「あ、これじゃね?」
いろんなアーティストの譜面が並んでいる中。秋紀の長い指が引き出したそれは、正に探していたもの。
そうそれ、ありがと。そう受け取ろうと差し出した私の手を知ってか知らずか。パラパラと譜面を捲った彼はおもむろに振り返って「なあ、ちょっと弾いて欲しいんだけど」と、背後のピアノを指差した。『試演奏可能!』と書かれた札のついたそれは、鍵盤を押すと確かに音が鳴って、まあちょっとくらいならって両手をそえる。「何がいい?」って聞いたら「みょうじが弾けるやつ」なんてアバウトな返事。ちょっとだけ悩んだけれど、結局指が覚えているまま、去年の合唱コンクールの曲を弾くことにした。
優しく、淡く、強く。歌声の邪魔だけはしないように。でも、引っ張っていけるように。私の指が奏でる音ひとつひとつが、ちゃんと皆の心へ届くように。あの時は、練習も本番も、そんなことを考えながら弾いていたっけ。たった一年前だっていうのに、なんだか懐かしい。ピアノはあんまり好きじゃない。習っていた過去、いい思い出があんまりなくて、私より上手な子がたくさんいたから。でもやっぱり、自由に弾くのは楽しいと思う。誰かに弾いてって求められるのは、嬉しいと思う。
最後の一音まで大事に弾いて、終わり。
「やっぱ好きだわ」
隣で、ただじいっと耳を傾けてくれていた秋紀は、私が弾き終わるなり、そう笑った。羨ましいほど真っ直ぐな髪が、さらりと揺れる。
たぶんピアノのこと。私じゃない。それでも彼の声で象られた言葉に、心がざわついた。胸が痛くて、顔が熱くて、どうしよう。周囲の音が膜を張ったように遠く聞こえ、ひたすらに鼓膜を覆う大きな心音は、まるで胎動のよう。今朝、蓋をしたばかりの感情が顔を出す。ああ、恋って不思議。いろんなものが一瞬で溢れてしまう。昨日話すようになったばかりなのに、想いが募るスピードがあまりに速すぎてついていけない。一体どうしたらいいんだろう。どうしたらいいのかな、私。
「実はさ、一年の合唱コンで初めて演奏聴いて、他のよりなんか耳に残んなーって思ってて」
「……うん」
「どんな奴が弾いてんだろって気になって。……だから、知ってた。みょうじのこと、一年の時から」
―――合唱コンさ、毎年弾いてんじゃん
昨日の言葉が脳裏に浮かぶ。あの時秋紀は『良く知ってるね』って私の声に、歯切れ悪く相槌を打って視線を泳がせた。瞬きの瞬間、鮮やかに蘇る橙色。あの落ち着かない様子は、なるほど。こういうことだったのか。そりゃあ初めてまともに喋った女の子に、一年の時から知ってました、なんて言えないよね。でも今それを言うってことは、じゃあ、どういうことなの。まだ二日目だけど、私の気持ちと同じくらいの凄いスピードで、秋紀も気を許してくれているって。そう、捉えてもいいってこと?