僕は幸福であるべきだった



校内は禁煙だ、と取り上げられるのは、これで何回目か。人相の悪い三白眼に見下ろされ、渋々携帯灰皿を差し出す。まだ吸い始めたばかりの長い煙草が揉み消され、安くないのになあと、肩を落とした。


「イレイザーって暇なんだね」
「嫌味言ってねえで仕事しろ」
「ちゃんと全部終わらせましたー」
「なら帰れ」
「寮も禁煙じゃん」
「そこは守るんだな」
「部屋が黄ばむのも臭いが残るのも嫌だし、お隣さんに迷惑掛けたくないからね」
「吸える場所に行けばいいだろ。コンビニとかファミレスとか」
「やだ。一人でゆっくり吸いたいもん」


溜息とともに突っ返された灰皿を受け取る。溜息を吐きたいのはこっちの方だ。誰も通らないような別棟の端っこだろうと、煙なんてすぐに薄まる吹きっさらしの屋上だろうと、相澤さんは許してくれない。私専用のレーダーでも搭載してるんじゃないかってくらい、気付けばそこに居て、怖い顔をする。


「もう生徒じゃないし、ちゃんとお酒も飲めて煙草も吸える歳だよ」
「別にやめろとは言ってない」


それくらい分かっていると言いた気な視線に「さいですか」と肩を竦めてみせる。じゃあ何で相手にしてくれないの、とは言えなかった。



相澤さんが雄英高校に赴任してきた当時、私は高校三年生だった。経営科として関わることは少なかったけれど、個性的にも頭的にも事務処理に長けていたものだから、いろんな先生に重宝される内、なんだかんだ職員室で過ごす時間が多くなって、相澤さんとも話すようになった。

彼の仕事を手伝ったこともあれば、一緒にお昼を食べたこともある。きっとどの生徒よりも対等に見て可愛がってくれていたあの頃が、今は懐かしい。


良く出来れば頭を撫でてくれて、落ち込んでいる時は励ましてくれた。ダメなことは叱ってくれたし、間違った考えは正してくれた。
決して器用ではなかったけれど、しっかり自分を確立している大人であり、かっこいいヒーローであり、寂しい時は黙って傍へいてくれる男の人だった。


正直、惹かれていた。好きだった。

だからもう一度会いたくて、一緒に仕事がしたくて、この雄英高校に帰ってきたのだ。なのに、口を開けば禁煙禁煙。誘ったお昼には全然付き合ってくれないし、そこそこの勇気を振り絞って尋ねた連絡先は、必要がないと一蹴された。こんなことなら、まだ生徒だった頃にアタックしておけば良かった。そう後悔したところで、時間は巻き戻ってくれやしない。

気分はすっかりブルー。
そりゃ、煙草も吸いたくなるってもんよ。


「百害あって一利もねえぞ」
「三利くらいはあるよ」
「ほう。言ってみろ」
「内緒」


口寂しさが紛れるとか、何も考えずにいられるとか、いくら他の男で埋めようとしたってダメな心がほんの数分満たされるとか、そんなものは情けなくて言えなかった。残念ながら歳も見た目も、もう良い大人。


灰皿をポケットにしまう。じんわり滲み始めた感傷を払拭するように大きく深呼吸をすれば、夜のにおいが鼻腔へ広がった。

大丈夫。私は、使い勝手も要領も愛想も良くて、任された仕事はきっちりこなす、いつも冷静で落ち着いているパーフェクトスーパー事務員なまえちゃんだ。大丈夫。何も問題なんてない。

そんな、社会人になってから言い聞かせることが増えた台詞を胸の内側で唱える。そう、大丈夫。私の心は、そんなに弱く出来ていない筈だった。


「じゃ、お疲れっしたー」


片手をひらひらさせながら横を通り過ぎる。
相澤さんは、何も言わなかった。



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