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一日の授業が終わり、総合文化祭まで一週間を切った。輝く水を撒き続けてどのくらい経っただろうか。植物園には管理人がいるから必要のない事だと分かっていても、オムニバルフラワーにキラキラ輝く水を与えるのが日課になっている。
まったく変わらない花たちの様子にため息が出る。根気強くやらないとダメなのか、そもそも"願いを込めた魔法の水"なんていう考えが間違っているのかもしれない。もう三週間くらいは水をあげ続けているのに変化がないということは、まだまだ魔力が足りないという事なんだろうか。それとも、今までの事がただの錯覚だったんだろうか。
テラリウムとは別の鉢植えに水をあげる時はいつも"元気になりますように"と願ってから水をあげている。すると、ジョウロの水はキラキラ輝いて植物も病気になったり虫に食われたりする事なく"元気に"見える。
手元のジョウロを見てもやっぱりキラキラしている。これは目の錯覚じゃない。なら、どうすれば効果があると目に見えてわかるようになるんだろうか。
考えても分からないことに思考は止まり、昨日のことを思い出して胃の辺りがずっしり重くなった。昨日の夜カリムさんの部屋を訪れた後、誰かに暗闇に引き摺り込まれた。一瞬の出来事に何もできず暗闇で震える私に二本の腕を巻き付け、耳元で囁いた人物に心臓が跳ねた。
「震えているな。俺はこれ以上何もしないが、もしこうなったら間違いなく売り飛ばされる」
「…ッ、なんで、そんなこと」
「"熱砂の国の富豪の妻"なんて肩書きがあれば護衛はつくが君のように油断と隙しかない奴は直ぐ拐かされて、大金を要求され払ったところで…無事じゃ済まないんだよ」
「…あの、わたし、は…その…」
「カリムとの結婚は断れ。君がもしそうなったとして、君だけじゃない。君についた護衛も徒じゃ済まないんだ」
おやすみ。そう言われて部屋から廊下に戻された。閉まるドアの隙間から覗いた瞳はまるで暗闇から獲物を狙う捕食者で、思い出した今でも少し身震いしそうだ。
ジャミルさんは私のことが多分嫌い。カリムさんの暴走原因の一つが私だからだ。私が関わるとそれだけジャミルさんの負担になることが発生するから、その可能性の一つを無くしたいんだろう。
効果絶大だ。初めて知る世界の知らない国というだけで不安なのに、人攫いなんて無縁な生活をして来た私にはジャミルさんの言葉に"カリムさんとの結婚は無理"だと震えながら思った。
水をやり終えてキラキラ光るオムニバルフラワーを見ながら深いため息をついた。そろそろ戻って課題をやらなければならないとその場を離れようとした時、声をかけられた。
「ちょっとツラ貸せよ」
「………話ならここでしませんか?」
「上級生相手に大した度胸だなぁ。あれか?自分にはいろんな寮の寮長や副寮長が味方してくれるから大丈夫だと思ってんだろ」
「そういう事を考えたことは一度もありません」
「口でなら何とでも言えんだろ。他人の権力を笠に着て良い気になってんじゃねーよ」
サバナクロー寮の生徒一人が私に突っかかってきて、全く酷いことに突き飛ばされて僅かに残っていた水が私だけでなく相手にも掛かってしまった。怒りもヒートアップしてしまい私を強引に立たせると胸ぐらを掴んで暴言を吐きだす。
名前も知らない人から一方的に知られていても、入学式の事があるからそういうもんなんだろうなとは思っている。でも、どうして初対面の人から一方的に悪態をつかれなければならないのか。どこ吹く風と聞き流していたいのに上手くいかない。
痛いことをされてるわけじゃないからと抵抗もしないでいると不敵に笑ったその生徒は腕を掴んで「いいから来いよ」と強引にどこかへ連れて行こうとした。さすがに恐怖を感じて、抵抗するけれど腕を引く力が強過ぎて千切れそうに痛い。
「やめてください!やだ!!」
「騒ぐんじゃねーよ」
「ん!?んんんん!!」
「痛い目見れば無駄な抵抗も止めんだろ」
マジカルペンを一振りされ、声を出そうとすると唇が瞬間接着剤でくっついたみたいに開かなくなった。振りかぶられた拳に目を瞑っていれば気怠い声が聞こえ私は殴られる事はなく、生徒は自分の寮の寮長を前に動揺しながらも何故かと文句を言っている。
レオナさんはめんどくせえと書かれた顔で、寮生を前にステージ設営のための準備は終わったのかと寮長らしい事を言って寮生を追い払っている。言われた生徒は何か仕事を任されていたにもかかわらず他人に丸投げして私に声をかけたらしい。
「文句があるなら偉くなってから言えよ」の一言はずいぶん効果的だったようで、私を一睨みしてから立ち去って行った。ちらっと見送ってからレオナさんに視線を戻せば、またお前かというかのように呆れた溜息をつかれた。
「何度もこんな植物に水なんか撒きにきて懲りないやつだな」
「っんん!?」
