劇薬を孕んだ指先で
―――図書室から出たのは外がすっかり暗くなって、蛍光灯の白さが眩しく目を焼いた頃。
校門をくぐって家路を辿る。そういえば今日は、お母さんが夜勤の日。お父さんは銀行員で単身赴任の真っ最中。誰もいない家にはたぶん晩ご飯もないだろう。そう帰り道のコンビニでゼリー飲料を買った。
横断歩道を渡り、街灯がぽつぽつ続くだけの住宅地内をゆっくり進む。道路と敷地を高い塀で隔てている家が多いからか、夜道は随分薄暗い。それよりも、さっきから襲いくるこの違和感はなんだろう。湿り気を帯びた妙な視線。一定の距離を保ったまま、ついてきているように思える足音。なんだか嫌な予感がして、今すぐ駆け込みたい気持ちを抑えながら自宅前を通り過ぎる。ただの勘違いであってほしい。そう願いながら何度か角を曲がってみたけれど、足音がやむことはなかった。
ふと浮かんだのは、担任の気だるげな終礼。近頃近辺で不審者の目撃情報が出ています。
「……、」
スクールバッグの持ち手を、ぎゅっと握り締める。きっと立ち止まらない方がいい。このまま走らず振り向かず、出来るだけ明るい道を選んで大通りへ出よう。今にも竦んでしまいそうな足を𠮟咤しながら必死に歩く。だんだんハッキリ感じる視線、近付く足音、詰められていく距離。恐怖が煽られ、喉が詰まる。膨れあがった不安が大きく鼓動を乱し、いよいよ膝が固まり始めたその瞬間、
「ッにする気だテメェ!」
大きな怒号と爆発音が飛んできた。粉塵を伴う爆風に圧されてしまい、倒れた拍子についた手とお尻が痛い。巻き起こった土煙の中、目の前に立つシルエットには覚えがあった。仁王立ちの向こう側は良く見えない。ただ「な、なんのことかな?」ととぼけた男の声が、薄汚れた茶色い革靴で逃げ出したことだけは分かった。
「待ちやがれクソが!」と、一歩踏み込んだ彼のズボンを咄嗟に握る。動揺ゆえの反射だった。
「あ゙!? てめ離―――」
「っ……、……」
「……たく、落ち着け雑魚。まだなんもされてねえだろが」
すぐそこまで出かかった怒声を溜息に乗せた彼―――爆豪くんは、心底面倒くさそうに眼前へしゃがんだ。情けなくも小さく震える私の手を「大丈夫だ、もういねえ」と、ほどくように掴みあげる。そうしてしっかり、目線を合わせてくれた。まるでヒーローが来たかのような、絶対的な安心感。戦闘向きの強個性を持っているからか、いつだって憧憬を纏う人だからか。とにかく全身を覆ったそれは、肺で行き場を失っていた二酸化炭素の排出をゆっくりゆっくり促した。
灯りを反射し綺麗に光る赤い瞳が、じんわり滲む。みっともない。そう涙腺を引き締めながら瞼を擦り、謝罪とお礼を絞り出す。
「ごめん、ありがとう」
まだたった二言で精一杯の私が、既に心の拠り所である彼の手を離せるはずもない。けれど大きく舌打ちをした爆豪くんは、暫くそのままでいてくれた。ようやく落ち着いて立てるようになってからも、わざわざ近くの交番まで付き添って一緒に報告してくれた。革靴の男はスタンガンのような物を持っていたようで、たまたま夜のランニングで居合わせたと言う爆豪くんに、再度とても感謝した。そのうえ自宅の門前まで送ってくれたのだから驚きだ。ジャイアン気質が目立つわりに、ヒーロー育成最高峰の雄英を受ける資質はそもそも備わっているのかもしれない。
三度目のお礼と共に、頭を下げる。
「本当にありがとうございました」
「いいから早よ入れや」
「せめてお見送りしようかと思ったんだけど」
「チッ、……じゃあな」
両手はポケットに突っ込んだまま、踵を返した大きな背中。途端にフラッシュバックする茶色い革靴、近づく足音、妙な視線。ぬめりを孕んだ気持ち悪さと、得体の知れない恐怖心。勝手に伸びた指が、彼の服の裾を捕らえてハッとする。
「あ?」
「ご、ごめん……」
「……」
「ほんと、ごめん。……気をつけて帰ってね」
慌てて離した手を引っ込めて、いつも通りの笑顔を作った。やだなあもう、恥ずかしい。小学生じゃあるまいし、これくらいで怖がっていてどうするのか。
彼が言った通り、何かされたわけじゃない。ちょっと尾けられただけ。初めてだっただけ。大丈夫。大丈夫なはずなのに、突き刺さる無言の圧に手が振れない。お願いだから何か言って。もしくは気にせずお帰りください。そう祈っている内、私の頭上を見上げた視線が戻ってくる。
「今日家一人か」
「そう、だけど」
「……着替え詰めろ」
「え……?」
「ッだから、着替え詰めて歯ブラシ持ってさっさと泊まる用意してこいっつっとんだ分かれやクソが!」
「、」
夢でも見ているのかって、目の前がチカチカした。