トレイ・クローバーは寮長の機嫌を損ねないよう注意を払いながら、面倒ごとを起こさないように寮生活を送ってきた。
それが、一匹の魔法生物のせいで小さな危機を迎えた。
トレイの目の前には、まるで血を流したように潰れた苺と割れた卵の水溜りが広がっている。
その向こうで必死に頭を下げる監督生と反省してなさそうな魔法生物がいた。
トレイは大きくため息をつくと一人と一匹に向かって笑いかけた。
「当然、購買部まで走ってくれるよな」
「ヒィェ、目が笑ってないんだゾ」
「すぐ行ってきますー!!」
流石のグリムもトレイの怒りに気付いたようで血相変えてユウと一緒に走って行った。
トレイは無事なものとそうでない物を確認すると、ダメになった卵と苺を片付け購買部に向かった。
駆け込んできたユウを見たサムは元気な小鬼ちゃんだと笑っていたけれど、苺と卵がちょうど売り切れてしまった事を申し訳なさそうに告げた。
「街に買いに行くしかないか…」
「最後に買って行ったのは君のお姉さんだよ」
「アイツに頼んで分けてもらうんだゾ!」
購買部を手ぶらで出てきたユウたちを見たトレイの頭を購買部で苺が売り切れていたから分けてくれと相談された記憶が過った。
トレイの想像通り在庫切れを説明するグリムは、ミヤが最後に買っていったと言った。今度は頼む側かと思いながら、トレイはオンボロ寮へ急いだ。
「え、トレイさん?珍しいですね。どうしたんですか」
「ミヤ!イチゴとタマゴを分けて欲しいんだゾ!」
「分けるって…グリムがトレイさんに迷惑かけたんでしょ。私に頼る前に自分で何とかするべきなんじゃないの」
「ああーそれなんだが」
トレイは話が脱線しそうな気がして会話に割り込むと、事の顛末と街に買いに行く時間はない事を説明した。
ミヤは迷惑をかけたグリムより、困っているトレイを助けるのが先だと冷蔵庫から手を付けていない苺と卵を渡した。
「ありがとう。礼は弾むから何でも言ってくれ」
「本当ですか!実はトレイさんに頼みたい事があったんです!」
自分に頼みたいというミヤのお願いを心して聞いたトレイは肩透かしを食った。
そんな事でいいのかと確認してしまう程の簡単なお願いで、それに対してミヤは機会がないかと待ち望んだ事だというのだから、トレイは面倒な事を頼まれなくて良かったと安堵した。
何はともあれ、タルトを作らなければ首をはねられてしまうためハーツラビュル寮のキッチンへ急いだ。
ミヤは指示を受けながらキッチリ計量し、材料を混ぜるトレイの指示で手渡したりオーブンを予熱したりしていた。
トレイは、てきぱき動いてくれるミヤにとても感謝した。一人で作るのはただの作業だったけれど、今は少し楽しいと感じている。
お菓子作りはあまりした事がないというミヤは真剣な顔をしていて、トレイは彼女のそういう表情は初めて見る(というよりあまり関わりがない)ので新鮮さも感じていた。
「クリームの固さはそれくらいでいい」
「はい。えっと、これはどこに置けば?」
「ああ、向こうのシンクに入れておいてくれ」
「分かりました」
ミヤはお菓子作りをしないのではなく、"マグルが使うような電動の調理器具を使って作った事がない"のだ。
そのため、ドジっ子のようにハンドミキサーのコードに引っかかった。トレイもまさか転ぶなんて予測していなかったため驚いた。
心配するトレイに申し訳なさそうに顔を上げたミヤの頬と髪にクリームが着いていた。
何か拭くものを探すミヤにトレイは手元に置いてあった布巾を手に取った。
「ありがとうございます、トレイさん。えっちょ、自分でやりますよ!」
「自分じゃ見えないだろ?いいから、じっとしてろ」
受け取ろうとしたミヤの手をやんわり抑えたトレイは布巾でクリームを拭おうとする。確かに見えないけれど、小さい子供のように拭いてもらう行為は恥ずかしかった。
大人しくしている間に手早く拭いてしまおうと、トレイはミヤの前髪を手に取って拭き始めた。
髪を一房取っては拭く。その度に額や頬をかすめていくトレイの肌の感触にミヤは胸がむず痒くなった。
「顔を拭くから、怖かったら目を閉じてろよ」
「…はい」
ミヤはトレイさんが拭きやすいように顔を上に向けた。
別に怖くないだろうと思っていが、目の前に布巾が迫ってくると反射で目がキュッと閉じた。
鼻と頬を布巾が優しく撫でていく。ミヤは妙な緊張感に呼吸をするのを忘れていた。
トレイはミヤが痛くないように優しく拭いていたが、彼女が自分を見上げて目蓋を閉じている姿にモヤっと加虐心が湧いた。
