事件は、エドの誘いが原因だった。
いつも通りの帰り道――最近は幽霊と会話を弾ませるのが日常になりつつあるが――さぁ町を出るぞという直前、目の前に出来た人だかりに急ブレーキを踏んだ。
「ちょっと。今からいい?」
同じ年頃の娘、4人。来たか――そう口には出さずにため息で片付けると、私は渋々と自転車を降りた。そんな私を見て、テンガロンハットの下にある眉を曇らせながら彼が近寄ってきた。
「……おい、何だこいつら」
小さく耳打ちをされ、別に誰にも聞かれないのにと笑いたかったが、彼が心配するように、そういう状況でもないのは確かだ。彼女たちの瞳に巣食う色が決して穏やかでないのを確認し、私は慎重に言葉を選んだ。
「ここでは出来ない話?」
「あなたに、選ぶ権利はないわ」
「……そう」
どうやらまどろっこしいことをしてくれそうだと肩を竦め、自転車を押しながら彼女たちの後につく。彼は大体予想出来ているのだろう、行くのか――そうこちらを見て、私が首を縦に振ると、ちっと舌打ちをして嫌々横を歩いた。
町外れ、山の入口。普段用がないだろうそこまで来ると、彼女たちは足を止め、くるりとこちらを振り返った。その表情は険しく、可愛い顔も台無しである。
「で、話って?」
ガチャリと自転車を立て、尋ねる。
「分かってるでしょ」
「…………」
「あなたって、本当に邪魔よ」
あぁ、もう。
「エドに気に入られたからって、調子乗んじゃないわよ。同情であなたに付き合ってんのよ」
「あんたなんかじゃ、釣り合わない」
「どうせお金目当てなんだろうけど」
「あんな野蛮な場所で、一人のあんたには」
それから尚も続く中傷に、よくもまぁペラペラ動く口だと天を仰ぐ。最近は刺激しないようにひっそりとしていたつもりなのに、どうやらやっぱりあの一件は広まりまくり、彼女たちの耳に無事届いてしまったらしい。
ちらりと彼の方を見ようとしたが、やめた。こんな情けない場面を見られなくちゃいけない虚しさのが強くて、顔を見たくなかった。
「ちょっと、聞いてるの!?」
「――あぁ、うん」
実はあまり聞いてなかった私に気付いたのだろう、彼女はわなわなと震え上がると、拳をギュッと握り締めた。
「余裕ぶって、ほんといやらしい」
多勢に無勢でいやらしいのはどっちだとは言わなかったが、顔をしかめてしまったのが運の尽きだ。彼女達の前では申し訳なさそうに――これが鉄則なのに。
「ナエマ!」
名前を呼んだのは、誰だったのか――気を取られたせいか、はたまた張り付けてきた手の力が思いの外強かったせいか、私はガシャアン! と自転車と共に倒れ込んだ。
「賎しいくせに!」
怒鳴られた言葉に、青ざめる。
「他所からやってきてあんなとこに住み着くしか出来ない奴が、エドに近づくんじゃないわよ!」
それ以上、言ってはダメだ。
「海賊の血が!」
ああ、彼の、目の前で。
何も返さない私にまた腹を立て、ガッと腹を一発踏みつけやがったことも、散らばった荷物を蹴飛ばしやがったことも、自転車を壊されたことも気にならなかった。
彼女たちの去ったあと、私は彼に、何と言えばいいのか――そればかり考えていて。
「犯罪者の血が、町に出てこないで。吐き気がする」
そう捨て台詞を吐いた彼女たちの表情を、見る気にはならなかった。
ざりっと地面を噛んで去っていく足音が聞こえなくなってから、私はようやく立ち上がった。お腹が痛むし、張られた頬はヒリヒリするが、仕方ない。
「……帰りましょう」
自転車は壊れてしまったけれど、と笑い、けれど捨て置くわけにもいかないと持ち上げると、苛立った声が私を呼んだ。
「おい」
「何ですか」
「…………」
「……だから、何――」
「……ごめんな」
「――は」
何がごめん、なのだろうか。彼が何をしたっていうんだ。寧ろ海賊の子だからと蔑まれたせいで、不快感を与えたのは私の方なのに。
驚きに目を見開けば、唇を噛み悔しそうに下を向く彼がいた。
「守って、やれなくて」
「……は」
何を、
「おれがこんなんじゃなかったら、お前を守れたのに」
「な、」
「怪我、大丈夫か。痛い、よな」
苦し気に言うこの人は、本当に海賊だったのだろうか。町娘に傷付けられた私を、悔しそうに歯を食い縛って見つめる彼は、拳をきつく握る彼は、本当に。
彼よりも彼女たちの方がよっぽど――
けれどこうなったのも、私に海賊の血が流れるからで。それを海賊の彼に心配されるだなんて、なんと惨めなことだろう。
「……別に、よくあることです」
「よくある、だと……?」
低い声にびくりとしつつも、私は彼に心配をかけたくない一心で、焦りながら言葉を探した。
「よくありますよ。だって、海賊の子ですよ? まぁ流石に自転車を壊されたのは久しぶりですけど――疎まれて当然だし、それに彼女たちの好きな人がそんなのと仲良くしたりすれば、不快に思うのも当然でしょう」
「お前は、それでいいのか」
「……え?」
「それで、いいのかよ」
強い瞳が、怖かった。彼が私に何を言わせたいのか分からなくて――いや、分かってる。私の奥底で彼が望む正しい答えが扉を叩いているのは分かるのに、私にはそれを出してあげることが出来ない。
正しさは、いつだって私に優しくなかった。
「いいんです、必然だから」
慎重に蓋をするように呟くと、地鳴りのような低い声が彼から滲む。
「……くねェよ、何だよそれ! 必然だと? そんなもん、あるもんか! お前は何もせず、あんな奴らに負けるのか? お前は悔しくないのかよ!」
悔しい? 負ける?
