『好き』で膨らむ赤い風船


この話と同じ設定です。



 この学園唯一の女子生徒が二人こそこそと何かしていると、よく行動を共にしていた男子二人は徒党を組んだ。一緒に仲間はずれにされているが同じオンボロ寮に住むグリムに聞けば「バラしたらオレ様が損するから絶対言わないんだぞ〜」などと隠し事してますと明言するものだから、男子二人(特にエース)は面白くないとどうにかして隠し事を暴いてやろうと思った。
 巻き込まれた風のデュースも二人の様子が気になっていた。人に言いたくない秘密とは違い、隠れて何かをしているのが見ていてわかるだけに気分は良くなかった。それでも「僕たち男子に言えない何かなんだろう」とエースを止めはした。しかし「何かって何?」と追及され言い淀む様を「ヤラシーことでも考えてんだろ」なんて言われれば「じゃあ、確かめようぜ」という言葉に乗っかるしかなかった。本意ではないと言い訳をしながらも好奇心に勝てなかったことは否めない。


 ◇


「いろいろ教えていただきありがとうございました!」
「タルト作りを手伝ってもらったんだからお互い様だよ」
「トレイさんのお陰で素敵なものが作れそうです」
「お前の場合は風邪ひかないように気を付けた方がいいと思うぞ」
「意外と意地悪ですよね? トレイ先輩って」
「いや真面目な話だよ。体調崩した原因の一つになりたくないからな」
「あ〜ジェイド先輩にちくちく言われるかもしれないですね〜」
「ジェイドさんもさすがにそんな逆恨みみたいなこと……」
「『あなたを苦しめた原因は一つだって許しません』とか言いそう」
「恐ろしい想像だな」
「ユウちゃんのジェイドさんのイメージ酷い」
「何言ってるの! 愛でしょ」
「やめてよ、恥ずかしいから」

 女子特有の恋愛話に発展しそうな雰囲気にトレイは苦笑いし適当な理由をつけ逃げるように購買部を離れた。その姿を見送りながら二人も自分達の寮へ歩き出す。まだいくらも歩かないうちに「あっ」とナマエらしからぬ声に驚いた監督生に「先に帰ってて」と言うと、全力で鏡舎へ走って行った。
 トレイの姿が見え、息切れし始めた喉に鞭を打つように鏡舎に入りそうな後ろ姿を大きな声で呼び止めた。微かに耳に届いたのだろう空耳でも聞こえたような顔で振り返った。へろへろになりながら自分を追いかけてくる後輩の姿にぎょっとし駆け寄って心配するトレイに言葉をかけられるも、ナマエは息が切れてうまく言葉が出ず返事ができないでいる。
 息が整うまで待つしかないトレイは手持ち無沙汰なまま、ゆっくり息をするよう促したり焦らないよう急かさないよう注意して声を掛け続け、漸く息が整い顔を上げた後輩の顔は赤くなっていた。寮の後輩であるエースが「体力なさ過ぎるんたよね」と話しているのを聞いたことしかなかったが、それを目の当たりにしこんなになってまで追いかけてくるのだから相当重要なことなのだろうと心して耳を傾けた。

「ジェイドさんの好みってわかりますか?」
「……ん?」
「だっ、だから植物園でよく一緒にいるトレイさんなら、ジェイドさんのスイーツの好みとか分かるんじゃないかと思って……教えてください」

 頬を紅潮させ見上げてくる後輩に頭が痛くなる思いで「お前の方が詳しいんじゃないか」と言いながら、直接聞けばいいじゃないかと思った。サプライズで何かプレゼントしたい気持ちはあるだろう。それでも好みに添いたいのであれば本人が欲しいものを直接聞いてからあげた方がいいんじゃないかと、恋愛なんて碌に経験もしてない上に女心も分からないトレイは投げやりに答えたくなる。それでも言わないのはナマエを傷つけると面倒なことになるかもしれないから。それだけである。
 トレイは頭を悩ませた。そもそも植物園でよく一緒にいると言うが、トレイからしてみればジェイドとたまたま言葉を交わしているところによくこの子は来るなという印象なのだ。しかも話す内容はもっぱら植物の栽培方法や栄養となる魔法薬についての話で、食の好みがわかるような話なんてしていない。むしろこの子の方がそういうの詳しいんじゃないのかと思うくらいなのだから、知るわけがないだろう。

