なみなみと夢うつつ



黙った悟の細く深い溜息を、メロディーラインが明るくさらった。お風呂沸いたよ。広い背中をとんとん叩く。ぬるい腕はほんの一瞬、わたしをぎゅっと圧迫してから離れていった。

一緒に入ろうと誘われて、ふたり分の着替えを持つ。悟はよく、わたしとお風呂に入りたがる。いつものことだった。







シャワージェルのボトルをあける。ほうっと広がるモダンな香りは、まるで良い女の代名詞。活気溢れるオレンジと透明感のあるローズ、気品漂うパチュリを泡立て身に纏う。さすがは有名ブランドのフランス製品。洗い上がりも申し分なく、スッキリしっとり。言わずもがな悟が買ってきた物だ。似合うから、と、彼は時折わたしを飾る。


「使ってくれてるんだ」
「うん」
「気に入った?」
「まあ。良い香りだね」


何がそんなに嬉しいのか。先に洗い終え、湯船を堪能している悟は満足そうに微笑んだ。ねえまだ? 急かされながら、別の香りで髪を洗って保湿する。しつこくなくて繊細で全く異なるブランドなのに、上手い具合に喧嘩しない。これも悟の選出品。


「お待たせ」
「はい、こっちね」


招かれるまま長い脚の間に浸かり、広い胸へと寄りかかる。いくら一等地のマンションといえど、規格内である浴槽は、規格外の悟と入ると結構狭い。


「もう少し広い浴槽のとこにすればよかったね」
「改装する? なんなら家建ててもいいけど」
「悟名義で?」
「なまえでもいいよ」
「わー無駄遣い」
「君のために遣う金を無駄だなんて思ったことないよ? 僕は」


淡々と交わす言の葉たちは、はたから聞けば恋人同士の甘言みたいに響くのか。ある意味夫婦のような、すっかりこなれた関係性。私生活を共にして、けれど恥じらいひとつ生まない心はずっと空っぽ。

いつだったか、硝子は不毛だと言った。悟が享受する“心地よさ”を互いに得られていないなら、わたしにとってだけではなくて悟にとっても不毛だと。


『どうしてなのかなまえが理解出来ないようじゃ、あいつも一生浮かばれないな』


落ち着いた笑い混じりの硝子の声が思考を占めて―――ぱしゃっ。湯面ごと、長い指に弾かれた。


「考えごと?」
「……考えてはない、かな」
「ふうん」


見上げた先、宝石さえも霞む瞳が不思議そうに瞬いた。誰もが見惚れる双眼に、色を持たないわたしだけが映りこむ。この瞬間も、硝子に言わせれば不毛なのだろう。何も得られず、何も育たず、何も芽吹かず、何も生まれず……。それでもきっと、悟にとっては意味がある。だからわたしと狭いお風呂に入りたがる。あがった後も同じベッドに寝っ転がって、わたしを腕の中に抱いて眠ろうとする。不毛だろうがなんだろうが、それが悟の、たったひとつの“安寧”だから。



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