町が収穫祭であろうとなかろうと、私の日々のすべきことに変わりはない。エサやりに水遣り。彼が桃源郷と、そう喩えたここに住んでいるのだ。つまりそれは文明的ではなく、自然と人間が触れ合いながら暮らす、俗世離れした場所ということなんだろう。そんな生活を送る私が、町の祭りなどに気を取られることがあまりないのは、当たり前といえば当たり前なのだ。
「しかも、男とデートもしねェ世捨て人か」
「人の思考を勝手に読まないで下さい」
結局、エドとの食事は止めになった。あれからエドの伝書鳩が来て、夜の海が綺麗に見れるという話題のレストランに行こうと誘いがあったが、どうしても行く気にはならなかった。昨日のことがあったのも、勿論あるが。
「まぁ、そんな泣き腫らした顔じゃあ、デートも失敗するに決まってんな」
「一瞬誰だか分かんねェくらい顔がちげぇ」と腹を抱える彼が憎らしい。けれど、どこかホッとしているのも事実だった。なんとなく、彼に何で行かないんだと本気で迫られたら、切り返す言葉が見当たらないような気がする。焦って口ごもる自分が容易に想像できる。
彼がこうして、行くなと言わずとも、行かなくてもいいと。そう笑ってくれるだけで、今は安心するのだ。
――その安心がなぜ必要なのか、気にはしたくない。
「でもお前、どう考えても昼過ぎから暇だろ、普段通りじゃ」
「その通りですね」
私が普段の平日、やることといったら決まっているし、休日だって家畜や野菜の世話以外では、ただのんびり読書をしたり、必要な道具や洋服を手入れするくらいだ。流石に世間がお祭りという時に、そんなことをして過ごすのは些か寂しい。
アレ? でも。
去年だって一昨年だって。一人で、ずっとこの家にいただけだったような気がする。毎日が同じ毎日。それでも構わないと、本気で思ってたから。当たり前だと、信じて疑わなかった。
それなのに、今は。
「あー、つまんねェな。町に行ってあの女たちの顔を見たいとは心底思わねェが、ここにずっといるのも勿体無い」
こんなに時間が惜しいと思えるだなんて。
退屈そうに頬杖をする彼の前の席に座り、淹れたばかりのコーヒーを飲む。こんな時間も、穏やかで嫌いじゃないけれど。
チラリと時計を見る。まだ、午後のてっぺんは指していない。
弾かれるように口から。何の戸惑いもなく言葉が出た。出てから、それを言った自分に驚いたのだ。
「海に、行きませんか」
半日近く馬車に揺られ、海の街に出た。エドと約束していた話題の店を横目に通り過ぎると、ゆっくりと夕焼けが滲む水平線を見つめた。海岸線沿いに並ぶ少し錆びれた街灯にも火が灯り始め、目の前で遠くに眼差しを置くその横顔を温かく照らす。もしかしたら、このままふ、と。そう思わなくもなかったけれど、彼はまだここにいる。彼に実体があるわけでもないのに、律儀にも私は彼の正面にきちんと座り、まるで2人で馬車にいるようだった。そんなことを自然にやってのけてしまう自分に、じっとりとした嫌な焦りを覚えた。
カカカっと馬の硬い蹄が石畳を叩き、運転手はハットを軽く上げながら振り向く。
「こちらでいいかな」
「あ、はい。有難う御座いました」
その手に多めのベリーを握らせれば、彼らは何も言わずに去って行く。取り残されたのは少しの無音、それから、波の声。
「……着きましたね」
「……そうだな」
あまり、会話は弾まなかった。
「少し、歩きましょうか」
太陽が沈み、海の寒さとあいまって冷たくなった澄んだ空気の奥から、敷き詰められた星が現れた。普段の、山奥から見上げる星空も好きだけれど、何も遮るもののない、鏡の世界のような海の上の星々は、全てから解放されているような感覚にとらわれる。幻想的と言ってもいいこの光景に、息を飲むのは至って正常な反応だろう。
「だからさ、お前。口」
はっと横を見れば、からかうように、けれど穏やかにこちらを覗く瞳とかち合って、私は急いで逸らした。
「だって、予想外に綺麗だったから」
「間抜け面だったぞ」
「生まれつきです悪かったですね」
こうした軽い小突き合いでさえ、心地がいいと思うようになったなんて。
「けど、予想外って何だよ。海からの空は見たことないのか」
「まぁ、よっぽどの用がない限り、ここまでは降りて来ないですからね。ぶっちゃけ初めてです」
だが、最後にここに来たのはそう遠くない。
彼が、エースさんが、処刑されたその日。この地の広場で、拳を突き上げていたのだ。それが今となっては、あの時の自分の興奮は一体何だったのかとさえ訝るくらいだ。
「海は、嫌いでしたから」
ポツリと零すと、彼はジッとこちらを見てから立ち止まる。
「私と母を捨てた父が行った先ですもん。あの水平線が、憎らしかった」
「今は?」
「え?」
「今も、憎いか?」
もう怖くもなんともない、その瞳が深くて、私は言葉を失った。あの目ではない。いつかの闇ではないけれど、水面のように静かな瞳。
彼は、この海に何を思っているのだろう。何を思い出しているのだろう。
そう、だって私は。
この瞳がいつだって、それこそ出会ったその時ーー目が合った瞬間からーー遠くにあることを、知っていた。
彼は、海にかえりたいのだ。
「……分かりません。でも、今この目の前にある海は、凄く綺麗です」
そんな彼を前にして、飾る言葉なんて、私にはなかった。
「今、か」
そう繰り返して、彼は私から視線を外すと、あの遠い瞳を波へと向けた。
