透きとおる余白
―――葉桜が、そよそよ揺蕩う朝七時。
「行ってきます」
リビングからの返事はない。コーヒー片手に新聞を読むお母さんと目が合うことも殆どない。折寺中学を卒業してから、ずっとこう。でもいいの。これでいい。ようやく期待から解放されて、自分に見合った高校生活を過ごす今、気分は多少晴れやかだった。
女子ばかりの高校は、良くも悪くもオープン志向。幸いクラス仲は良好で、授業の歩みも丁度いい。当然個性に頼る必要がなく、許容オーバーで起きる頭痛もなくなった。それだけじゃない。今まで英単語や数式だらけだった脳内アルバムに、綺麗な景色をとどめておける。自分も個性も環境も、生まれて初めて好きな感じ。
ただやっぱり、将来に対する不安は拭い切れていない。見ないふりはしているけれど、心の隅にずっとある。ふとした瞬間、たとえば今。下校して、駅のホームで独りになると降って湧く。きっと散々言われ続けて育ったせい。私がまだまだ弱いせい。当たり前だ。高校生になったからといって根本が変わるわけじゃない。一足飛びに成長するなら、いっそ学校なんていらない。可愛いブレザーを着ていても、どうしたって後ろを向いてしまう。そのくせ上を見てしまう。これからだ、って思いたいのに思えない。やりたいことも見付からない。
こんな私が一体何になれるのか。誰かの役に立てるのか。自分でお金を稼いで生きていけるのか。最低でも家は出たい。あんな家には居たくない。そう言えるだけの何かを身に着けなきゃいけない。未来って、むずかしい。
白線の内側で電車を待っていると、視界の端を灰色ブレザーが横切った。緑のラインに金のボタン。つられるように振り向けば、いつの間にか、乗り換える雄英生が増えていた。立派だなあ。眩しいなあ。目を焼く夕陽、国公立を纏った堂々たる姿、それから薄いクリーム色に、赤い、目―――。
「ばくご、くん」
思わずこぼれ落ちた名前は、殆ど吐息と変わらなかった。声とも呼べない微かな音が喧噪の波に流される。だからたぶん、聞こえていない。距離もある。なのに彼と目が合った。相変わらず射抜くような強い視線。真赤以外の色彩が途端にぼやけていって、どくん、と鼓動がひとつ鳴く。
肩で風を切るように歩いてくる彼は、イヤホンを片方はずしていた。
「よぉ、ビビり」
「……覚えてくれてたんだね」
「ハッ、この俺が忘れるかよ。なんならフルネーム漢字で書けるわ。ナメんな」
ばくごうくん。爆豪くんだ。ブレザー姿、似合ってる。
驚く私を鼻で笑い、易々隣に並んだ背。一緒に帰っていた数ヶ月前が蘇り、なぜか体が固まった。あんなに毎日会っていて無言のままでも落ち着けたのに、今は心も頭も忙しい。高揚感と緊張感。それより何か話さなきゃ、って焦りが思考を急き立てる。喉がこんなに渇いたこと、確か前にもあったな。
「受かったよ」
「見りゃ分かる。つーか受かって当然のレベルだっただろ」
「うん。爆豪くんもおめでとう。首位入学、凄いね」
「フン、たりめえだ。一位以外興味ねえ」
軽快なメロディーを引き連れてきた電車に乗って、揃って扉脇に立つ。間もなく車輪が大きく唸り、車体が揺れた。
爆豪くんとの会話はない。話し掛ければ答えてくれるだろうけど、あいにくなんにも浮かばない。ビルの向こうへ夕陽が沈み、今日も夜がやってくる。暗い色の車窓には、遠くを眺める赤い瞳が映えていた。時折横切る白い灯りが、流れ星みたいに見えた。
同じ駅で一緒に降りて、改札を抜けたところで立ち止まる。さようならを言おうと思った。彼の家と私の家はそんなに遠くないけれど、駅からの帰路は逆方向。また会える保証もない。これが最後になるならちゃんと、今度こそ、あの時言えなかった別れを伝えたかった。けれど爆豪くんはお構いなしで、あろうことか、私の家へと続く道を進んでく。
「ちょ、爆豪くん!」
「あ?」
慌てて追えば、歩調が少し緩まった。
「どこか寄るの?」
「は?」
「爆豪くん家、こっちじゃないから」
「……てめえの家はこっちだろうが」
「え」
どうやら送ってくれるらしい。いつからその気だったのか。本当に久しぶりだから、もしかしたら懐かしくなったのか。見上げるばかりの横顔は、一瞥さえもくれやしないから判らない。ただ少なくとも機嫌は良い。静かな瞳や空気感からそんなことだけ読み取れて、でも、そんなことだけ分かればもう充分だった。
怒っていない。不機嫌じゃない。無言でも気まずくない。焦りも緊張も、電車内でじっとしているあたりから消えていた。それなら後は、送り届けてもらった時に伝える言葉を探すだけ。あの時言えなかったこと―――ううん、違う。言うべきだった後悔が、まだ心の奥に残ってるから。
「爆豪くん」
見慣れた門扉が近付いた頃、数歩手前で呼び止めた。ん、と単音で応じた彼が振り返り、パシャリ。せっかくだから心の中のシャッターを切る。目が合うのは本日二回目、駅のホーム以来だった。
「夜、平気になったよ」
「……みてえだな」
「ありがとう。助けてくれたのが爆豪くんで良かった」
「……」
気を付けて帰ってね。何も言わず、体ごと向き合ってくれた爆豪くんを見上げながら微笑みかける。ただの自己満足だし、今更だ。付き合わせてしまって申し訳ないと思ってる。でも私なりの償いと私なりのケジメとして、どうか受け取っておいて欲しい。あの頃私から打つべきだった、精一杯の終止符を。彼にそんなつもりはないと分かっていても、これ以上優しくされたらきっと、縋ってしまうから。
街路灯がぼんやり夜をくり抜く中。私を見下ろす瞳がすうっと細まって、鼓膜を揺する、いつもの低声。
「じゃあな」
付随して名前は呼ばれなかった。ただ真横を通り過ぎる時、随分雑に、くしゃりと髪を掻き撫ぜられた。最後じゃない。そう言われているようだった。