・・・ホームズさん。アイリスちゃんがくれたお守りを通信機器として何回も利用するの、やめてくれませんか」
『いやあ、失敬。これがまた便利なモノでね。ついつい使ってしまうのさ』

相も変わらず一切悪びれる気のない軽快な声には、もはや慣れてしまった。この名探偵は、ことあるごとにこのお守りを介してマヤの元へと厄介事を運んでくるのが、あたかもそれが仕事であるかのような素振りさえ見せる。その悪行が事件解決へと導く糸口になるならまだしも、やれ今回解決したナゾの自慢話だの、突然訳の分からない謎かけだのが多すぎるので、マヤもここ最近はすっかり辟易していた。だが、アイリスから貰った大切なお守りなので捨てることだけは絶対にできない。そこが一番厄介なところだ。
だが、今日のホームズのヒトコトには流石のマヤも飛び上がることとなる。

「それで・・・・今日はいったい何の用ですか?」
『それがねえ・・・・少し、迎えにきてほしいのだよ』
「・・・・私は、いつからホームズさん専属の御者になったんですか」
『いえいえ、ボクじゃありませんよ。キミにとって大切なヒトのことさ』
「!まさか、バンジークス様ですかっ!?」

マヤは飛び上がるなり、急いで身支度を始める。通信の向こう側で、ホームズが『ところで、この前ボクが解決した事件がなかなかに面白くてね』と話し始めるが、そんなことは露知らず。身支度を終えた彼女は、まるで嵐のように自室を後にするのだった。置いていかれた“お守り”の向こう側で、自分が相手にされていないことを知ったホームズの少し悲しそうなため息が聞こえてきたとかこないとか。

兎にも角にも、燃眉だか焦眉だか、はたまた風前か。マヤはホームズから伝えてもらった場所に着くなり、目の前の光景に思わず小さく悲鳴をあげた。

「きゃあっ!ば。バンジークス様っ!」

ホームズの肩を借りながらふらつく男の姿に、かつて《死神》と恐れられていた影は微塵も感じない。ただ、まるで本当の死神のように青白くなった顔と強いアルコールの匂いは、マヤに事のあらましをハッキリと想像させるに足る。
「どうやら・・・・ちょっと飲ませすぎてしまったみたいだ」と相変わらず悪びれた様子のないホームズに、マヤは「ちょっとどころじゃありませんっ!」と言いながらバンジークス卿に駆け寄った。

「・・・・マヤ、か」

どうやら、まだ意識はあるようだ。焦点の定まらない目で、それでもマヤをしっかりと認識したバンジークス卿に、どこか胸がきゅうと締まる感覚を覚えてマヤは咄嗟に我に返る。今ここで惚気けている場合ではない。

「とりあえず、バンジークス様は私がお屋敷まで連れていきます。ホームズさんもわざわざ連絡ありがとうございました」

そもそも、バンジークス卿をここまで酔わせた張本人はホームズのハズなのだが、ここは敢えて礼を述べるだけに留めておくことにした。これ以上ハナシをややこしくしたところで、バンジークス卿がいつ倒れてしまうか分かったものではないからだ。それは流石に、彼の社会的検事生命にかかわる。
だが、ホームズはその言葉を聞くと「いやあ。それはよかった。ボクもいつ倒れるか分からないところでしたからね」と突然不穏なことを言い出した。マヤが「え」と呟くなり、目の前で先程まであっけらかんとしていたホームズは、まるでゼンマイの切れたロボットのようにバタリと倒れてしまったのだ。そして、ホームズを呼ぶマヤの悲痛な叫びに気づいたのは、夜遅くの倫敦を巡回していたジーナとトビーだったそうだ。「オトナって、ほんとダメダメだねー」と呟くジーナに、流石のマヤも何も言い返すことはできなかった。

そうして、ホームズのことをジーナに任せたマヤはマヤで、バンジークス卿をやっとのことで彼の屋敷へと連れてきていた。
意識はあるようだが、どこか覚束無い足取りに彼も頻りに「すまない」と小さな声で呟くばかり。マヤはそんな彼を支えながら、バンジークス家に仕えるメイドに理由を話し、バンジークス卿の寝室へと案内してもらった。
部屋の中は、マヤの想像していた通り。煌びやかで厳かな装飾と、どこか薄暗い空気に包まれ、シンと静まり返っている。メイドは直ぐに医者を連れてこようと言い出したが、それはバンジークス卿によって止められてしまった。彼曰く「一日寝れば治る」とのこと。そのようにバンジークス卿に言伏せられてしまったメイドが、どこか不服そうな顔で渋々部屋から去るのを見て、マヤも気まずそうにチラリとバンジークス卿に視線を移す。そのとき、ふとバンジークス卿の大きな躯体が彼女へともたれかかってきた。