「おれにとって海は、今も昔もずっと一緒なんだな。あの日、海に出ようと弟と誓った海と、死んで尚、今ここにある海。……なんも、変わんねェ」
弟。それは、あの16点鐘をしたーー
「モンキー・D・ルフィですか」
「……流石に、すっかり有名だな」
「えぇ。インペルダウンの脱獄含め、色々と前代未聞だって、世間を賑わせてましたから」
「だろうなァ。あれはおれも流石に、驚いた」
新聞によれば、血は繋がっていないらしい彼等。だが、海賊を夢見る小さな頃から2人は兄弟として過ごしてきたのだという。
「血の繋がりは無くても、彼にとって貴方は兄なんでしょう? ……助けたいと、そう思うのは、不思議ではないかと」
「そういうもんか?」
「……兄弟のいない私が言っても、アレですけど」
「いや、そう言ってもらえて、ホッとした。正直」
テンガロンハットを深く被り直して、堤防に座り込む彼の横に、私も同じように腰を下ろす。
「おれの夢って、何だったと思う?」
「え」
急に何だ。そう言葉にせずとも彼には伝わったようで、けれど何も言わないところからして、私に先を促しているようだ。
「えっとーーこの海を全部制覇する! とかですか」
「……ずいぶん熱い夢だな」
「……馬鹿にしてんですか」
そもそも、海賊の思考回路なんて分からないと、散々言ってきたのに。今更彼の夢なんて言われても、私にとってはきっと途方も無く想像も出来ないことなんだろうから、無茶振りはやめてほしい。
見るからに腹を立てる私にひとつ笑うと、彼は静かに口を開いた。
「おれの夢は、親父を海賊王にすることだった」
親父。
ゴールド・ロジャーは既に過去、海賊王だったはずだがーーそう思いかけて、そういえばと記憶が甦る。あの時、背中を丸めて泣きじゃくった彼が叫んでいた名前は、白ひげだった。
「白ひげは、白ひげ海賊団は……こんなおれを、鬼の子と呼ばれたおれを、家族として迎えてくれたんだ」
「…………」
「おれも、まぁ……海に出た頃は色々やった。渇きが疼いて、自分を周りの奴らに認めさせたくて、がむしゃらに、力づくで……お前が一番、嫌いなやつだな」
「そんな、」
「今更気ィ遣うなよ、その通りだろ?」
苦笑いで返されると、頷くことも出来ず、沈黙にふけるだけだった。彼はそれで満足なのか、もう一度鼻から息を抜くように笑い、頬杖をついた。
「あの時のおれは、馬鹿だったよ。若いといえばそれまでだが、そんなのを言い訳にできるほど、おれは大人じゃない。ルフィと別々になって……自分を支える誇りも、守るべき者もなかったおれは、ただ自分勝手だったんだ」
波は、穏やかだ。
「でも、だからこそ海軍に捕まった時、おれは本当に死んでもいいと思った」
「な……」
「そんなおれを受け入れてくれた親父や仲間だぜ? 迷惑だけはかけたくなかったんだ…だからあそこで、処刑されるその時まで、有難うって言えたんだ。ーーけど」
言葉が途切れる。ざざぁん……と寄せては返す波間に、月明かりがよく映えた。
「弟や、家族が、さ。おれの、おれなんかのために、戦争起こす覚悟で、助けに来てくれた。それを見ておれは、初めてーー本当に初めて、思った。死にたくねェって」
「初めて、自分のために、生きたいって」
嗚呼、この人は。
生きるか死ぬか、その間際。その刹那。どれだけ苦しくても自分のために死力を尽くす仲間を見て、弟を見て、その時初めて。初めて、自分の魂を感じたというのか。自分の存在を、許せたというのか。
こんなにも穏やかな気を纏ってる彼が。
「死にたくねェって、そう思いながら死んだ」
「……っ」
「でも、幸せだった。自分の命の価値を確信して死ねたんだ。みんなには悪かったが、おれは幸せモンだと思った」
それなのに、なぁ。
「おれはまだ、自分を見つけなきゃならねェのかな」
目が合う。
「やり残したことがあるのか、それとも単純に、簡単には死ねない天罰なのか……何度も考えたけど、分からねェ。ーー今ここにいるおれって、何だろうな」
問われても、正直困る。私は何も持ち合わせていない。彼に差し出せる言葉も希望も、私の人生の中から引き出せる経験だって。
それでも、「今」の彼を見れるのは、感じられるのは私しかいないのだ。こうして隣で、話を聞いて笑いあえるのは、今、私だけなのだ。
これで放棄してしまったら、私はきっと、後悔する。彼がまた、孤独な絶望に落ちるなんて。
そんなの、嫌だ。
「……付き合いますよ」
目を見る。彼の瞳孔に光が差し込んで、煌めいた。
「幸い、貴方はお金のかからない居候です。別に、いられたところで、今更私は構いません」
「居候って、お前……」
「だから、2人で見つけましょう。あなたが、ここにいる理由」
それくらいしか、出来ないから。
けれど言ってすぐ、なんだか恥ずかしくなって、私は目をそらしてしまったけど。
「ーーだから! その代わり、桃源郷で私の話相手になって下さいね」
「……あぁ、お安い御用だ」
彼の、あの笑い方が、冷たい風に乗って海へと溶けた。
たとえ、ここが寒くても。
あの桃源郷から海が遠くても。
今お互いに、お互いがいるということ。それだけで、私は、きっと満たされていたんだ。
だからお願い、お星様。
木々が覗く山の上でも、波間に揺れる海の上でも。変わらずにどうか、彼を照らし、道標になってくださいと。
流れ星がきたわけでもない満天の星に、私は祈らずにはいられなかった。