「なんだ、帰ってたの」
「うん」
「お帰り」
「うん。ただいま」
気づいてたくせに、とは言わない。悟もそう。もし生徒や硝子が相手であれば続けておどけていただろう、起こしてくれればよかったのに、なんてたわむれ言は口にしない。ただ同じ空間にいるだけ。同じ酸素で息をするだけ。
「風呂沸かす?」
「悟は?」
「なまえが入るなら入ろうかな」
「じゃあ沸かそ」
「はいよ」
緩慢に起き上がった大きな背中が、洗面室へと消えていく。間もなく聞こえたシャワー音がやんだ頃、壁際の給湯器リモコンにランプがついた。
戻ってきた悟は爪先立ちのわたしの手からすくい取った大皿を、やすやす戸棚へしまってくれた。「ありがとう」と見上げれば「どういたしまして」と、荒れ知らずの唇が弧を描く。八方美人で軽薄そうな笑い方。大人になるうえで必要だった、彼が見つけてきた仮面。
「……」
にっこり微笑む傑が浮かび、ぱちりと消えた。しゃぼん玉みたいな記憶の破片は、こうして時折ふとした瞬間に思い起こされる。もちろん口には出さない。傑みたいな笑い方、なんて言えやしない。仮に悟が意図的にそう感じられるよう笑っていたとしても、悟が求めているような言葉を与えるなんて出来なかった。もとよりわたしは、与える側の人間ではない。生徒を守る恩情だとか義理だとか、正義感とか執念だとか。そんなものは産まれる時に母のお腹へ置いてきた。
ガラスコップを仕舞う。
「なまえ」
「なに? さと―――」
振り向きざまに抱き寄せられて、わたしの声は悟の胸へと吸収された。ほのかな甘みが鼻腔を抜ける。たとえばそう。生クリームとスポンジと加工された果物みたいな匂い。行ってきたのかな。スイーツパーラー。生徒を連れて。この間、新一年生が増えたのだと言っていた。術師にしてはスレていなくて可愛いのだと、すっかり大人の顔をして。
彼から外の匂いがしなくなったのは、いつからか。目を閉じて、薄ぼんやりと記憶を辿る。常に新鮮な脳みそをお届け、なんておどけ始めた頃くらいか。きっと生まれながらに刻まれている術式の影響だろう。雨も呪霊も虫も陽も、触れられるのは彼との狭間の無限だけ。それがどんなものなのか、わたしは知らない。わたしは一度も、無限に触れたことがない。
美青年である見た目にそぐわず、しっかり筋肉をしたためた腕に捕らわれる。私の温度を悟の温度が侵しゆく。まるでチョコレートが溶けだすよう。じんわり体があたたまり、伝わる鼓動は振り子に等しい一定速度。変化が多く見受けられる悟の中にも、不変はちゃんと残存している。
「変わらないね、君は。驚かないし、僕が飽きるまで受け入れる」
「なにも持ってないからね」
「たとえば?」
「あれが好き、これが嫌い。ああなりたい、こうあるべき、とか」
みょうじなまえというひとりの人間を誇示するものが、わたしの中には生きていない。
悟は否定しなかった。そんなことないよ、と庇うことも、お世辞だって言わないまま。ただ「そうだね」と。「昔っからそういう女だったよ。オマエは」と、懐かしい二人称を口にしながら静かに笑んだ。