「今日いろんなスパイスを教えただろう」
「はい」
「ジェイドは見かけによらず食べるらしいし全種類包んでやったらどうだ」
「それはもちろん考えました。でも苦手なスパイスがあったら嫌だし……」
「こういうのは気持ちっていうだろ? 仲良くない奴から苦手なものを食べてくださいってのは嫌だろうが、お前たちは付き合ってるんだろ? だったら苦手なものが混ざっていたってお前がジェイドを思って作った気持ちってのは届くんじゃないか?」

 質問の答えにはなっていないが、トレイの言葉に目が覚めたように明るい顔になっていく様は健気で単純で可愛らしい後輩だなと思う。「目から鱗です」なんて笑った顔が妹と重なって自然と頭に手が伸びるも、我に返って静かに降ろした。ギザ歯の馬には蹴られたくないなと「頑張って作れよ」と激励するだけに留め、笑顔で頭を下げ去っていく後ろ姿に「あんまり走ると危ないぞ」と投げかけ鏡舎に入る。見られていなかったことを願った。


 ◇


 ハーツラビュルの腕章をつけた男子二人がそろそろと鍵のかかっていないオンボロ寮の玄関扉を開け、大きく深呼吸をする。カカオの芳しい香りとほのかに甘い香りが玄関にまで漂ってきていた。甘いだけじゃない香ばしいような、フルーティな香りが混ざったような素敵な香りに誘われ向かう先はキッチン。木製のドアで仕切られた向こうにいるだろうかわいい友人達の姿を想像しながら、目配せだけでせーのと勢いよく扉を開いた。

「すげー美味そうな匂いするじゃん」
「チョコレートか?」
「びっくりしたー」
「えっなんで? 来ないでって言ったのに」
「そんなん『何かやるから来てください』て言ってるようなもんじゃん」
「もう! 余計なこと口走るから!」
「ごめんね、つい」
「いや、僕たちが気になって来たのが悪いんだ。お前のせいじゃない」
「まーね、でもまさかお菓子作りしてるなんて思わなかったなー」

 オンボロ寮生の女子二人がチョコの香りを漂わせながらチョコを使った焼き菓子を作っていたところ、エースとデュースに見られてしまった。二人には内緒で友チョコを渡すつもりだったが、まじまじと手元を覗き込んでくるからなんのサプライズにもならなくなってしまったと落胆する。
 しかし、二人の反応は「これ食っていいの?」とか「美味そうだな」とあまりに普通で女子二人は目を合わせ共通の疑問をぶつけ合うと「バレンタイン用のなんだけど」と二人に投げかけた。すると、なるほど。二人の出身国ではバレンタインに女子からチョコを渡すという習慣はないらしい。隣で「知らなかった」とショックを受ける子を横目に、せっかく作ったお菓子を無駄にはできないと「私たちの国ではバレンタインに感謝とか伝えるのに友達とかにチョコ配るんだよ」と監督生がざっくり説明した。今度は男子二人が面食らう方だった。
 「俺たちに感謝してるなんて初耳だな〜」とからかうエースに対し「これだけ一緒にいるんだから当然でしょ」と事もなげに言う監督生。エースは上手い言葉が出てこなかった。デュースは素直に感謝を述べ、貰っていいのかどうか躊躇するも当然バレンタインまで待つよう言われ、お預けを食らった猫のように監督生たちを見た。「隠すならもっと上手く隠せよな」なんてエースが文句を言うから、勝手に見に来といてなんなんだと監督生が二人を追い返した。
 キッチンへ戻ってきた監督生は二人の後始末をしたように手をパンパンと打ち払い、早くラッピングしちゃおうと朗らかに笑った。カルチャーショックに気落ちしてしていた心がその笑顔に掬い上げられる。そうでなくたってナマエの気分は下がり気味だったのだ。ジェイドに受け取ってもらえないかもしれないなんて、準備し始めた頃は考えもしなかった。
 そう思ってしまうのは、最近ジェイドに避けられているからだ。話しかけようとしても目が合うとにっこり微笑まれそのまま去ってしまうから、ここ一週間は声も聞いていなかった。何かしてしまったのかと聞きたくても話してくれないのだからどうすることもできない。監督生に「何考えてるか分からないけどバレンタインは絶好の機会だよ」と前向きな言葉をもらい、なんとかモチベーションを保っていた。
 だというのにバレンタインという気分に浮かれ国によって文化が違う可能性を失念していたのである。明日はいよいよバレンタインだというのに、こうなったら普通に渡すだけではダメだと考えを巡らし一つの案が浮かんだ。クッキーやマフィンなど多種多様のお菓子を作ったのだからそれを利用しない手はない。
 二人は、グリムに一足先にバレンタインをあげ残りを丁寧にラッピングしていった。クッキーとマフィンの組み合わせを繰り返し袋に入れ大量のバレンタインプレゼントが完成した。それを監督生と二人で紙袋に詰められるだけ詰め明日に備えた。


