「泣くなら泣くで、喚けば良いものを」
都合良く聞こえてしまっているのだろうか。ううん。違う。私の耳は悪くない。
いつからだろう。宿儺の声に刺々しさがなくなったのは。いつからだったろう。自分より下等であると見下していた小娘風情に嫌悪も躊躇もまるでなく、所有物を扱うような当たり前さを孕んだ皮膚で、触れることが増えたのは。
頬を包む手のひらと、目尻を擦る指があたたかい。
「ほら、泣きやめなまえ。そうしていると赤子のようだぞ」
「不愉快、?」
「そうではない。が、わざわざお前の好みを差し入れてやったのだ。割に合わん」
みっともなく震えてしまった唇を真一文字に引き結ぶ。啜った鼻を覆った熱は、言葉と共にゆっくりゆっくり嚥下した。何もかも綯い交ぜになった思考の海で沈む筈の脆い理性を、彼が生んだ違和感が、そっと確かに引き上げる。
割に合わないって、どういうこと。まさか、有難うこれが食べたかったの。そう嬉しそうに笑う私が見たかったのか。恐怖に歪む叫声こそが愉悦になり得る宿儺の中で、じゃあこのプリンは、私を笑顔にする為の謝罪代わりだったのか。
あーあ。気付きたくなかったなあ、こんなこと。やっぱり幾分大事にされているんじゃないかって、実感なんかしたくなかった。これじゃあ夢になれやしない。気の迷いで済ますなんて出来っこない。ご飯が美味しい。ただそれだけだったあの頃にさえ戻れない。だったらもう、ゼロから全部投げ出したい。遊ばれたって傷付いたって、どうなったっていいからもう、早く楽にして欲しい。曖昧なまま勝手に揺れて惑うのは、今日で終わりにしてしまおう。大丈夫。出来るよ。
私から終止符を打つ方法が、たったひとつだけ喉にいる。
「ねえ宿儺?」
「ん?」
「……好き」
「、」
見開いた四つ目に苦笑がこぽれた。そりゃあビックリしちゃうよね。咄嗟に言葉が出ないくらいには意外性があったらしい。これでいい。小馬鹿にされてからかわれないだけ、まだマシだ。
息を吸う。酸素が肺の底を浚う。すっきりとはいかないけれど、突っかえていた蟠りは綺麗さっぱり取れていた。後はそう。もう一度、あの時使った“構わないで”を紡ぐだけ。
けれど先に伸びてきた、宿儺の片手に捕らわれた。下から掬い上げるよう。やや強引に顎を掴み持ち上げられた唇が、開く前に塞がれる。至近距離で私を射止める赤い瞳の奥の奥。燻る焔が、ケヒッと笑う。
「もっと喜べ、と言いたいところだが、その腑抜けた顔もまた一興だな?なまえ」
「……」
「驚いて声も出んか。良い良い。どれ、少し可愛がってやろう」
呆気にとられている内。それはそれは柔い力で抱き竦められ、私をすっぽり包んでしまった体温が、皮膚の下まで沁み透る。やがて鼓膜を震わせ始めた鼓動の音は、波のように穏やかでいて規則的。それから少しばかり早かった。
どうやら気まぐれに慰めているわけでも、弄んでいるわけでもないらしい。好きって意味、ちゃんと分かっているのかな。いや、キスされたってことは理解しているだろうけど。
Tシャツを握りながら仰ぎ見る。晴れ晴れとした彼の喉が、くつくつ鳴った。
「しかし、そんなものが理由だったとは。良いのか?呪いだぞ?」
「……良くないから言ったんだけど、宿儺、私のこと結構気に入ってたんだね」
「ふん、愚問だな。お前とて気付いていると思っていたが」
「まあそりゃ、……薄々」
態度だけで勘違いしてしまいそうなくらいだった、ってことは伏せておく。悠然とした普段の余裕が、なんだか少し癪だった。
「会ってない間、考えてくれてたの?」
「多少だ。思い上がるな」
口では釘を刺しながら、声の色も眼差しも、私に並々注がれる一つ一つが安寧を物語る。残念ながら、慈愛の類が含まれているかは汲み取れない。彼にとっては、きっとキスなど造作もないことだ。一世を風靡していた千年前、数多の女を侍らせていたに違いない。だから推し量ろうだなんて思わない。ただもう一つ、言いたかったことがある。たとえ宿儺に赦されなくても、人として私が私を赦すために、言っておきたいことがある。
「ごめん宿儺。私この間、あなたにひどいこと、っ」
吐き出しかけるや否や胸を襲った霧のような罪悪感に、思わず喉が引き攣った。見つめ合ったままではどうにも耐え切れず、彼の首元へ顔を埋める。怒られるかと一瞬不安が過ぎったけれど、応えてくれた吐息混じりの「気にするな」が杞憂に変えた。宿儺特有の低い声が「過ぎたことだ」と耳殻へ寄せられる。
「その分、愉しませてみせろ。なまえ」
後頭部を撫でる手付きは、まるで生後間もない赤子を愛でるよう。ちゃんと指で触れていながら髪の表面をさわさわ散らし、反対の手で丸まっている背骨をあやす。つい笑ってしまう、呪いらしからぬ優しさが、私の五臓六腑すべてを麻痺させた。