幻影すらも愛しく思う



目が覚めると、隣の温もりは消えていた。
いつもそう。私の知らない世界で生きている彼は、日の出と共にいなくなる。触れたシーツは冷たくて、彼がいた形跡はもちろんのこと、彼の存在すら曖昧に揺らぐ。


継ぎ接ぎだらけの皮膚。冷たい瞳。軽薄そうな笑み。意外とがっしりした胸板。焦げたような匂い。

素性は知らない。荼毘、という通り名以外、彼について知っていることなど何もない。ふらりとやって来ては気まぐれに体を重ね、ひと時の安らぎを与えてくれる。ただそれだけの、ひどく希薄な関係に意味などない。


それでも、まるで野良猫を飼っているような感覚は、嫌いじゃなかった。どころか、彼の帰る場所が私の隣であればいいとさえ思う。しかし、ふつふつ沸き立つ恋にも似たこの不毛な感情に、行き場はなかった。

伝えてしまえば、彼はもう、ここには来ない。なんとなくそんな気がして、一人の朝はいつも寂しい。



気だるい身体を起こして、ペットボトルへ手を伸ばす。今は何時か。今日は出勤だっただろうか。
カラカラの喉へ水を流し込み、カレンダーを見遣る。指先でくるりと回したペンで昨日の日付に書いたチェックマークは、彼が来た印。


「良く来てるなあ」


今月に入ってもう三週目。先週も先々週も、印は四つずつ。今までは多くて週に二つだったっていうのに、なんだかなあ。
気に入られている証拠なのか、都合良く使われているだけなのか。多少なりとも嬉しいと思う反面、居着いてはくれない現状が憎い。


どこまで踏み込んでいいのか。あるいは、どこまで自分を曝していいのか。 人との距離感というものは、相手が誰であろうと難しい。

いっそのこと、何も覚えていられないくらい、どろどろに溶かしてくれればいいのに、荼毘と名乗る彼は、どこまでも優しくて酷い男だった。


誰もいないベッドの上。私しかいない部屋の中。優しく、甘く、私のすべてを包むように『なまえ』と囁く低音が、こんなにも恋しい。



 back >>