そんな『たとえば』を最近、ふと思う。
「……久しぶり」
「おう」
玄関を開けた先で短く返事をした姿は少し大人びていて、逞しくなったように見えた。
彼が入学した雄英高校が全寮制になってからというもの、家が隣同士で、今まで何気ない日々の中に存在していた当たり前が当たり前ではなくなって、言葉通りこうして顔を合わせるのは随分と久しぶりだ。ほんの少し話したのは夏に帰省してきた頃くらいだろうか。
あの時はあまり時間がなかったと記憶している。『今会えるか』なんて急な連絡に時間をさけるほど?私が暇ではなかったのだ。
「事前に連絡頂戴って前も言ったよね」
「あ? ちゃんとしてやっただろ」
「当日の朝六時だったけど」
「うるせえな、十分事前だろが。なんか文句あんのか」
「凄いあるけど……まあいいよ」
会いたいと思ってくれることは素直に嬉しい。この喧嘩腰な物言いすら愛しく思えるのだから、慣れってこわいとつくづく思う。
相変わらずの吠え声は右から左へ聞き流し、あくびをかみ殺す。
それにしても、この男は配慮ってものを知らないのだろうか。朝六時に『今日帰る』と連絡をくれたのはまだいいけれど、どうして我が家のインターホンを鳴らす時間までこんなに早いのか。まだ朝の八時を回ったところである。髪もボサボサだし、部屋着に毛布を羽織った格好だし、なんならチャイムの音で起きたといっても過言ではない。寒い。
「今帰ってきたの?」
「ああ」
「光己さん喜んでたでしょ」
「まだ会ってねえ。先にてめえのツラ見に来た」
「……それはどうも」
「てめえんとこの親は」
「さあ。仕事行ったんじゃない? いないし」
「ならさっさと上げろやノロマ」
「もう……一旦帰らないと心配するんじゃないの」
「うるせえな、ババァには昼間帰るっつっとるわ」
我が物顔で敷地内にズカズカ入ってくる遠慮のなさに、自然と溜息が出た。
小さい頃はよくこうして、お互いの家に転がり込んでいた。大きな吊り目をきらきらさせて「なまえは弱っちいからな!おれがまもってやるよ!」なんて男前なセリフを言っていた小さなヒーローが、今ではクソだのブスだのブタだの。時の流れとはおそろしい。
私の方が高かった背は、いつの間にか追い越されてしまっている。変わらないのは撫で肩くらいか。しっかり筋肉がついた背中をとりあえずリビングへ通した。
「コーヒーでいい?」
「ん」
朝から電車に揺られて疲れたのか、彼はリビングに入るなりドサッとソファに腰を下ろした。堂々たる大きすぎる態度を横目にインスタントコーヒーの蓋を開ける。
勝己が私の家にいるというのは、なんだか変な感覚だった。
「雄英どう?」
「どうってなんだ」
「んー……」
楽しいかと聞いたところで大した返事は、きっとこないだろう。
肩から毛布が落ちないように押さえながら、マグカップの内側をくるくる混ぜる。我ながら上手に淹れられたのでは、なんて思ってしまえるくらいのいい香りがキッチンを包み込んだ。
シンクにスプーンを放り、お母さんが脱ぎ散らかしたのだろうスリッパを引っかける。ぱた、ぱた。ぱた、ぱた。気の抜けた足音が可笑しかったのか、私を見上げたルビーの瞳が一瞬笑った。
ありがとよ。いいえ。
軽いやり取りの後、洗面室へ向かう。顔を洗って歯を磨いて、髪はひとつに縛った。どうせ出掛けはしないだろう。一旦自室へ戻り、適当な服に着替える。寒い。手繰り寄せたカーディガンに袖を通してリビングへ戻ると、勝己はテレビを見ていた。
同棲したら毎朝こんな感じかな。マグカップ片手に足を組んで、背もたれに身を沈めながらゆったりくつろいでいる姿に胸が鳴る。なかば忘れかけていた乙女心は、まだちゃんと健在らしい。
笑ってしまう。なんだかんだタイミングを逃し続けて、そろそろ二年半くらいになる。これが恋だと気付いた時からずっと、踏み出すことに、怯えている。
「何ボーっと突っ立っとんだ」
「……勝己がかっこいいなと思ってね」
「ハッ、今更かよ」
「まあ嘘だけど」
「……ナメとんか死ね」
「あ、もしかして嬉しかった?」
「ッンなわけねえだろ! ぶっ殺すぞ!」
「あああ、ほら、コーヒーこぼれるから落ち着いて」
マグカップの中で、ちゃぽんちゃぽん波立っているコーヒーに慌てて駆け寄る。ソファに片膝を乗り上げ、勝己の手ごと押さえるように両手で覆えば、温かいそれが小さく震えて止まった。めいっぱい眉間にシワを寄せているわりに、振り払われそうな気配はない。
良かった、カーペットにコーヒーの染みを作ることにならなくて。安堵に胸を撫でおろすと、勝己の大きな片手が私の手に重ねられた。
「相変わらず冷てえ手だな」
温めるように握られ、まるで心臓を掴まれたような錯覚に顔を伏せる。
個性のせいか、昔から体温は勝己の方が高かった。冬は手袋をするよりも手を繋いでいた方が温かかったことを思い出す。でもそんなのは、随分と幼い頃の話。こんな風に私の両手をすっぽり覆えるほど大きくて、少し傷があって、ごつごつとした男の手なんて知らない。
「さっき、顔洗ったから……」
一度意識してしまうと柄にもなく恥ずかしく、照れくさく。結局稚拙な言い訳しか出来ないまま、大きくなりはじめた鼓動を諌めた。