 ◇


 ジェイドは同じクラスのリドルの手に、可愛くラッピングされた窓付きペーパーバックが握られているのを見て目を丸くした。小さくて可愛らしい見た目のリドルが、ドットのリボンで結ばれた物を持っている姿が似合うとか珍しいとか、そういう問題ではない。窓から覗くクッキーが手作りであるというのが分かったからだ。そしてそれはすぐにトレイなどお菓子作りや料理をよくする人物が作った物ではないとも分かり、胃の中で今朝食べた鶏肉とマッシュルームのサンドイッチとフレンチトースト、いちごジャムのヨーグルト、それからコーンクリームスープなどがどろどろと混ざり合い別の何かに変質するのを感じた。ようは嫉妬した。
 「珍しいものをお持ちですね」と悋気を押し殺して問い掛ければ「ああ、これかい? 監督生たちがバレンタインにとくれたんだ」とリドルが答える。ジェイドが学んだ陸の文化とは違う『バレンタイン』に喉奥がひゅっと詰まる。どういう事かと問いかけたくも、フリーズしている間にリドルはいなくなっていた。仕方なく授業の準備を整え教室へ行けば、カリムとシルバー、その他にも数名の手にリドルが持っていた物とリボン違いのものが握られており、表情筋が死んでいくのを感じた。

「あなた、ソレはどうされたんですか?」
「あ? ……何その顔こわ」
「かわいらしいリボンまでついて、どなたかからのプレゼントでしょうか」
「監督生ちゃん達からだよ。なんでもあの子たちの故郷のイベントじゃこういうの配るらしいぜ……お前まだもらってねぇの?」
「……あなたは彼女たちと何か接点が」

 目についた生徒との会話はそこで中断された。先生の登場により聞きそびれた部分は直接本人に聞くしかないと、渋々空いてる席に座った。魔法史の授業は基本的に先生の話を聞いていることの方が多い。姿勢良く話に耳を傾け板書をしながら重要なことはしっかりメモを取るも、終われば全て頭の中から消えた。今はそれどころではないと、終業と共に鋭く立ち上がり教室を後にする。
 長いコンパスのような足が忙しなく交差する。三階の教室から大食堂までの距離に心の中で文句を言いながらようやくたどり着けば、既に昼食を摂りに来た生徒で溢れていた。列に並ぶことはせず人に紛れてしまいそうなナマエを隈なく探す。見つけた。

「ジェイド〜なんか探してんの? オトシンちゃん?」
「ええ、今日のバレンタインについて詳しく教えていただきたくて」
「バレンタインならジェイド調べてたじゃん。なんか違うんだ?」
「彼女の国ではバレンタインは周囲に愛嬌を振りまくイベントのようなので」
「ふ〜ん、それでそんな顔してんの?」
「そんなに酷いですか?」
「もうちょっと取り繕ってから会った方がいいと思うよ」

