名もない痕ばかり
―――どういうつもりだったのか。湯舟に浸かり、ぬくもりながら考える。都合の良い方へ傾かないよう自分自身の弱さを律し、膝を抱いて目を閉じる。瞼の裏で、彼の手のひらを思い出す。
大きくて、あたたかかった。たった一瞬の感触は、けれど今も頭の上に残っている。あれはなんだったのだろう。賢く敏い彼のこと。私が告げた別れは理解された筈。餞別代わり、もしくは今まで何度も想定してきた気まぐれか。誰かに頭を撫でられるなんていつ振りか。覚えていない。寂しいような、嬉しいような。胸の底からじわりと滲んで締め付けてくるこの感情は、なんだろう。
「……出よ」
ちゃぽん。湯面に波紋が広がった。
濡れた髪を乾かして、無人のダイニングでご飯を食べる。お母さんはたぶん夜勤。静まり返った家は全然寂しくなくて、むしろ随分ホッとする。最初から、こんな風に放っておいてくれたらどんなに良かったか。分かってる。たらればを幾つ唱えたところで、過去は微塵も変わらないし戻れもしない。
洗い物を済ませてシンクを拭いた。電気を消して自室に上がり、化粧水を染み込ませてから鳴らないスマホを充電する。ベッドに潜って、おやすみなさい。今日はなんだか疲れたけれど、とても良い日だったような気がしてる。それもこれも爆豪くんのおかげだ。彼に会う度私は勝手に救われて、胸の奥がむず痒くなる。
日々は当たり前に過ぎていく。目覚まし音に起こされて、寝惚け眼で電車に乗って登校し授業を受ける。あの先生は話が長い、他校の先輩がかっこいい、新作コスメが良い感じ。何にも囚われず今を楽しんでいる友達の話を聞きながら、お昼を食べる。放課後は基本ひとり。皆やりたいことがそれぞれあって、帰宅部なのは私くらい。でも運が良い日は、爆豪くんと駅のホームで鉢合わせた。
彼はいつも腰履きズボンのポケットに手を突っ込んで、黒いイヤホンをつけている。私に気付けば片方はずし、隣に寄って来てくれる。会話はぽつぽつしかしない。体力測定があったこと、戦闘訓練は面白いけど救助訓練はクソなこと、もうすぐかの有名な雄英体育祭があることなんかを言葉少なに話してくれる。彼が口にする雄英生の日常は、到底私が味わえないものばかりで退屈しなかった。
どんな曲を聴いているのか尋ねた日から、時折イヤホンを貸してくれるようにもなった。流行りのポップスから重低音がお腹に響くロックまで、彼の守備範囲は結構広い。ひとつのイヤホンを分け合っている時間はあまりに穏やかで、ずっと続けばいいのに、なんて夢を見る度自嘲した。これじゃ強くなれないね。
「じゃあね」
改札を抜けて微笑みかける。弱い自分を振り切るように、もう何度もそうしてきた。ここで大丈夫だよ、って。でも爆豪くんは、私を家まで送ることをやめなかった。結局腹を括った“最後”はいつまで経っても訪れないまま、夏の気配が頬を掠める。
嬉しい反面、痛かった。夢を追って日増しに進んでいる彼と、未だ流れているだけの私。もう嫌だっていろんなものに反発して、初めて自分で挫けながら選んだ道。そこでくすぶっている。
もちろん、比べるだなんて失礼だ。彼と私じゃ月とスッポン。その間には雲泥の差があった。実際、テレビで観た体育祭で見事一位を勝ち取った爆豪くんは遠かった。表彰台で縛り付けられながらも暴れている姿はちょっと可笑しかったけど、それでもブレない凄い人。まるで芸能人みたい。どこか別の、知らない国のヒーローみたい。
なのに、手を伸ばせば届く場所にいる。声が聞ける距離にいる。名前を呼べば応えてくれる眩しい光がそこに在るから、私の翳が浮き彫りになる。完璧を突き付けられて、後ろ指をさされているよう。ただの被害妄想だ、って自覚があるのに掻き消せない。進みたくても、どっちが前だか分からない。
女子高生を楽しんでいる皆みたいにもなれなくて、疎外感が吹き溜まる。せめて部活をすれば、とも思ったけれど、好きなものと向き合っている彼女達は輝いていて、とてもじゃないけど入れなかった。
―――こんなんじゃダメだ。気分転換に出掛けよう。
だんだん上手く笑えなくなってきた頃、身支度を整えて外へ出た。今日はせっかくの土曜日で晴れている。家でこもっていても仕方なかった。
何も考えないようにして、行く当てもなくのんびり歩く。空を見上げ、ほら私の悩みなんて小さいでしょって言い聞かせたり、木々の緑や揺れる葉陰、野良猫のあくびなんかを眺めて心を癒す。大丈夫。なんとかなるよ。具体的な夢も希望もないけれど。もう季節も移り変わるっていうのに、私だけ、置いていかれたままだけど。
「……」
「あれ、名前ちゃん?」
ハッとして顔を上げる。そうして初めて、俯いていたことを知る。視線の先には買い物袋を提げた光己さんがいて「やっぱり!」と、明るく笑いかけてくれた。
「こんにちは、光己さん。お久しぶりです」
「久しぶり。覚えてくれてて嬉しいわ。どこか行くの?」
「いえ、散歩してます。良い天気なので」
「確かに家でいるには勿体ないわよねー。私もそう思って買い物行ったんだけど、ホットケーキミックスが大安売りでつい買っちゃって。勝己は甘い物苦手だし、まだ学校だし。良かったらウチで食べていかない?」
「いいんですか? ご迷惑じゃ、」
「ないない! ひとりより誰かと食べる方が美味しいでしょ」
「……じゃあ、お邪魔させてください」
「ええ」
嬉しそうな光己さんに連れられて、談笑しながら足を進める。
ひとりより誰かと食べる方が美味しい。そうか。自然とそんな言葉が出る人が作るから、爆豪くんの家のご飯は、あんなに美味しいんだ。