「この程度の魔法、簡単にかけられてんじゃねーよ。もうちっと防衛魔法を磨くんだな」
口元を意地悪く歪ませながら、静かで丁度いいからこのまま着いて来いとレオナさんはあっさり私に背を向けて歩き出した。着いていけば魔法を解いてくれるんだろうか。きっとレオナさんにとってはどっちでも良くて、私は自分が困らないようにレオナさんの後を追った。
連れて来られたのはサバナクロー寮。ここで待ってろと放り込まれた部屋は見晴らしがよく開放的で、大きなベッドや部屋のあちこちにある中央アジアの民族模様みたいな柄の物が印象的だ。
ところで、いつまで待てばいいのだろうか。部屋を眺めていれば帰ってくるんだろうと思って、ソファの端っこを借りて珍しいもので溢れている部屋をしばらく眺め、徐に立ち上がって乾燥した風が入ってくるバルコニーに立ってとりわけ何もない景色を眺めた。
最初は異国情緒あふれるお高いホテルにいるみたいな気持ちでいた私も今はソファに座り、その肌触りの良さに感動しながら体を倒して頬をソファに預けた。このまま夜になったらどうしようかと思ったけれど、私が寮に帰らなくたって誰が困るわけでもないと深く息を吐き出した。
扉が開く気配がして、やっぱり寝ちゃったんだなぁとゆるゆると頭の中で考えていると体がふわっと持ち上がった。慌てて目を開ければ景色が動いていて「なんだ起きたのか」という声が降ってきた。落っこちそうな気がしてレオナさんの肩にしがみつく。横抱きがこんなに不安定だなんて思わなかった。
くつくつ笑ったレオナさんは「大丈夫だから離せよ」と優しく言った。ソファで眠りこけていたのに怒ってないんだなとか、今までどこに行ってたのとか、そもそも何の用事で私を連れてきたのとか言いたい事は沢山あったけれど掛けられた魔法の事を思い出し言葉を飲み込んでレオナさんから手を離した。
「うぎゅっ」
「くッ、ハハハハッ。ずいぶん間抜けな声が出たもんだ」
「いきなり落とされたら変な声だって出ます!」
「ベッドの上なんだから大丈夫だろ」
「怪我はしてませんけど…あ、声…」
「魔法はとっくに解いてあるぜ。それより…」
覆い被さったレオナさんの目がすっと鋭くなったかと思えば、鋭い八重歯を剥き出し私の喉笛に噛みついた。喉が引き攣り声にならない息がきゅっと気管に詰まる。痛いというより恐ろしい感覚に見開いた目は乾燥し一筋の涙が瞬きとともに流れた。
ぎゅうっと握ったレオナさんのシャツの袖を引っ張ったり押し返してもびくともしない。喉から首筋、鎖骨の方まで尖った歯が当てられ訳の分からない恐怖に唇が震え呼吸が荒くなる。首筋に当たる生温い息に身を捩れば、レオナさんの大きな手が私の頭を包み熱い唇が押しつけられた。
「んむぅ、んぁ、はむぅ、ぅん」
「ちったぁ、声出さずにいられねーのか」
「これ、声がこもっててよく聞こえません」
「しばらく黙ってろ」
薄ら作られた手のひらと耳の隙間からレオナさんの声が届くと、頭を包んでいた手が再び耳を塞いだ。レオナさんの分厚い舌が私の舌を絡めとってお互いの唾液が混ざり合うくちゅくちゅという音が頭に響く。口の中で反響し骨を伝って頭にまで響く卑猥な音に胸がドキドキする。
レオナさんを押し返していた手から徐々に力が抜けていくのを感じて、このままではダメだとシャツを握る手に力を入れてぎゅっぎゅっと引っ張った。私の抵抗なんてレオナさんにとっては造作もないことで、より深く激しくなる口付けに呑まれそうになる。
「ッ、…あ"?なんのマネだ」
「はぁ、あの…もう、レオナさんとはこういうことしません」
「……理由は?」
「依存したくないからです」
「なるほどな」
咥内を蹂躙する舌を噛んだ。痛みで口を離してくれたけれど、レオナさんを怒らせてしまったようだ。レオナさんは私のことを全部受け入れてくれて流してくれる包容力があるから、こうでもしないとあのまま流されていた。それにレオナさんに甘えていたら、私はどんどんレオナさんを頼ってしまって依存して抜け出せなくなりそうだった。
どんな理由を言おうとレオナさんが納得してくれるとは思わないけれど、私を覆っていた体が離れていった。詰まっていた息が少しずつ口から出ていく。体を起こそうとする私へ不意に手が差し出された。
「ほら早くしろよ」というレオナさんはもう怒ってはいないようだけれど表情は硬いままだ。私を起こそうとしてくれるんだろうと、レオナさんの手にそっと手を重ねた。優しく引かれる手に、やっぱり優しいなと思っているとレオナさんが笑った。
「えっ…あぅッ」
「悪いがますますやる気になっちまった。本当に依存するのか試してみようぜ…なあ、ナマエ?」
うつ伏せに押さえつけられ両腕は後ろで掴まれて、体を捩ることもままならない。耳元で囁かれる言葉に恐怖すると同時に耳が熱くなった。耳たぶに突き立てられた歯の痛みは甘い疼きになっていき、服を捲る熱い手に体が震える。
もう、どうやったって逃げられないのかなとくぐもった声を漏らしながら思った。