 面白がった表情のまま興味だけで彼女のいる方へ向かうフロイド。片割れの意見を採用したジェイドは、他の雄を見上げ愛嬌を振りまくナマエを見失わないよう視界に留め、木々の枝を避けるように人の隙間を進む。いつもより人が多い。すれ違う生徒の手には今日散々見せられた茶色いものが握られているのだから、憎らしい。採用された意見は千々になりかけていたが、フロイドに渡している監督生の姿を見て平静を保とうと口角に力を入れた。


 ◇


「フロイド先輩もどうぞ」
「すげー歪なカタチ」
「……いらないなら返してください」
「いや、食うよ。え〜と、なんだっけ? ワイロ?」
「違いますよ! いろいろ迷惑かけられた気もしますが、助けてもらったこともあるので感謝の気持ちです」
「あの時は本当に助かりました」
「感謝のキモチねぇ」
「なんか含みのある言い方ですね」
「いや、ジェイドがさ〜おもしれーの。オトシンちゃむぐ」
「奇遇ですね」

 監督生たちの前ににっこりと微笑むジェイドが現れフロイドの口を大きな手で押さえた。すぐさま苦しそうな顔になったフロイドはついでに鼻まで塞がれたんだろう。身を捩って逃れたフロイドからの文句を受けながらもジェイドの視線はずっとナマエに向けられていた。一週間ぶりにまともに顔を合わせる二人の様子を監督生が緊張しながら見守っていると、ジェイドが先に口を開き「僕にはクッキーくださらないんですか」と眉をハの字に歪め困ったような、怒ったような表情で問いかけた。
 ショックを受けた顔で「すみません、クッキーはもうなくて……」と答える友人の姿に、頑張ってと口には出さずに応援する。ここで約束を取り付けられなければ今日一日やってきたことが無駄に終わってしまう。いざとなったら助け舟を出すつもりで監督生は二人に熱い視線を送り続ける。

「今日の放課後、たとえ用事があったとしても空けておいて下さい。寮へ迎えに行きます」

 言うだけ言って離れていくジェイドと、それを追うように離れていくフロイドの後ろ姿を監督生たちは呆然と眺めた。こちらが先に言おうとしたことをまさか向こうから言われるとは思っていなかったと、監督生はナマエに視線をやり、堪らず硬く握られた手を両手で包んだ。

「ユウちゃん、私やっぱり嫌われるようなことしたのかも」
「どうしてそう思うの?」
「……ジェイドさん冷たい顔してた」
「何か誤解があるんだって! 放課後ちゃんと会って話せば大丈夫だよ」
「そうかな?」
「そうそう、とにかく落ち込む必要はないと思うな。もともと放課後に誘う予定だったんだから、あとはナマエちゃんが頑張るだけだよ」

 頬に僅かに赤みが戻り表情が明るくなったことに安堵する。監督生はどうしてこんなにも自分に自信がないのか不思議に思いながら、気を取り直して「お昼食べよう」と不安に揺れながらジェイドを見つめるナマエの視線を遮った。


 ◇


 緊張を鎮めるために胸の前で握られた両手が白くなっている。オンボロ寮の談話室でそわそわしながら待っているとビーという呼び鈴が鳴った。弾かれたように玄関に向かい一呼吸置いてからゆっくりと扉を開いた。「お待たせしてしまいましたか?」と待ちかねていた相手がいつもより硬い笑顔を浮かべていた。「待っていましたが、待たされてはいません」と言いながら談話室まで通した。
 いつもはジェイドと二人でお茶の用意をしていたが、今日は自分一人でもてなさせて欲しいとキッチンに向かうナマエをジェイドは遮り見下ろした。至近距離では顔を見上ぐことなどできず、痛いくらいに早鐘を撞く鼓動を感じながら「お茶の用意を」と絞り出した声は途切れた。制服のボタンが頬に当たる。

「ジェイドさんは、私に怒っているんですよね」

 抱擁は他人の心を解すというのは本当らしい。緊張でもつれかけていた舌が滑らかに言葉を紡いだ。どうして一週間前から声をかけようとしてもスルーしたのか、どうして大食堂であんなに冷え切った目で自分を見たのか。こんなに優しく抱きしめてくれるのに、なにも話してくれないのはどうしてなのか教えて欲しかった。

