09

 見慣れたオンボロな寮の廊下、窓にはカーテンなんてものはなくガラスは剥き出し。その向こうには暗闇が広がっていて、目を凝らせば星が見えるけれど今は私の姿がハッキリ映っている。誰もいない廊下で大きく深呼吸をしてからコンコンと扉を叩いた。
 返事がないから居ないのかなと思いつつも消灯時間間近だしなと、もう一度だけノックをした。すると、隣の部屋の扉が開いてジャミルさんが体を半分出して訝しげに私を見た。何か用かと問われて、吃り気味にカリムさんに話があるのだと説明した。
 明日にしろとも言われて、確かに今日でなければならないほどの話ではないけれど今日を逃せば先延ばしになりそうで、どうしても譲れなかった。ジャミルさんはため息を吐くと部屋から出てきてカリムさんの部屋をノックした。

「カリム、まだ起きてるか?」
「起きてるぜ、何か用か?」
「用があるのは俺じゃないが、入ってもいいか」
「ああ、いいぜ」

 ジャミルさんの視線に促されて扉を開けると、ベッドの上で胡座をかいているカリムさんが面食らったように目を丸くさせた。それはすぐに笑顔に変わって、快く迎えてくれる。消灯時間なのにごめんなさいと断って部屋に入れば勝手に扉が閉まり、ジャミルさんの姿は無くなっていた。
 元から一対一で話そうと思っていたけれど、ジャミルさんも一緒に来るのかと思ったから少し出鼻を挫かれた気になって話を切り出せない。カリムさんは扉の前から動こうとしない私に「なんでそんなに遠いんだ?」とこっちで一緒に話そうとベッドをぽんぽんと叩いた。

「そんな端っこで落っこちないか?」
「大丈夫ですよ」
「そうか?」
「…あの、話したい事があって来たんです」
「お前の方から来るなんて珍しいな」

 おずおずとベッドの端に腰掛けている私の空気がカリムさんには届かないのか、表情を明るくする様に言いづらくなってくる。同じベッドの上で和やかな空気を出してくる相手に言うような話じゃ無い。それでも、言わなければここに来た意味がない。
 臆病な私は散々前置きをした。楽しい話じゃないとかわざわざ時間をもらってする話じゃないとか、でも重要な事だからどうしても聞いて欲しいんですと。カリムさんは、笑みを崩すことなく「どんな話だろうとちゃんと聞くぜ」と言ってくれた。
 少し安心しつつも僅かに頬が緊張している。呼吸を一つして口を開いた。

「カリムさん……私、カリムさんとは結婚しません」
「えっ………なんでだ!?」

 信じられないとでもいうように大きく目を見開くカリムさんは断られるなんて微塵も思っていなかったのだろう。夜にいきなり部屋を訪れてこんな話もないとは思ったけれど今くらいしか時間がないのだから仕方がない。
 狼狽えるカリムさんとは逆に私の心は落ち着いている。ちゃんと言えた事に少しホッとした。あとは受け入れてもらえるかどうかが問題だけれど一つの理由で押し通すしか策がない。策と呼べるほどのものじゃないけど。

「カリムさんは私のこと、好きですか?」
「当然だろ。嫌ってたらあんなこと言わない」
「でも、私でなければダメということじゃないですよね」
「それは…でもお前と結婚しようと思ったのは、」
「私は嫌です。私のことが本気で好きで私でないとダメだっていうくらい強い気持ちがなければ結婚なんて、考えられません」

 カリムさんは口が半開きになったままフリーズしている。私がハッキリと思いを言葉にしているからだろう。今まで積極的に親しくしてくれてるカリムさんを突き放すような事が出来ずに"まぁいいか"とか"しょうがない"って態度を取っていたから、驚くのも無理はない。けれど、それじゃあダメなのかもしれないって最近は思うようになっていた。
 全部の関係を断つのは怖い。また独りぼっちになってしまうかもしれない。でも、このままじゃ本当に"虎の威を借る狐"みたいになってしまいそうで、自分から動いて何かを変えなきゃとカリムさん相手にもちゃんと言葉にしたかった。
 カリムさんは黙ったままで、落ち込んだようにも見える。食い下がって来ないのを見るとカリムさんとの結婚の話は無かったことになりそうだ。寂しい気持ちになるけれど、流されるまま結婚したって幸せにはなれないと思う。
 私はベッドを降りて、おやすみなさいと言おうと口を開いた。