「もう目を開けてくれて大丈夫だ」
「ありがッ、うっ」
「はは、次は転ばないようにな。それじゃあ続きやるか」
ミヤが目を開けるとトレイが目線を合わせるように屈んでおり、近距離でトレイの顔を見たミヤは吐いた息を再び吸い直した。
トレイは目を見開いてびくっと肩を跳ねさせたミヤに満足すると、調理台に戻り何事もなかったように調理を再開した。
変わりなく指示を出してくるトレイに頭を混乱させながら動いた。もう失敗しないように、最新の注意を払うミヤは少しぎこちない動きをしていた。
タルトが焼き上がりトッピングを始める頃にはミヤの混乱も落ち着き、漂う甘い香りを肺いっぱいに吸い込んで幸せな気持ちになっていた。
トレイがプチタルトにクリームや苺、ミントなどをトッピングしていく。彼は見た目にも拘っているようで、完成した苺のプチタルトはとても美味しそうに輝いて見える。
「ミヤもやってみるか?」
「ここからは食べる専門でいたいです」
「了解」
ミヤにはトレイほどの技術はない。するするホイップされるクリーム、ふんわり乗せられたのにずり落ちない苺。
流れるように作業していくトレイの手元をミヤは熱心に見つめた。
大きい手なのに手つきは優しいな。指だって私より太いのに、繊細なトッピングも手早く出来なんて器用だなと思いながらミヤはぼうっとトレイを目で追っていた。
「完成したぞ。…ミヤ?」
「え、」
「出来立てのタルト食べたかったんだろ」
「うん!もう食べていいんですか!」
「どうぞ、召し上がれ」
とく、とく、という鼓動を強く感じていたミヤは自分がトレイにお願いした事を思い出した。
『出来立てのタルトが食べたい』
それが、ミヤがトレイに願ったお礼だった。以前、ユウとグリムから"出来立てのタルトが旨い"と聞いて、いつか食べたいと思っていたのだ。
いただきますと挨拶してからタルトをそっと摘んで一口かじった。
口に入れた瞬間、ミヤは破顔して咀嚼する度に蕩けたような顔になった。感想なんかなくても表情を見ただけで美味しいのだと分かる。
トレイは"なんでもない日のパーティー"の時にも思ったが、美味しさを面に出して食べるミヤの姿は感心するほどだ。
「もう、美味しすぎて美味しいとしか言えません!」
「そりゃ良かった」
「トレイさんも食べましょう!食べなきゃ勿体無いです!こんなにおいしいのに!」
ミヤは興奮気味に言うと、もう一つタルトを摘んでトレイに差し出した。
早く口を開けて食べろとでも言うかのように、ずいっと腕を目一杯伸ばしてトレイの口元に持ってこられては、そのまま食べるしかなかった。
トレイは照れ臭くもあったが、女っ気のない学園で唯一の女子に"あーん"されるというタルトよりおいしい思いをしてしまった。
「うわ、あっまい!」
「ケイトか」
「あ、お邪魔してます!」
「えっなんでそんな普通にしてんの?めちゃくちゃ雰囲気甘くて、けーくんびっくりしてるんだけど!」
「うわあっ、ごめんなさい」
「なあ、タルト食べさせてくれるんだろ?」
ケイトに言われてミヤは目を瞬かせてトレイを見た。割と近い距離でタルトを差し出してる現実を理解し、手を引っ込める。
その手を捕まえたトレイは、ぱくりと一口でタルトを食べた。
指先に残るトレイの唇の感触に固まってしまったミヤは顔を赤くするだけで、手を離されても動けなかった。
そんなミヤを見て、トレイは口角を上げた。
「"食べなきゃ勿体無い"だろう?」
それは、さっきミヤがトレイに言った言葉だった。
恥ずかしさなのか何なのかもうよく分からなくなったミヤは、ご馳走様でしたと言ってケイトの横をすり抜けて出て行った。
「リドルくんの許可なくタルト食べたら首はねられちゃうんじゃない?」
「そのためのプチタルトだ。これなら食べたって分からないだろう?」
「ははっ、トレイくんも結構策士だねぇ」
「策士ってほどじゃないだろ。ただ面倒事を起こしたくないだけだ」
ミヤが去ったキッチンでマジカメ用に写真を撮るケイトと話しながら、トレイは後片付けをしていた。
トレイは思いがけずご褒美を貰った気持ちでいたが、これが理由で避けられたら困るなと思った。
明日からミヤに会うことがあっても普段と変わりなく接すれば問題ないだろうと判断した。
しかし、ミヤの反応を見ている時に湧き上がる加虐心のやり場には困りそうだなと、小さなため息を一つ吐いた。
これが二人の関係を変えるほどのキッカケだと思っている人は、誰一人いなかった。