「ナマエさんに差し上げたいものがあります」

 ジェイドがゆっくり体を離しながらするりと#ナマエ
#の左腕を取ると、その手を両手で包んだ。指の腹の方に少し硬いものを感じていると「『好き』と言っていただけますか」という言葉に顔を上げジェイドを見た。さっきまでとは違う大食堂で見たものとも違う、切実さが滲む困った子犬のような瞳に「好きです」と感情が滑り出した。ほんわりと左手の指が温かくなるのを感じた。

「もっと言ってください」
「え……好きです」
「もっとですよ」
「……好き、です」
「恥ずかしいんですか? もっとです」
「好きです、すき、すき、すき……あの、」
「まだ足りません。もっとたくさん言ってくださらないと」
「手のひらがすごく、あったかいんですけど何ですか?」
「ええ、温かいですね……あなたに好きと言っていただきたいだけで、それ以外に理由なんてありません。さあ、もっと言ってください」
「……好き、すき、好き好きすきすきすきすきすぃんんぅっ」

 唇が塞がれそれ以上言えなくなった。好き、と言い続ける間に包まれた手から熱が広がって顔まで熱い。やんわり触れて離れたジェイドの顔は笑っていて優しく垂れ下がった目もとは薄く色付いていた。瞠目する愛しい恋人へ照れくさそうに笑むと「しっかり見ていてくださいね」と言い、包んでいた手を離した。
 ぶわっと吹き上がる風のような魔力の渦が包まれていた左手から巻き上がった。手の甲から白い糸のようなものと一緒にピンクと赤の塊が天井に向かって高く伸び上がる。むくむくと膨れる塊は可愛らしいハートの形になり、風船のようにふよふよと頭上を漂っている。このかわいくて素敵な風船は一体なんなのだろう。言葉を失いながら見上げれば、ジェイドの顔は嬉しそうに綻び、すっと風船に目がいって戻ってくると再び体が強く抱きしめられた。

「僕も好きです。一生をかけてナマエさんを愛します」

 頭上から背中を伝って降りてくる言葉に心臓が震える心地がした。恐怖ではない、喜びに震える。嫌われていなかった安堵と左手の薬指に少しきつめに巻き付いている風船の糸に、ただただ嬉しさが溢れてくる。ジェイドの背中に回された手がぎゅうっと服を掴み、シワができた。ジェイドの微かなぬくもりと香りに額を強く押し付け、震える唇を開いた。

「私もジェイドさんのこと、これ以上ないくらい大好きです」

 結ばれた風船の糸が魔法の残滓でぴんと弾け風船が僅かに大きくなるが二人は気付かない。

「ジェイドさんには他の人とは違う特別なものを用意してるんです……受け取ってもらえますか?」

 控えめに呟かれた言葉に嫉妬で酷い顔を晒してしまったことを恥じた。そして、私室に置いてあるという言葉に「失礼します」と断りを入れ膝裏を片腕で掬い上げた。

「わっ、えっやだ、降ろしてください」
「すみません、まだ離れたくなくて。少し不安定でしょうからしっかり捕まっていてくださいね」

 抱き上げられた羞恥から離れたくとも離れられず、躊躇いながらジェイドの首に腕を回すと一緒についてきた風船がゆらゆらと揺れた。安心感のある広い肩に頬を預け体が揺れる心地よさにほぅっと息を吐いた。「開けていただけますか」という声に顔を上げドアノブを回せばジェイドが軽く押して開いたドアの向こうにポツンと置かれた紙袋。デスクまで近寄り手に取ると横抱きにされたままベッドにゆっくりと降ろされた。