――何を言っているんだろう、この人は。負けるとかそういう問題じゃない。生まれながらにして人は背負うものがあり、それは人それぞれ、千差万別。誰も平等なんかじゃない。
私と同じく海賊の、しかも海賊王の子である彼は、力を手にした人だ。未来を切り開くことのできない私とは、根本的に違うのだ。
定められた道を歩く。それの何がいけないんだ。
「明日、絶対あいつと出掛けろ」
「……なんで」
「あんな奴等に構うことない」
優しさから、こうして怒ってくれてるのも分かるのに。私は、私の生き方をまるで否定する彼に無性に腹が立った。
「……押し付けないで下さいよ」
「なに……?」
眉尻をピクリと上げる彼に、けれど口が止まらない。
「私に押し付けないでよ、あなたの生き方を!」
「な、押し付けてなんかねェよ! おれはただ――」
「押し付けてるじゃない! ……顔も知らない海賊の――父親の生きざまのせいでこんな惨めな生活をするしかないのに、あなたの正義を振りかざさないで」
「だから! お前は悪くねェんだ、見返せばいいじゃねェか!」
「見返す? 海賊の血を引く私に、それをする権利があるとでも? あなたのように、それを力ずくでやれと?」
驚いて口を開いたままの彼の次の表情が分かるのに。彼が傷付くと、知っているのに。どうして、止まらないのだろう。
「だから嫌いなのよ……自分の正義が正しいと思い込んでる海賊って!」
どうして、彼にぶつけているんだ、私は。
彼の瞼が、段々伏せていくのが、つらかった。言ってしまった後になって、息を呑んだ。
お互い何も喋らなかった。沈黙が、肌を焼いた。
「何で、おれはお前のとこに来たんだろうな」
「…………」
「本気で分かんねェが……今、死ぬより痛ェ」
はっと顔を上げると、くしゃりと顔を歪ませた彼と、目が合う。
「なぁ、聞いていいか。お前が俺を怖がってたのって、俺が幽霊だからか? それとも、海賊だから?」
なんてことを、聞くんだ――
暫くしても口を動かせない私に、彼はいつかのような渇いた笑いを浮かべた。そうしてテンガロンハットを深く被り直すと、また一つ、嘲笑う。
「参った。そんなに嫌われてるとは、思ってなかった」
違う。
「ほんとおれ、早く成仏するから」
違う。
「だから、なぁ、許してくれ」
違う。
許しがいるのは、私の方なのに。
「ナエマ」
あぁ、やっぱり。
さっき私を呼んだのは、彼だったのだ。一度だって私は、自分の名前を教えたことはないのに。彼の、名前だって。
嫌ってしまいたかった。海賊なんて、私を奈落へ突き落とした奴と同じなんて、そんな奴は振り払ってやりたかった。
でも。
「違います」
この人はこんな近くで、私の名前を呼んでくれる。側で笑ってくれた人を、傷付けたのは私だ。
「あなたは、エースさんです」
見開かれるその瞳の奥が、揺れる。
「海賊も、幽霊も、どちらも怖いです。でも、あなたは、優しい」
「な……」
「それなのに、私は。……偏見で、あなたのこと、何も、知らないのに」
あぁ、上手く喋れない。
「ごめんな、さ」
「――もう、いい。もういいから」
遮られた。本気でもう、嫌われたのか――私を蔑む彼女たちと同じように、彼にも愛想を尽かされるのか――
そう唇を噛んで俯くと、ふわりと何かが私を包んだ。
これは、
「……泣かないでくれ」
「…………っ!」
「泣かせたかったわけじゃないんだ、ごめん」
抱き締められてるのか。そこに彼が、いるわけではないのに。彼だって、私の服の感触一つ、分からない筈なのに。
「……ほんと、何でおれ、霊なんだ」
耳元で、苦しそうに吐かれた言葉。
「お前を、抱き締めてやれない」
ぷつりと。何かが弾けた。
今まで溜め込んできたもの全て流れ、そして土に染みる。それを引き出された喜びと、そしてそれをくれたのが、もうこの世にいない人だという悲しみに。私はまた、ずっと咽び泣いたのだ。
運命は、現実は。私に正しい優しさと、それだけじゃないものを寄越したんだ。