「お前自身はどう思ってるんだ?オレのこと、好きか?」

 その言葉に今度は私の口から驚きの声が漏れ、言葉に詰まる。聞かれるまで自分の気持ちを考えていなかったことに僅かに衝撃を受けた。結婚という言葉だけで突飛な発想だと考えもしなかったし、有り得ないと一蹴するばかりでカリムさんのことや結婚のことをどう思うか深くは考えなかった。
 ここは私のいる世界じゃないというのが頭の底にあって、結婚や恋愛なんて今は異文化のような気分だ。好きって感情も恋焦がれるような気持ちとは全く別で、安心するとか楽しいとか気が楽になるとか私が気持ちよくなるためだけの独りよがりの感情でしかない。
 そもそも好きなんて感情は色々だと思うけれど、私のカリムさんへの好きって気持ちは恋愛や男女間にある気持ちとはかけ離れている。授業の話でもない愚痴でもなく、私が一方的に話すだけじゃない、ちゃんとした会話。話が噛み合うかどうかは置いておいて、それができてるのがカリムさんしかいない。
 だから、カリムさんのことは特別な存在ではあるけれど特別な感情を持ってはいないと思った。

「私はカリムさんのことは好きです。でも、結婚の話は私には現実味がないので受け入れられません」
「うん…それは、オレも同じかもしれない」
「気持ちがどう変わるか分かりませんけど、お互い良い方向に変わった時にもう一度お話が出来たら嬉しいです」
「ああ、そうしよう!今のところは保留ってことだな」
「保留というか、白紙に戻すというか…」
「何言ってるんだ?オレ、とーちゃんに報告したぜ」
「えっ!!!」

 こんな言い方狡いかなぁなんて思っていたのにカリムさんの報告発言に二の句が継げなかった。なにそれ。親公認になってしまったのだろうかと絶句していると、まだ返事がこないと言う。それは、まだ認められていないということで安心していいのだろうか。
 予想していなかったことに不安がじわじわと指先を冷たくする。万が一認められてしまったらどうしようとか、それで断れなくなったらどうしようとか、知らない文化の国で残りの人生を過ごすことになってしまったらということが恐ろしい。
 特別冷えてもいない指先を温めるように両手を握りしめる。カリムさんの思い立つ日が吉日と言わんばかりの行動力に手を焼いているジャミルさんの気持ちが100分の1くらいわかっただろうか。とりあえず肝が冷えるってのは分かった。

「……ごめん。オレ、また余計なことしたみたいだな」
「えっ…」
「不安なのか?」

 胸の前で握りしめていた両手がカリムさんの手に包まれた。私の手より幾分大きくて少し骨張っているけれど温かくて綺麗な手だった。ちょっと恥ずかしい気もしたけれど、しっかりと握り込まれる力強さに振り解くのは惜しい気がした。
 カリムさんがこんなに私の気持ちを気にしてくれたことはあっただろうか。私を見つめる萎れたような顔は不思議と引き込まれるような魅力があって、心臓をとくんとくんと鳴らしながらも見つめ返すことしかできない。
 ガーネットのような大きな瞳は部屋の明かりを取り込んで宝石のように輝き、人の視線を惹きつける不思議な魔力を秘めているように思えた。だから、こんなにも引き込まれて逸らせなくて、なんにも言葉が出て来ないんだろう。

「オレ、ちゃんとお前とのこと考えるよ。だから、そう不安そうに体を縮こませる必要なんてない」
「カリムさん…」
「大丈夫だ。絶対に悪いようにはならない…オレを信じて欲しい」

 真っ直ぐな視線から逃げられなくてほんの僅かにこくと顎が下がったのを了承と受け取ったようで、カリムさんはニッカリ笑った。それでも真っ直ぐ見つめてくるのは変わらず、私はとうとうカリムさんから目を逸らした。
 自分の中の汚い部分が露見してしまいそうで怖い。カリムさんはそんな見透かす能力持ってないとは思う。たとえ汚い部分までも温かく包んでくれるとしても、知られるという事が恐ろしい。私みたいな汚い部分が何もないような真っ直ぐなカリムさんだから特に。

「なぁオレやっぱり、」
「カリム、消灯時間をだいぶ過ぎてる。そろそろ寝ないとペナルティだ」
「……、もうそんな時間か!じゃあ、ナマエはもう戻らないとだな!」
「ぁ、そうですね。おやすみなさい、カリムさん」
「…ああ、おやすみ。ナマエ」

 足がふわふわする。ジャミルさんが声をかけてきた扉から廊下に出た。明かりが消された廊下は薄ぼんやりとしていて足元を通り過ぎる冷気がぞわぞわっと全身を撫でていく。それでもふわふわとした感覚はなくならなくて、扉の前から動けずに何もない窓の向こうをぼんやり見つめ、胸に詰まっていた空気を一気に吐き出した。
 消灯を知らせたジャミルさんの姿はもう既にそこになく、薄暗い廊下の先はよく見えない。もし彼らと同じ階に私の部屋があったとしたら、間違えて入っていたかもしれない。そうでなくてよかったと思い階段まで軽い足取りで向かう。
 カチャと音が聞こえた気がしたのと腕を掴まれたのはほぼ同時で、口を抑えられたのと引っ張られたのは同時だった。僅か数秒の出来事に理解が追いつかず碌な抵抗も出来ないまま、私は暗闇に引き摺り込まれた。