「実はジェイドさんに私の国のバレンタインについて知ってもらってから渡したかったんです」

 引っ張ってきた椅子に腰を下ろしたジェイドへ紙袋を渡すと恋人がそう言った。他の雄達に愛嬌を振り撒いていたのはそのためかと分かり「そうだったんですね」と理解だけは示す。しかし当然、納得したわけではない。その場で見かけた全員から没収してしまいたくなるくらいには、恋人であるナマエの関心は一欠片だって他人に渡したくはなかった。自分の狭量さをまざまざと見せたくないジェイドは物分かりのいい大人しい顔を見せる。
 紙袋の中には一つずつラッピングされたマフィンが5つと数種類のクッキーが入っていた。どれも見た目が違い、ドライフルーツのようなものやナッツが入ったものまである。愛しい恋人が作ったものというのが、どれも美味しそうに見えてくる魔法のスパイスだった。けれど、これら全てが今日見てきたものと同じでナマエ言う特別な物という感じはしなかった。
 「食べるのが楽しみです」と、とりあえずの笑みで恋人の気持ちに応えると何やら頬を染めてもじもじと落ち着かない様子を見せている。何か見落としでもあるのだろうかともう一度紙袋の中を覗けば「ジェイドさん」と呼ぶ声がして顔を上げた。マフィンの包みから微かに香ってくるカカオやシナモンの香りで恋人の香りが消され、目の前まで来ているのに気付かなかった。
 ちょん。ちょん。と優しく触れた唇とナマエから漂う優しい甘さの香りが混ざり酩酊しそうになりながら、その場で押し倒さなかった自分を褒め称えたい。体の内側から迫り上がる欲を抑えるのに注力し固まっていると、ナマエが照れた表情で近距離からジェイドを見上げた。

「私から誓いのキスをしたことがなかったので……して、みました」

 無理だった。ジェイドは柔らかな体に抱きつきながら勢いそのままベッドへ押しやり、体を抱き抱えるように押し付けた。驚いて動けないナマエを見下ろす目は愛しい者を欲する男のそれで、見つめる顔が強張るのを見て恋人の横に自分の顔を埋めた。
 見続けたらこのまま襲ってしまいそうで避けたというのに、ここは彼女の私室であり、今顔を押し付けたのがベッドだということを失念してしまっていた。たまらない香りがする。このままではナマエをどうにかしてしまうと必死に理性をかき集め、上体を起こした。ベッドに乗り上げた左膝を支えに腕に絡まってしまった糸を互いの腕からゆっくりと解いていると、少しだけ気持ちが落ち着いた気がする。ぴょんと天井に伸びてゆらゆら揺れるハート型を眺め、ナマエからの愛の大きさを確かめる。

「実はこの風船の中に詰まっているのは空気じゃないんです」
「えっと……ヘリウムガス、とか」
「ああ、そういうことではなくて……僕の魔力を介したあなたの『好き』という僕への感情が詰まっているんですよ」
「そんなのって……」

 たちまち恥ずかしくなり顔を覆ってしまうが左手はジェイドに掴まれており、うまく顔が隠せないでいる。かわいらしい姿にジェイドは詰まる呼吸をゆっくり吐き出した。

「こうしてナマエさんからの愛を確認してしまう臆病な僕は嫌いですか?」

 普段は自信に満ちた振る舞いをしているのに、こういうところで不安な顔をされると胸の奥がきゅうっと掴まれ愛しさが溢れる。ずるいなぁと目を伏せてから真っ直ぐジェイドを見上げた。

「大好きですよ。これが、証拠ですもんね」

 掴まれた左手の薬指をちょんと持ち上げると、張りのあるハート型の風船がゆらっと揺れる。初めは恥ずかしく思っていたそれも、胸の奥からあふれてくる感情はこれには収まらないと思えば気持ちの詰まった風船もかわいく思えた。
 ジェイドは「そうですね」と笑うと引き寄せた左手に顔を寄せ、指先に唇を落とし視線をナマエへ戻すと「やっぱりダメかもしれません」と一言。そのまま倒れ込み先程顔を埋めた場所で大きく息を吐いた。布団を伝ってきた熱気が耳に当たり「えっ、あの、あの、ジェイドさん?」と、慌てふためくことしかできない。
 首筋に唇が触れ羞恥に戦慄くナマエの手を離し「僕では自分を止められそうにないので嫌なら縛ってでも止めてください」と、切羽詰まった顔で言うものだから感情のやり場に困った。嫌ではないけど心の準備も体の準備もあるんだからと、風船の糸を手繰り寄せジェイドの肩や頭の辺りにぽすぽすとぶつけて抗議した。
 好きという言葉で膨らんだ愛情の詰まったハート型の風船がゆらりゆらりと揺れ続けた。


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