ただ冷熱を辿るだけの

―――



 チャイムが鳴った。今の今まで数えるほどの音しかなかった教室が雑音の海に呑まれていく。やがて押し寄せた笑い声という名の荒波は、私の静謐さえもさらっていった。

 教科担当がいなくなり、間もなく現れた担任教諭が教壇に立つ。その仰々しい靴音は教師である自身の存在を誇示するようにも、生徒達のざわめきを蹴散らすためのようにも聴こえた。

 トントン、角の剥げたバインダーが教卓に打ち付けられる。


「えー、近頃この辺りで不審者の目撃情報が出ています。登下校は気を付けて、なるべくひとりで帰らないように―――」


 いつもと同じ。気怠げな声色に義務的な終礼。早く終わらないかなあ。

 外はすっかり夕焼けで、地平線の向こうに沈みつつある太陽をぼんやり眺める。赤、オレンジ、黄色と空を綾なす色彩をひとつふたつと数えていれば、存外早く号令がかかった。



 下校する生徒の流れに沿って教室を出る。階段は下りず突き当たりを曲がった先、校舎を繋ぐ広い渡り廊下には既にたくさんの背中が集まっていた。皆がこぞって見上げているのは、窓を塞ぐ三枚のA3用紙。学年別にテスト成績上位十名の名前が載った順位表だった。まるで見世物同然だ。

 野次馬の後ろに立って待つと、ものの数分で文字が視認出来る位置が空いた。肩を引いてすべり込む。

 一位 爆豪勝己、二位 緑谷出久、三位……常連組が堂々と連なる中、私の名前はそこになかった。いつも五位以内にあるはずの私の名前がどこにもない。ああ、やっぱりダメだったね。
 パシャリ。めずらしい光景に心の中のシャッターを切る。こうすることで視界のままの風景を記憶の引き出しにしまっておける。


 冷静だった。落胆だとか悔しさだとか、一切合切なにもない。そういう感情は努力したからこそ湧いてくるもので、欲したからこそ溢れてくるものだからだろう。私は努力も望みもしていない。ただ、お誂え向きの“個性”を持っていて、いつの間にか周囲の期待に応えることが当たり前になっていただけ。本当は全然賢くないし凄くもない。個性があるから、個性を使っていたから成績が良かっただけのこと。使わなければ、私の実力なんてこんなもの。五位どころか十位にさえも入れない。
 でもこれでいい。むしろ、この結果でないとダメだった。もう期待なんてされたくないから、きっとこれで分かってもらえる。そもそも最初から期待してもらえるような人間じゃなかったことを。だからこれで、よかったよ。


――普通科なら雄英高校だって夢じゃないぞ

――名字さんならもっと上を狙えるわ


 耳にタコができるくらい周りの大人達から言われた言葉が頭の中でこだまする。
 ねえ、嘲笑える。ほら見てよ。志望校、雄英にしなくて大正解だね?

 彼らは名声が欲しいだけ。自分の生徒が、娘が、将来有望な国立入学を果たしました。そんなつまらない一文が、さぞ輝いて見えているのだろうと思う。そもそも個性ありきの私が世界最高峰の授業についていけるだなんて、それこそ夢物語も甚だしい。あいにくそんなに頑張れない。私は優秀なんかじゃない。

 今までずっと、流されるままに生きてきた。こうなりたいああなりたいって夢も意欲もまるでなく、ただ強い期待に無理やり背中を押されながら歩いてきた。十年どころか一年先も想像できない、ひどく不安定な未来像。輪郭さえも覚束なくて、好きな色もあやふやで。

 たとえば今、最後の最後まで首位を冠した同級生の彼のように、確かな目標を掲げて前進することなんて私には―――。


「うわまた一位かよ。すげぇなカツキ」
「たりめーだろ。雑魚と一緒にすんじゃねえ」


 思考が止まる。幾度となく遠くで耳にしてきた声が、すぐ近くでハッと笑った。噂をすればなんとやら。いや、べつに噂をしていたわけではないけれど、思い描けばなんとやら。

 顔を見なくたって分かる。首位を冠しきった同級生の彼だ。去年と一昨年同じクラスだった爆豪勝己。なぜかいつも席が近くて多々日直が重なった。まあ彼は覚えていないだろう。自尊心の塊みたいな性格で、典型的なジャイアン気質。決して好きなタイプじゃない。でも、それでも、羨望と憧れが芽吹いてしまうくらいに強くて利口で鮮烈で、私にないものを全て持っている人だった。


 そっと反対側へはけ、階段を下りる。

 気分は悪くない。けれど、ぽっかりあいた胸の穴に確かに居座り始めた感傷をこのまま抱いて帰れはしない。図書室にでも寄って、頭の中をクリアにしてから帰ろう。そう思った。


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