僕らはまだ未熟で、掴めるものさえ手にする術を知らなかった



瞳を見つめたまま言葉の続きを待ってみたけれど、あいにく用意はなかったらしい。苦笑した秋紀は「わりぃ。こんなん言われても困るよな」と俯いて、首裏を掻いた。羞恥と後悔が入り混じる表情に、考えるより何より先に、体が動いた。

きゅ、と掴んだワイシャツ。

離れてしまわないようにほんの少し歩み寄って、地面と自分の爪先ばかりが映っているんだろうその視界に入る。


「困らないよ」


背が高い。ぐんと上がった首の角度に今更そんなことを実感しながら、彼が言葉にしてくれた分の勇気を振り絞る。大丈夫。深く考えてしまいそうになるけれど、現実はきっと、そんなに難しくない。


「気になってるのは、私のピアノだけ?」


ゆっくり、見開かれた瞳。

すっかり固まってしまった彼が瞬きをするまで、たっぷり五秒の空白。口端が震えて、薄い唇が小さく動いて。でも、そこから音が聞こえることはなかった。視線だけじゃなく、顔ごとふいって逸らされたその耳が赤くて、手の甲をなぞる指先は、ひどく熱い。

まるで壊れものを扱うように重ねられた皮膚から、じわじわ広がる体温。彼の手は大きく、心ごと覆われているような錯覚が、胸を掻き立てる。


「だけじゃねえ、って言ったら?」
「……嬉しいって言うかな」
「マジで?」
「まじまじ。今嘘ついてもしょうがないじゃない」
「それもそうか」
「うん」
「じゃあ言うわ」
「うん」


デジャヴな言葉の応酬に、お互い少しだけ余裕が生まれたところで小休憩。溜まった熱を逃がすように息を吐いて、ようやく泳がなくなった視線が、今度は真っ直ぐに注がれた。


「なまえが気になってる」


ああ、もう。だけじゃねえって言うんじゃなかったの。せっかく返事だって心だって準備していたのに、なんで違う台詞を言うかなあ。

変わらず温度は熱いし、眼差しは真剣だし、声は優しいし、心臓はうるさいし、ずるい。彼の全部が、私の心拍を脅かす。ドキドキする。名前で呼ぶなんてずるい。でも、嬉しい。



さっき私がそうしたように、大人しく返事を待っている秋紀がなんだか可笑しくって、笑ってしまう。私も気になってるって言ったらどうするんだろう。照れるのか、狼狽えるのか、喜ぶのか。どう答えたらスムーズに前進出来るんだろう。もう一歩先へ踏み出すには、何を言えばいいんだろう。

たくさん考えて、言葉の引き出しを片っ端から開けて。でも動揺が尾を引く頭では、結局何も見つけられなかった。


仕方なく瞼を閉じて、さっき彼がそうしたように吐息をこぼす。半歩分、また少しだけ近づいて、触れている男の子らしい無骨な手をぎゅっと握る。細く見えて案外逞しい胸板に額を押し当てて紡ぐのは、心と共に準備していた、最初の音。


「嬉しい」


それだけで、今は精一杯。そんな私を抱き締めるだけで、秋紀もたぶん、精一杯だった。


何も言えない私達の代わり。
重なった心音が、愛を呼んでいる。


fin.




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