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珈琲と彼女
花が咲くように微笑む彼女は、香り豊かな風が踊る春ではなく、冬の生まれなのだという。
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男部屋を使えない俺の寝床は、定まっていない。ウソップ工事兼フランキーの武器開発室兼自分のアトリエで眠ることが大半ではあるが、たまに場所を移すこともあった。たとえばここ、アクアリウムバーは落ち着いているし魚は癒し効果があるしで、睡眠にはもってこいだ。
――彼女が、よくいることを除いては。
「……あら?」
コーヒーの入ったカップを2つ持って登場した俺に、ニコ・ロビンは不思議そうな色を湛えてその切れ長の瞳を向けた。
それは、そうだ。常なら、リフトに乗って飲み物はダイニングから降りてくる。わざわざ手で運ぶなんてことは、アクアリウムバーではありえない。
ニコ・ロビンは読んでいた本をパタンと閉じると、いつもの余裕げな微笑を浮かべた。
「ふふ、あなたが運んで来てくれるだなんてね」
近寄り、その細く繊細な手にカップを差し出して、俺は応えるようにニヤリと笑った。
「ものはついでってやつだ。俺は今日はここで寝るからな」
「あら。理由を聞いてもいいのかしら?」
こういう些細な気遣いを。距離を見極めようとする、その思慮深さを。俺は好ましく思っている。
「あぁ、構わないぜ。まぁいつも通りなんだけど」
「……ということは、ウソップのペンキね?」
「それ。あの臭いに包まれての安眠は、さすがに無理だ」
肩を竦める俺に彼女はくすくすと笑うと、静かにコーヒーを一口、口に含んだ。そして彼女の愁眉が微かに動いたことに、俺はどきりとして目を逸らした。
「ニコ・ロビンはこんな時間まで読書か。相変わらず勉強家だな」
わざとらしく鷹揚に隣に座って、俺もコーヒーをいただく。ニコ・ロビンはちらりと横目で俺を見てから、閉じた本の表紙を優しく撫でた。
「読み出すと止まらないの。悪い癖だわ」
「あぁ、でも分かるよそれ。俺も作業しだすと熱中しちまって、食事も忘れるから」
「よくサンジが呼びに行っては貴方に怒ってるものね。……貴方のそれは、私以上よ。凄い集中力」
「お褒めいただき光栄です」
お互い目を合わせて、プッと笑う。
それを合図に、俺たちはどちらともなく語り出す。それは大抵が宝石のことだが、ナミの審美眼とは違った観点でのロビンの洞察力、そして知識は、職人としての俺にいつだって刺激を与えた。
「そういえば、この間リフォームしてくれたアメジストのピアス。とっても綺麗になってて嬉しかったわ、ありがとう」
ふと思い出したように礼を言われ、俺は喜ばれたことに喜ぶのも何だか恥ずかしくて、努めて冷静に「それは良かった」と言葉を並べた。
「さすがはお前の持つ宝石なだけあった。かなり質が良かったから遣り甲斐があったな」
「ふふ、お褒めいただき光栄」
そっくり真似され、 片眉をピクリと上げる俺に、彼女はやんわりと笑みを浮かべる。
その落ち着き払った彼女の、悪戯な表情。
――敵わない。
「それじゃあ、私は戻るわね」
睡眠の足りない貴方の邪魔を、するわけにもいかないし。
立ち上がって、彼女は飲み干して空のカップを手に、ハナハナの実で生やした手には本を持って、俺に背を向ける。颯爽と翻った彼女の整えられた黒髪からは、花霞が舞うようで。
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
気付かれなくて良かったと、安堵する自分と。なんだ、意外と反応無かったな、と肩透かしを食らったような、残念な気持ちと。
綯い交ぜにして、カップを口元に当てた時。「そういえば、」と、彼女が振り返った。
「コーヒー、ご馳走様。苦味が浅くて、夜にちょうど良かったわ」
くすりと、絵画の美女のように笑む彼女に、俺は情けなくもぽかんと口を開けるばかりで。
ニコ・ロビンは満足げに俺を見てから、今度こそその場を後にした。
見送る俺の手が、顔の筋肉が動くようになったのは、その直後。
「……さすがの、ポーカーフェイス」
また、敵わないなと。笑いの混ざった息を吐く。
「誕生日おめでとう、ニコ・ロビン」
――花が咲くように微笑む彼女は、香り豊かな風が踊る春ではなく、冬の生まれなのだという。
苦さの薄いコーヒーの香りを、俺は残らず胸にしまい込んだ。