「あ、あの。バンジークス様・・・・?きゃあっ!」

お互いにバランスを崩した二人は、幸いにも傍にあったベッドにもつれるように倒れ込む。咄嗟に「バンジークス様!大丈夫ですか!」と呼びかけるマヤだが、そのときバンジークス卿の手が彼女の頬へと伸びてきた。

「・・・・も。もしかして・・・・まだ、酔ってますか・・・・?」
「・・・・酔ってなど、おらぬ」
「(絶対ウソだ・・・・)」

元々青白い肌のせいで、見かけは分かりにくいが・・・・実のところ、審理中でも酔いが回って気分が高揚しているバンジークス卿は何回も見てきたことがある。それが分かるのもまた、彼女がバンジークス卿の助士であるがゆえだろう。
だが今回は、いつにも増して酔いが回っているようだ。どこか浮ついた目と、いつもよりも優しく彼女に触れる手でマヤは目の前がぐるぐると回りだすような気さえする。一体全体、何があったらここまで飲みすぎてしまうのか。
ふと、「マヤ」と熱の篭った声で呼ばれることで彼女の肩が跳ねる。バンジークス卿の手は勿体ぶるようにゆっくりと滑り、やがて彼女の顎を捕らえた。
彼女とて、その先に何が待ち受けているか分からないわけではない。酒を飲んでいない自分ですら、何やら酩酊したような気分になって咄嗟に目をつぶる。だが、いつまで経っても動かないバンジークス卿を怪訝に思って目を開けてから、マヤは自身の軽率な行動を恥じた。
じっとこちらを見つめてくる灰色の瞳は、冷たい色の奥に僅かに濡れた熱の色を孕んでいる。その瞳が示す感情は、マヤの胸を切なく締め付けた。
甘く脈打つ鼓動で頭が沸騰してしまいそうだ。今すぐにでも逃げたい衝動と、泣きたい衝動に駆られながらもマヤは自身もバンジークス卿を見つめ返す。

「・・・・バンジークス様、あの・・・・そのように、見つめられては・・・・」

せめてもの抵抗に放たれた切なげな言葉も、言い終わる前に飲み込まれてしまった。
布団に沈む彼女の両手がきゅっと握られると同時に、唇に触れる柔らかい感触。ふ、と息を漏らしたのは果たしてどちらなのか。そしてやがて唇が離れていったと思えば、再度唇が交わされる。シーツに寂しげに沈んでいた彼女の手を、いつの間にか骨ばった大きな手が絡めとるように重ねていた。
彼の好む葡萄酒の匂いがマヤの喉までも焦がしていくようだ。だが、その奥にある甘美な刺激が、彼女の理性を根こそぎ奪っていく。

「・・・・マヤよ」
「は。はい」
「・・・・愛している」

言葉とは裏腹に、バンジークス卿の顔は悲痛な色を帯びていた。息の切れたマヤには判断がつかないが、とにかく彼の辛さを取り払ってあげたい一心で「私も・・・・バンジークス様を愛しています」と呟き、彼の両頬に手を添える。青白く冷たい肌の奥に感じる熱は、決して酒のせいではない。
お互いに、この胸の奥から込み上げてくる情動の名前を知っているのだ。マヤが今度は自分からバンジークス卿の唇にキスを落としたのも、ほぼ衝動的な行動だった。まるで、頭が馬鹿になっているみたいだとも思うが、彼女の胸に溢れる気持ちだけは間違いなく本物である。

「・・・・ふと、不安になるときがある。そなたが、私に愛を囁く度、いつか兄のように遠くに行ってしまうのではないか・・・・と」
「・・・・バンジークス様・・・・」
「我ながら、不甲斐ない限りだ。手を掴んでみたはいいものの、気がつけばそなたの手が離れていくときのことばかりを考える」

バンジークス卿がマヤの手を取って自身の胸に当てさせると、筋肉質な肉体からでも心臓の鼓動が高鳴っている様子がハッキリと分かった。マヤはバンジークス卿の顔をじっと見つめると、優しく笑う。

「・・・・バンジークス様。私は・・・・バンジークス様に手を掴まれたわけではありません。私は、バンジークス様と一緒に手を繋いでいるのです」
「・・・・・・・・!」

大きな手を握り返すと、少しだけ困惑していた指が彼女の華奢な手に絡みついてくる。

「だから、えっと・・・・私から一方的に手を離すことはありません。なので、どうか末永く・・・・・・お傍にいさせてほしいのです」
「・・・・私こそ、同じ気持ちだ」

はにかみながらも彼女の目尻からツー、と流れる涙をバンジークス卿がそっと指で拭うと、それが合図だったのか、月に照らされて伸びた二人の影が再び重なり合う。静かな部屋の中で衣擦れの音が二人の耳をくすぐり、マヤは自分よりも幾分も大きな身体に身を寄せるように目を閉じるのだった。